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水の無い川  作者: 京夜
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日本酒とお蕎麦


「いやー、命は重たいわ……」

「先生、お疲れさまです」


 そう言いながら、事務のイケメン君こと、遠川くんは私の切子のお猪口に冷酒を注いでくれた。

遠川くんは、私担当の案内係にでもなっているのだろうか。よく気にかけて声をかけてくれる。大学病院ではほとんど会う機会のない事務職員だが、この規模ゆえなのか、よく会うし、話をすることも多い。

 私としても、優しいイケメンと話ができると、心癒される部分は否定できない。


 ここは駅近くにある蕎麦屋。


「先生、まだあまり美味しい店知りませんよね」


 と言って、彼が教えてくれたのだ。

 せっかくだし奢ってあげるから一緒に食べようよ、と誘うと、彼も嬉しそうについてきてくれた。何となく、揺れる犬のしっぽが見えそうだ。


 お店はまだできて数年ぐらいの、きれいに落ち着いた和風のお店で、所々に置かれた一輪の花までセンスの良さが光っている。

 もう一組のお客さんはいるが店内は静かで、飲んでゆっくり話をするには、とっても雰囲気の良い所だった。


 蕎麦が来るまでの間、だし巻き卵をつまみながら、冷酒を飲む。

 これがまた、最高に美味しい。


「新潟の日本酒が有名なのは知っていたけれど、今まで日本酒が美味しいと思ったことなかったよ……」

「……先生、それ、理由があるんですよ。知りたいですか?」

「えっ、なになに、知りたい」


 今まで美味しいと思ったことがないのに、美味しいと思えた理由? しかも、それを彼は知っているという。

 彼はちょっと嬉しそうに笑いながら、答えてくれた。


「日本酒は、すぐに味が変わってしまうのです」

「そうなの?」

「はい。ワインもよく、温度管理が悪いとすぐに酢のようになってしまう、といいませんか?」

「……言うね」

「日本酒もそうなんです。温度もそうだし、空気に触れてもすぐに味が変わっていってしまいます。だから本当は旅をさせちゃいけないんです。地酒の開けたてをすぐに飲まないといけないのです」

「あっ、なるほど」


 解るような気がする。

 今まで感じた、日本酒の何というか刺激というか辛味と言うか、そういった嫌な成分がないのだ。

 むしろ水に近いかも知れない。そこにほんのりとしたお米の甘みを感じる。

 それが、だし巻き卵に乗っけた辛味の大根おろしと、かけた醤油とすごく合うのだ。


「他にも理由はあります。水が美味しいんです」

「……雪解け水?」

「そうなんです。お酒は冬に作られるのですが、お酒のほとんどは水ですし、お米も水と太陽からできています。水が美味しいと、お酒も美味しくなります」


 私は、初めて来た日に見た「水無川」のきらきら輝く水面を思い出していた。

 本当に澄んだ、きれいな水だった。


「それは美味しいわ……」


 私は注がれた日本酒をまた一口、口に運ぶ。よく冷えたお酒がするりと喉を通り過ぎた。

 そこに良いタイミングで頼んでいたお蕎麦がやってくる。

 私は揚げたての天麩羅がそえられた、天ざるそば。

 遠川くんは、鴨南蛮だ。


 天ぷらには何と、お塩がついている。大きな海老の天ぷらに、その塩を少しつけて口に頬張ると、口の中でなんとも言えない旨味が広がる。

 そして、蕎麦を一口すする。汁の出汁がまたいい。


「くぅぅ、うまい! なんで、なんでこんなに美味しいの?」

「お蕎麦もまた、水ですよ。美味しいお蕎麦屋さんって、おいしい水のところにありません?」

「あっ、そうかも……水って凄いね」

「気に入ってもらって、嬉しいです」


 彼はまるで自分のことを褒められたかのように、喜んでいた。


 いいな、笑顔って。

 なにかそれだけで、美味しくなるし、楽しくなる。


「さらにウンチクを語っていいですか?」

「なになに、まだあるの?」

「はい」


 彼はそう言って、机の上に置かれた日本酒のボトルをあらためて見せてくれた。


「今回頼んだのは、朝日酒造さんの『久保田 千寿』というお酒です」

「うんうん」

「これは精米歩合によって、百寿、千寿、萬寿って分れているんです」

「あっ、聞いたことがある。精米をすればするほど、高くなるって。大吟醸とか」

「そうなんです。削る分たくさんは作れないから高くなりますが、だからといって必ず美味しくなるとは限らないんですよ」

「そうなの?」


 高ければ、うまいんじゃないの?!


「精米歩合の数字が高い、つまりあまり精米していないほうがスッキリしていて、料理は合ったりするんです。高いお酒は、お酒だけで味わいたいですね」

「あっ、なるほど。そういうものか」


 私はまた蕎麦をひとすすりしながら、深くうなずく。

 東京にいたときは高ければ美味しいと、疑いもなく飲んでいたけれど、そういうわけではないのだな、とあらためて納得した。


「さらに、翠寿、紅寿、碧寿などがあります」

「まだあるの?!」

「冷にすると美味しい、とか、熱燗にすると美味しいとか、さっぱりした料理に合うとか」

「…………凄いね」


 そうか、言われてみればそうだ。飲み方や、料理によって飲み物もいろいろ変わるべきで、同じ蔵元でも、いろんなお酒を提供しているはずなのだ。

 でも、東京だと大体一つの蔵元からはひとつのお酒が置かれていた。

 多分、地元ならでは、あるいは本当に違いを理解して、店の人が購入しているか、なのだろう。


 私はあらためて、東京は慌ただしかったのだな、と思いを馳せた。

 大学病院時代は、とても勉強になったし、楽しくもあった。

 次々に病人がやってきては治していくことの繰り返し。言い方は悪いがベルトコンベアー式で、効率よく、たくさん経験するには最適な状況であった。

 ただ、そこで「患者さんや家族の生活背景」を考える余裕があったかと言うと、疑問を感じる。

病気を診ていた。

人を見ていたか……今となっては自信がない。


そして、自然のありがたさ。特に水の偉大さ。

本当に、日本はなんと水の恵みに満たされた国だったのか……。

考えてみれば、人間だって60%は水でできている。

食事を食べなくてもしばらく生きていけるが、水がなくてはすぐに身体は駄目になってしまう。

調子が悪い人が来ると、まず呼吸の具合、そして点滴だ。


今までと見ていた光景が、明らかに変わった気がする。


「新潟に来てよかった」

「本当ですか?」

「本当、本当。イケメン君の顔を見ながら、お酒を飲めて幸せ」

「……先生。見かけは10代の美少女、頭は27歳の女医。そして、中身は50代の親父ですね」

「うるさい。……お酒ついで!」

「はいはい」


 指摘されて少しばかり気分を害した私の一方で、彼は嬉しそうに、まるで懐いた大型犬のようにせっせと日本酒を注いでくれた。


「先生、純米酒と本醸造と普通種の違いって知っていますか?」

「なになに、それ知らない」



 ……ちなみにこの晩、私はきれいに酔いつぶれ、彼に背負われて家まで送られたとさ。



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