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水の無い川  作者: 京夜
12/31

肺炎


 午前の外来の最後に、咳が出て息苦しいという63歳の男性が来院した。

 しきりに咳をしてあらい呼吸をしているが、農家をしているとのことで体型はがっちりしていた。

 症状が出始めたのは昨夜ぐらいからで、急に悪くなってきたのだという。

 胸の男を聞くと、湿った痰が転がるような音があって、呼吸回数がかなり頻回だ。

 肺炎が強く疑われた。


「苦しそうですね。すぐに写真を撮りましょう」


 そう言って、私はレントゲンをオーダーした。

 看護師さんも重症感を感じたのだろう、すぐに車椅子に患者さんを乗せて、いそいでレントゲンを一緒に撮りに行ってくれた。


 60代の男性なんて、肺炎だとしたらむしろ若いほうだ。なのに、急激に悪化しているのはなぜだろう。

 隠れた糖尿病があるのか、それともエイズなどの免疫不全があるのか。

 あるいは、稀な菌が感染しているのか。


 いくつか考えを巡られていると、患者さんが酸素をしながら返ってきた。

 レントゲンを確認すると、すでに重度の肺炎だ。


 内科部長にも相談し、この患者さんは集中治療室に入院することとなった。



 肺炎でやるべきことは多くない。

 酸素をしっかりと行き渡らせること。

 そして、原因の菌を同定し、効果のある抗生剤を使うこと。

 十分な酸素投与と、広域の抗生剤の指示出しつつ、痰の採取をして検査室に向かった。


 痰を調べるのだ。

 何の菌かすぐには同定できないが、あたりはつけられる。

 検査技師にも助けてもらい、顕微鏡で痰の塗抹を眺めた。


「……グラム陰性桿菌……」


 おそらく投与した抗生剤で効果があるはずだ。

 なんとかなるだろうと、安心したのもつかの間、集中治療室からコールがあり、出ると患者さんの呼吸状態が悪化していると。


 内科部長の医師とともにすぐにベッドサイドに駆けつけ、状態を確認する。

 残念だが、あきらかに来院時より悪化している。

 マスクでの酸素投与では、もう足りない。


「挿管ですね」

「そうだな」


 挿管というのは、自力での呼吸は無理だと判断し、管を気管まで挿入して人工呼吸器につないで呼吸を管理することだ。

 そうすると当然会話もできなくなるし、意識も眠らせるので、家族と本人の了承と時間が必要になる。

 部長先生と二人で家族や本人に話し、了承を得て、準備を整えた。


挿管をするのは私の役目だ。幸い、麻酔科を研修しているので回数はそれなりにこなしている。


「アンビューバッグは用意してあるね。じゃあ、始めましょう」


 挿管をする時、薬を用いて一度患者さんを眠らせる。そうすると、こちらで呼吸を管理してあげなければ、酸素が行き渡らずに死んでしまう。

 何度やっても、この瞬間は極度に緊張する。


 幸いに導入もうまくいき、一度のトライで挿管できた。

 チューブを人工呼吸器につなぎ、呼吸を乗せる。

 機械的な呼吸リズムに乗って、患者さんの呼吸が管理され、状態が安定する。

 看護師スタッフも含め、ようやく安堵の息が漏れる。


 ただ一息をついたら、これから長い戦いが始まる。


 人工呼吸の設定を調整して、それぞれが短い時間で夕食を済ます。


 看護師は、交代制で夜勤者に変わるが、私はこれから……徹夜だ。



 部長先生は、8時頃まで一緒にいてくれたが、


「何かあったら呼んでくれ」


 と言って、自宅に帰られた。



 6名ほどの患者さんが眠る集中治療室は、午後9時になると消灯になる。

 あかりは消されるが、そこかしこに置かれたモニターの光や、机のライトで困らない程度には照度が保たれている。


 私は患者さんのそばに行ったり、モニターを見たり、呼吸器の機械に触れて、もっとも良い呼吸状態を作り出そうと、設定を変更する。


 それでも、ゆっくりと呼吸状態が悪くなっていくのが、数字で出てくる。


 何か間違っていないか、何かできることはないか。

 ステロイドを使った方が良いのか。

 抗生剤をかけ合わせたほうがいいのか。

 いろいろと考えを巡らせるが、どうしても今以上のことは難しい、という結論にたどり着く。

 それでも、不安になってしまう。


 できる限りの事をしている。

 それでもこぼれ落ちようとして命を、なんとか救いたい。


 低下する血圧に補液の追加と、昇圧剤を用いる。

 投与する酸素も最大値まであげた。


 もう本当にできることがない。


 外を見ると、すでにうっすらと朝日が昇り始めていた。

 もうそんな時間なんだ。

 それでも、眠気もおとずれない。


 ただ、心臓の拍動を示すモニター音に、ただ祈るようにたたずんでいた。




 結局、その患者さんはそれから2時間後に亡くなった。


 家族に経過の説明をして死亡確認をする。

 急な出来事に家族だって、受け入れることができない。それでも亡くなったことが真実だと解ると、誰もがベッドのかたわらで泣き出した。



 救えなくて、ごめんなさい。


 言葉にはできなかったが、患者さんに、家族に心のなかで謝罪する。

 できる限り事をやり、間違いもなかったはずなのに、ひどく胸のあたりが重く感じた。



 すべてのことが終わった後、私は医局のソファにくずれ落ちるように座り込んだ。


 本当にあれでベストだったのだろうか。

 高次病院に転送して、体外循環を回すべきだったのか……いや、状態的にそれも厳しい。

 家族にもっと一緒にいてもらう時間をとってもらうべきだったのか……それは解らない。ただ、最期まで治療をあきらめられず、ただ看取ることなんてできなかった。


「はあ……」


 私はひとつ小さなため息をついた。

 しんどい仕事だと思う。

 楽でもない仕事だと思う。

 きっと、これから何度もこんな思いをするのだろう。

 そして、きっと慣れることなんてない。


 この思いは、もっと勉強をして、もっと良い医療を提供しようとする思いと行動でしか消化できないことを知っている。


「この気持ちを……一生忘れない……」


 私は一度だけ強く目をつぶる。


 そして、今日の診療のために立ち上がった。



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