看護師の恋
外来看護師の長谷部さんは、シングルマザーだ。
年齢は30歳前後だと思われるけど、お子さんがいらっしゃるとは思えないほど、綺麗な人だ。
髪は動きやすいように短くしているのに、整った顔立ちのせいで、すごく女の人のとして魅力を感じる。
外来を担当してもらった時、患者さんへの優しい態度と笑顔に、私まで癒やされている。
それなのに、男性とお付き合いしているという噂をまったく聞かない。
まあ、子供がいると、それどころじゃないよね、と納得はしていたのだが。
彼女のいない日に、ふと彼女のことが話題になり、隠れた事情を聞いてしまった。
彼女はシングルマザーであるが、結婚はしたことがない。
それどころか、子供の父親が誰なのか、誰も知らないという。
強姦されたとか、そういうことではない。
ただ、付き合っていたことすら誰からも気づかれず、妊娠に至ってもなお、本人は相手が誰かを秘匿している、という。
その秘匿程度は徹底していて、ご両親からの追求にも答えず、結局誰も解らずじまいだったという噂だ。
誰が父親なのか、やっぱり当初は憶測が飛び交ってしまったが、本人が明るくさっぱりとしていたので、やがてそんな話も出なくなったとか。
なかなか衝撃的な事実だ。
シングルマザーと聞いた時もびっくりしたけれど、まさか父親が誰かを本人以外知らないなんて言うことがあるとは……。
まあシンプルに考えれば、相手が結婚されているのだろう。許される話でも本来はないのだが、今のところは誰も困っていない。
あの笑顔の中に、やはり誰でも何かを抱えているのだ、とあらためて実感した。
……この話には続きがある。
ある時、私の外来に赤ちゃんを連れたお母さんが受診に来た。
受診している間、母親の代わりに佐々木さんがその赤ちゃんをあやしてくれていたのだが、患者さんが帰った後に、
「……もう一人欲しいなぁ」
と彼女がつぶやいたのだ。
「赤ちゃんかわいいよね」
「本当に」
そんな軽いやり取りをしたが、私はすぐに忘れてしまっていた。
3ヶ月後に彼女から妊娠の報告を受けるまでは。
……明るく、「妊娠しました!」と言われたが、「あっ、おめでとう」と言うのが精一杯だった。
なにしろ、またもや旦那さんが誰か解らない。
他のスタッフももう慣れたもので、明るく「おめでとう!」と言っているだけだ。
まだお付き合い一つしたことのない私にとっては、ただただ衝撃だった。
思わず、願えばコウノトリさんが運んでくるんだっけ、と医師にあるまじき想像までしてしまったぐらい、衝撃的だった。
相手が既婚者であった場合、やはり許されることではないと思う。
ただ、すべて受け入れて、一人で子供を育て、慈しんでいる彼女の姿は、美しいとすら感じたのだった。
女の人は強いよ。
酔っ払うと「可愛い看護師さんを嫁にほしい」が口癖の私にとって、一番仲の良い病棟看護師の佐々木さん。
すでに心のなかでは嫁認定しているので、良く一緒に飲みに行っている。
とはいえ、彼女にはお付き合いしている男性がいることは知っているし、すごく仲の良いことも知っている。とても優しい人らしい。
私達が飲みに行くのは、そんな彼が夜勤の時とかに限られているらしいが、それにしても回数が多くないかな、と思うことはあった。
仕事終わりに、恒例の居酒屋で佐々木さんと私の二人で飲んだ後のこと。
「……先生、ちょっと散歩しません?」
「いいよ、いいよ」
ほろ酔いで気分のいい私は、二つ返事で引き受けた。
夜風に吹かれながら、二人で歩いて川べりまで歩いてきた。
魚野川という夏は鮎がとれるきれいな川で、ここは水無川とは違って年間を通して水が流れている。
人気のない川べりの草むらに、彼女が腰掛けたので、私もその横に座った。
満月が空に浮かんでいて、暗闇の中でもお互いの表情はけっこうしっかり見えるぐらいには、明るかった。
隣の彼女を見ると、いつもの明るさがない。
なにか悩みがある、ということはすぐ解ったので、私はしばらく黙っていた。
「……先生、相談させてもらっていいですか?」
「もちろん」
「私……すごく、相手のことを……束縛してしまうんです」
「…………」
ぽつぽつと彼女は私の知らない話を語り始めた。
父親の浮気で、両親が離婚していること。
母親について生活していたが、その母親があらたにお付き合いしていた人も、二股をしていたことがあったという。
二度にわたり彼女は、母親が苦しむ様子を近くで見てしまった。
綺麗な彼女はたびたび男性からのお誘いを受けるが、そんな過去のために今までお付き合いをしたことはなかったらしい。
今の人は本当に優しい人で、実直で、不安はあったが今のままではいけないと思って付き合い始めたらしい。
彼は本当に彼女のことを愛している様子で、今のところ浮気の心配もなさそうという。
でも、相手のことを好きになるにつれて、彼女の束縛が始まってしまった。
会っていない時に何をしているのか、どうしても気になるようになってきた。
日に何度もLINEでいま何をしているか確認をしたり、
時には証拠として自撮り写真を送ってもらったり。
携帯電話も相手に断ってではあるが、定期的にチェックしてしまう。
彼は、愛されていることが解るからいいよ、不安がおさまるまで好きなだけやっていいよ、と優しく接してくれるのに、どうしても不安がおさまらない。
これではいけないと思えば思うほど、束縛をしてしまうらしい。
私以外と遊びに行かないで。
かならず一日の様子を報告して。
朝起きたら電話、寝る前も電話して。
一日一回は「愛している」と言って。
最近は、共通の友達に、彼がもし怪しい行動があったら教えてほしい、とお願いまでしてしまった。もちろん、友人は笑って「彼に限ってそんなことはないよ」、とは言ってくれたが。
ただその後、その友人が「でもね、逆にあんまり束縛しすぎると、男の人って嫌気が差すらしいよ。程々にしておいたほうがいいよ」と言われてしまった。
彼女もそれは解っていた。いつまでの彼の優しさに甘えていてはいけない。これは自分が乗り越えるべきコンプレックスなのだということを。
「でも、どうしても不安で……」
そう言って、彼女は泣き出してしまった。
飲み会が多いのも、夜勤の彼と会えない日は不安になり、そのうち本当に夜勤なのだろうか、他の誰かと会っているのではないかと思うと、誰かと飲まずにはいられなくなるからだと、告白した。
「先生……ごめんなさい……」
「……そうか……楽しそうに飲んでいた裏に、そんな不安を抱えていたんだ……」
彼女は膝を抱え、顔を伏せてしまった。おそらく、泣き顔を隠しているのだろう。
私もすぐに答えることができず、しばらく彼女のすすり泣く声だけが、小さくあたりに広がった。
「恋愛経験のない私に相談する時点で、ちょっと人選間違いを感じるけど。でも、相手がいいと言っているのだから、あまり気にしなくてもいいと思うけど」
「……でも、超えないといけないことは変わらないと思う」
「……そうだね。確かに」
難しい問題で、安易に答えは出ない。
それに、相談と言いながらも、本当は答えを欲しているわけではないのかも知れない。
ただ、胸に秘めた思いを誰かに打ち明けて、受け止められれば、彼女の心はそれだけでも救われるとは思う。
ただ、私はあえて答えることにした。
「私はね、これは希望なんだけど、二人で戦ってほしい」
「二人で戦う?」
「うん。これは、恋人同士であるならば、こうであって欲しいという、あくまで私の希望なんだけどね」
「…………」
「二人がお互いに全てを隠さずに思いを出し合って、乗り越えるべき壁を二人で戦って乗り越えてほしいんだ」
「二人で」
「私はね、ここにきて、一人って決して強くないな、と思うんだ。誰かに助けられて、ようやく生きていける。せっかく二人で生きていくならば、困難はふたりで乗り越えて欲しい。その時に、勇気と希望を持って、戦うように前を向いて欲しい」
彼女はようやく顔を上げて、私の方を向いてくれた。
月明かりが、彼女の頬の涙をてらして、きらきらと輝いて見えた。
「好きで楽しい時はどのぐらい続くのかな。でも、それから先は、好きだけでは乗り越えられない壁が何度もやってくると思う。その時に、二人で乗り越えようとするのが当たり前の二人であってほしいの」
これは希望論であるし、理想かも知れない。
でも、私は「愛」というものを信じたい。
「できるかな」
「わからないよ。でもやってみる価値はあると思うよ」
「そうだね。彼は協力してくれるような気がする」
「いい人だと思うよ……本当は私のお嫁さんになってほしいけどさ」
彼女は、くすりと笑ってくれた。
やっぱり女の子は、泣き顔より笑顔のほうがいいね。
「先生、もし振られたら、私をもらってくださいね」
「いいよ。いつでも養ってあげる」
「……なんかそれもいいな。先生、ありがとう。ちょっと楽になりました」
「うん」
そうして二人で、しばらく綺麗な月と静かな川の水面を眺めていた。
女の人は、弱くもあるのです。




