八海山 2
何度かの休憩をはさみつつ、だいぶ頂上が近くなってきた。
岩肌のゴツゴツした場所が多くなってところで、それはあった。
「なにこれ」
「登山ルートです」
「聞いてないよ」
「話してないですね」
「騙したな」
「大丈夫ですって。たいした距離ありませんから」
何があるかと言うと、鎖だ。
つまり、登山ルートが岩場になり、狭い通路、崖登りのための鎖があったのだ。
人ひとりしか通れないので、後ろの人のためにも止まってはいられない。
「ぎゃー、怖いー!!」
「さすが先生、怖がりながらも進んでますよ」
「聞いてないよ! なんでこんなに歩くところが狭いの。落ちるよ!」
「落ちませんから大丈夫です。いざとなったら支えます」
「どうせならおぶって!」
「そうしたいのは山々ですがね……山だけに」
「こんな時にそんなダジャレいらないー!」
私は半泣きになりながら、鎖場を登りきった。
確かに、それほど距離はない。
でも、岩肌を見ると、足を滑らしたような跡があったりして、心を落ち着かせるのは無理な話だった。
「ご苦労さまです。もう後は大丈夫ですよ」
「……もしかして、帰りもまたここ通るの?」
「遠回りですけど、迂回路で行きます?」
「迂回路、あるんかい!!」
そこから突き落としていいよね。
私にはその権利があるよね。
鎖場から頂上までは、それほど距離はなかった。
心は疲れ切っていたが、身体はまだなんとか大丈夫だった。
「ほら、先生。頂上ですよ」
そう言われて、登りきったところで、あらためて顔を上げた。
一面の空、そしてあたりに広がる山々。
私は一瞬、苦しさを忘れた。
「…………」
空は相変わらず雲ひとつなく、その青さがいつもより濃く感じた。
そして、いつも見えた山並みが眼下に広がっている。
「あー、たしかに気持ちいい……」
山を登る人の気持ちが解る気がする。
登るまでの苦労はあるが、確かに登りきったときの達成感、爽快感は気持ちいい。
何というか、心が解き放たれるような開放感がある。
景色をよく見直すと、新幹線の線路が見えたり、それをたどっていくと、あそこはおそらく自分の家あたりだ。病院ははっきりとここだと見つけることができた。
「病院が見えるよー」
「見えますねー」
「田んぼ広いねー」
「広いですね」
はしゃぐ私を、楽しそうに遠川くんが相槌を打ってくれる。
そんな時、リュックに付けていた携帯電話がなった。
「……頂上も圏内なの?」
「山の中で遭難した時は、携帯が命綱です」
携帯を取り受けて見ると、病院の病棟からの電話だった。
『先生、お休み中にすみません。408号室の近藤敬三さんが熱発してしまったのですが、どうしましょうか』
入院の主治医をしている患者さんの熱が出たらしい。とはいえ、様子からはそれほど緊急性はなさそうだ。
「バイタルは大丈夫なんだよね。なにか症状ある?」
『大丈夫です。サチュレーションも低下してません。少しだけ咳が出ています』
「なら、今日は発熱時の指示を用いておいてください。明日、診察します。もし状態が悪化したら当直先生にお願い。今は駆けつけられないところにいて」
『……先生、いまどこか聞いても?』
「八海山の頂上」
『……駆けつけるのは無理ですね』
電話の向こうの看護師さんがくすりと笑った。
『解りました。お楽しみ中にすみませんでした』
「いやいや、連絡ありがとうね」
電話をきって、もう一度病院を眺める。
「飛んでいけるといいんだけどなぁ」
「急ぎですか?」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
「良かったです。じゃあお昼ごはんを食べません?」
あれ、私おやつは買ってきたけど、お弁当ないよ。
「実は先生の分も作ってきました」
遠川くんはそう言って、人がいるあたりを少し避けた岩場に腰を掛けて、かわいいお弁当箱を開けてくれた。
そこには、きれいに詰められたサンドイッチが並んでいた。
「おぉー、ありがとう!」
さっそく私も、彼の横に座る。
気のはやる私に、まずはお手拭き、次は水分とつぎつぎに渡してくる。
彼がそうなのか、最近の男性がそうなのか、女子力が高くないか?
それとも私が低すぎるだけなのだろうか……。
残念な考えが頭をよぎるが、それを横に払い、受け取ったお茶を飲む。冷たい液体が喉元を滑るように落ちていく。
そして、いよいよサンドイッチだ!
「いただきます」
「はい、どうぞ」
「おっ、凄い。ツナやハムだけじゃなくて、これはもしかしてローストビーフ? サラダもパリパリしていて美味しい!」
「先生、慌てなくていいですから、たくさんありますよ」
「わーい」
先生と呼ばれているけど、はたから見れば、彼が先生で私が生徒に見えるじゃないかしら。
……そんな事を考えながら、ふと私は上目遣いで彼に言ってみた。
「ねぇ、お兄ちゃん。あかりに食べさせて!」
「ブフォッ!」
おぉ、思いの外、盛大に吹き出したな。
「げほっ、げほっ。……先生、急に何言っているですか」
「いやあ、病院を出たらいい加減、先生というのもどうかと思って」
「そうならそうと言ってください。……意外に威力ありましたよ」
「『お兄ちゃん?』」
「そう」
「ロリコン?」
「……違います」
「近親相姦願望?」
「違います!」
彼の顔も真っ赤だ。
私が笑ったら、ふてくされていた彼もしだいにつられて笑いだした。
「もぉー……はいはい、いいですよ。じゃあ、私のことも圭吾って呼んでください」
「はいはい、じゃあ圭吾くん。私のことは明里で」
「明里……先生じゃ駄目なんですよね。……さん?」
「かな。ちゃん、でもいいよ」
「ちゃん、だといろいろ勘違いされそうなので、さん、で」
「オッケー」
もともと先生というのは、いつまでたっても言われ慣れないんだ。
まだまだ研修医という身だとなおさらだ。
とはいえ、何となく下の名前で呼ばれるのは、恥ずかしいな。
まあ、いいか。
「さあ、では帰りますか」
「うん」
「鎖場、行きます?」
「迂回路で!!」
「はいはい」
そうして、私達は山を降り始めた。
翌日、私は盛大に筋肉痛になり、見た目ほど肉体は若くないのだとあらためて知らされた……。




