別れ 1
初めてのことだったが、仕事が手につかなかった。
外来をやっていても、思考がすぐに止まってしまい、不自然な間が空いたりしてしまった。
看護師さんから心配されてしまったが、
「すこし体調が悪いかな」
と言って誤魔化すしかなかった。
原因は解っている。
今夜、圭吾と会う。
何を言うかは、それまでに何度も悩んでいたので、ほぼ決まっている。
ただ、なんと言われるのか、それが解らなくて不安になる。
相手にどう思われるのかが、これほどまでに私を不安にさせるなんて……。
時間が近くなるにしたがって、緊張のあまり頭痛と嘔気を生じるほどだった。
夕食も食べられず、早めに家に帰り、私はぼーっとその時を待った。
ここに来てから、本当に時間が過ぎるのが早かった。
そして同時に、遅くも感じた。
田舎で、自然が豊かで、ゆったり時が流れていることがあった。
川べりで、ずっと流れを眺めていたこともあった。
雪がしずかに降り積もるなかを、ただ佇んでいたこともあった。
その一方で、救急の患者さんの対応に、1分1秒を大切にすることもあった。
時を忘れるような語らいや触れ合いもあった。
それは、どれもが大切で、貴重な時間だった。
当初は誰も行かないのであれば、と選んだ場所だったけれど、本当に来てよかったと思っている。
そして、その時間の中に、圭吾がたくさん側にいてくれた。
こんなことは初めてで、私もその居心地の良さについ甘えてしまった。
いつかは離れないといけないことは解っていたのに。
正直に言って、離れがたい。
引き裂かれる、という言葉の意味を、私は初めて感じていた。
実家から離れる時は、ただただ開放感と先への期待で、そこには惜別感とか離れがたさなんてなかった。
まだまだ圭吾と一緒にいたい、という気持ちがある。
……でも、私はそれが愛なのか、恋なのか、正直に言って自信がなかった。
ただ自分の居心地が良くて、甘えているだけなのじゃないか、とも感じる。
私は医師としてはまだまだで、ここに残るという選択肢はいま取れない。
いつかは戻ってくることもあるかも知れない。でも、それも未確定だ。
ただ今は、ここは離れることだけが確定している。
ならば、彼についてきて欲しい、と伝えるのか。
恋か愛かも解らないのに、
ここにある仕事、家族、友達、そして生活を捨てさせて。
やっぱりできない、と思う。
何度考えても、そうすべきではない、という結論になる。
そして、それを伝えるのが怖くて、
それなのに、別れるのがつらくて。
なんて私はわがままで、自分勝手なのだろう。
私は木の床に座り込んだまま、ぎゅっと自分を抱きしめた。
そして、ふと時間を見ようとして上げた視線の先に、綺麗な月が浮かんでいた。
静かで、凛としていて、ただただ美しいと思う。
その白さに、ようやく少しずつ心が穏やかになるのを感じた。
ピンポーン
玄関のチャイムが鳴る。
圭吾が来た。
来てくれた。
会いたくないような、会いたいような。
ちょっとだけ重い身体を動かして、私は階段を降りて、玄関の扉を開けた。
扉の外には、いつもの圭吾が。
真剣な顔なのに、ちょっと笑顔を浮かべてくれて。
なんか、胸に色んなものが押し寄せて、ぐっと来てしまった。
「おじゃまします」
「……うん。上がって」
二人で階段を上がり、テーブルの周りの、いつもの床に座ってもらって。
二人分のコーヒーを用意して、私もすぐ近くのいつもの場所に座る。
圭吾は一口だけ飲んで、私の瞳をじっと見てくる。
私の言葉を待っている。
そうだね、私から話さないとね。
「……医局からの返事があって、3月末で大学に戻ることになった。私は残りたい、せめてもう一年ってお願いしたけれど、駄目だった」
「……はい」
「ここを離れないといけない」
「……はい」
「…………私は……君を……好きなんだと思う……」
「…………」
「離れたくない、と思っている……でも、どうしても君を連れていくことはできない」
「…………はい」
私はそれ以上、何も言えなかった。
いろんな言い訳をしたかった。
いろんな気持ちを伝えたかった。
でも、胸の中で、その思いは混ざるばかりで、口からは出てこない。
こんなに、胸が苦しいのに、言葉にならない。
「僕は、あかり……が、好きです」
「…………」
「大好き、……だと思います」
「……うん」
「愛しています」
「うん」
「離れたくないです」
「……うん」
駄目だ。こらえていた涙がひとつ、こぼれる。
つらい。
つらいよ。
「でも、付いていけないことは解ります。あかりは僕だけじゃなくて、みんなにとっての光で、たくさん待っている人がいます」
「…………」
「僕では、どうしても、足手まといになる」
「……そんなこと、ない」
「対等ではいられない」
「…………」
「男として、それは嫌なんです」
ああ、そうなんだ。
そんな思いを抱いていたんだ。
私にとっては、私に出来ないことができるスーパーマンみたいな人で。
私にとっては、圭吾こそが光だった。
でも、彼は対等だと思っていなかった。
あの笑顔の向こうで、そんな苦しさを抱えているなんて、知らなかった。
「ごめんね、気づいてあげられなかった」
「いえ、僕が乗り越えるべき壁だったのに……乗り越えられなくて、ごめんなさい」
「…………」
「僕のせいで、一緒にいられなくて……ごめんなさい」
「あやまらないで、私が悪いのだから。私がただ甘えていた」
本当にそう思うのに、彼は首を横に振る。
「僕が甘えてほしかったのです。好きな人が、僕を必要としてくれる。それが凄く嬉しかった」
「…………」
「甘えてくれて、嬉しかった。……泣きたいぐらいに」
「……うん」
やっぱり優しいね。
すべて許してくれちゃうんだね。
本当に、本当に、ごめん。
ごめん。
「あかり……さん、ひとつだけわがままを言っていいですか」
「……なに?」
「……抱きしめていいですか」
圭吾の瞳が私をじっと見つめる。
私もね……。
「私からお願いしてもいい?」
「はい」
「いっぱい、抱きしめてくれる」
「……はい」
圭吾が座ったまま近寄ってくる。
そして、大きな腕で、私を包むように抱きしめてくれた。
「…………」
人の肌の温かさと柔らかさ。
何となく、いい匂いがして。
幸せって、きっとこういうことなんだ、って思う。
でも、
でもね。
「うっ……うぅ……」
圭吾が泣いている。
一度も泣いたことのない圭吾が泣いている。
私はそっと自分の手をまわし、圭吾の頭を撫でる。
そして反対の手で、身体を抱きしめた。
愛しい、と思う。
そして、とても、切ない。




