オムレツ 2
毎日、毎日、朝晩には顔を出し、時間ができたときにも顔を出した。
焦らず、踏み込みすぎず。
ゆっくりとこぼれ落ちる言葉を、岩から滲み出るしずくのように拾い上げる毎日。
焦ってはいけない。
ゆっくりと待ってあげたい。
私にはゆっくりに見えても、おそらく本人にとっては全速力で走っているのだから。
ある晩のこと。
午後9時をまわり、ようやく一日の仕事が終わった私は、帰り支度をして病院内の暗くなった通路を歩いていた。
1階の外来ブースを通り過ぎようとしたら、暗闇のなか、窓の外の月を見上げている人影を見つけた。
寝間着を着ていたので、患者さんだなということはすぐ解った。
9時過ぎだと消灯の時間なので、本来ならばここにいてはいけないはず。
そう思い、近寄ってみたら、その人影ははるかちゃんだった。
「あっ、はるかちゃん」
人影は突然声をかけられたせいで、びくっと体を震わせたが、声をかけたのが私と解るとホッとした表情に戻る。
「あかり先生……」
「うん、どうしたの?」
「先生はいま帰りですか? 遅くまでご苦労さまです」
うーん、やっぱり人のことも気を使えるいい子だなぁ……。
本当になんで入院にまでなってしまったのだろう。
それでも、薬が効いてきているのか、少しずつ食事も食べるようになってきていたし、入院当初ほどの暗い表情もだんだんとなくなってきていた。
私は病棟に電話して、はるかちゃんがここにいること、後で必ず病室まで送り届けることを伝え、そのまま近くのソファに座った。
「はるかちゃん。眠れないんだよね。良かったら話をしようか」
「…………」
仕事終わりの私を気遣って、戸惑っているのは解った。
それでも、話もしたかったのだろう。すこしの逡巡の後に、こくりとうなずき、私の横のソファに座った。
あたりのライトはすべて消されていて、窓からの月明かりだけが、二人のことを照らしていた。
青白い光の中で、彼女の顔はやはりどこかつらそうで、悲しそうだった。
まだ、彼女はひとり戦っているのだ。
誰にも気づかれず、ひとり、心のなかで。
「……先生、何のために生きればいいのですか?」
おっと、いきなりヘビーな質問だ。
生きている価値、意味か……私も高校生の時、悩まなかったわけではない。
「生きていることは本能なんだけどね。生物はどれも、死に対する恐怖を持っているのだけれど……」
彼女は、むしろ生きていく恐怖のほうが大きいのだろう。
「本能……ですか」
「うん。でも聞きたいのは、そういうことじゃないよね」
「…………」
隣に座る彼女の目を見ると、恐ろしいほどに澄んでいて、真剣に身体全部で向き合ってこようとしているのが解った。
その思いには、応えたい。
間違えずに、伝えられるといいな……。
「私もね、やっぱり高校生の頃に悩んだことがあるんだ」
「先生でも?」
「うん。誰もが、とは言わないけれど、悩んだことがある人は多いと、私は思っている」
「そうなんだ……」
自分だけではないことに、いくらかほっとしたようだ。
「私もね、仲の良かった年上の人に相談したよ」
「……なんて言われたの?」
「『自分なりでいいから、誠実に一所懸命生きて。そして、そんな自分を褒めてあげなさい』」
彼女の顔がすこし困ったような表情になった。
『一所懸命』というのは、彼女にとってはつらいキーワードだ。
彼女としては、精一杯頑張っている、もうこれ以上頑張れないぐらい。
だから私は優しく彼女の頭を撫でた。
「大丈夫だよ。はるかちゃんは十分に頑張ってるよ。だから『自分なりでいい』の」
彼女の瞳がみるみる潤んで、涙がゆっくりと頬を伝う。
また、泣かせてしまった。
必要な涙だとは思うけど、見ていると私もつらくなる。
この子はどれだけ頑張ればいいのだろうか。
私はしばらく、頭や背中を撫で続けるしかなかった。
それからどのぐらい時間が立っただろう。
彼女がふとつぶやいた。
「……先生。失敗……こわくないですか?」
「怖いよ」
「先生でも怖いの?」
「うん、私も怖い」
「……じゃあ、なんで……」
なぜ、怖くても、進めるのか。
「……例えばね、泳げないのにどうしてもプールで泳がないといけない時。プールに飛び込むまでが一番怖い」
「…………」
「飛び込んでしまえば、ただがむしゃらで、怖い気持ちはどこかに行ってしまうことを知っているから」
「…………でも」
「飛び込むのは怖いよね。溺れるかも知れないし。でも、ずっとプールの縁にいてもつらいし、いまあきらめても、いつかまた飛び込まないといけない……」
「解っている。解っているの……」
一度止まりかけていた涙が、また溢れ出す。
……背中を押しすぎちゃったかな。
彼女はまだ良いほうだとは思う。
ひどいいじめにあったとか、両親から虐待を受けていたわけではない。
ただ小さな失敗の積み重ねが、結果に応えられずつかれたため息が、彼女を臆病にさせてしまった。
それでも、彼女は飛び立とうとしている、と私は思う。
怖がりながら、泣きながら。
その視線は空を向いていると感じる。