水無川
「おぉ……、これは田舎だ……」
私は上越新幹線の窓から見える、あたり一面の田園風景を眺めながら、思わずつぶやいてしまった。
新川明里、27歳女性。
医師となって3年目の研修医。
1年目、2年目は東京にある大学病院で研修をしていたが、3年目の派遣でどこに行くかという相談の中で、私は新潟にある田舎の病院で研修することにした。
理由は誰も手を挙げなかったから。
誰も行かないのであれば、私が行こう。
そう考えたのだ。
昔から、そんなふうに考えるところが、私にはあった。
すごく流行っている音楽には興味がなく、あまり人気はないがとてもいい音楽を好んで聞いていたりした。
そのくせ、そのアーティストが有名になると、何となく私は離れてしまう。
もう私が応援しなくても、誰かが応援してくれるからいいか、とまるで役目を終えた気分になってしまうのだ。
応援なんて言っても、大して事をしているわけでもないのに。
まあ、クラスに一人はいる、ちょっと変わった子だった。
それに、東京生まれの東京育ち。
少しばかり、田舎への興味があったことも否めない。
私は、視界に広がる緑を、ちょっとした感動さえ覚えつつ、眺め続けていた。
行き先は新潟県。
上越、中越、下越と3つに分けるらしいが、それでいくと中越のところ。
解りやすく言えば、南の方で関東よりにあたる。
「越後湯沢」はスキーで有名かもしれない。
私が赴任するのは、その少し先の「浦佐」。
新幹線の停車駅にはなっているが、人口が2万人の小さな町だと聞いている。
東京駅から1時間半ほどの乗車を終え、私は浦佐駅に降り立った。
なんと降りた人は私一人だった。
「……新幹線が停まる駅だよね」
ホームにすら、人影はなかった。
気温は東京と比べると、ちょっと肌寒い。
4月になったばかりで、春というより、ここは冬の匂いがした。
その答えはすぐに解った。
駅を出てみると、道端にまだわずかだが雪が残っていたのだ。
「4月なのに……まだ雪があるんだ」
さすが雪国だ、と変に感動してしまった。
「…………」
さすがに田んぼは見えないが、人も車もほとんどなくて、建物も駅前とは思えないぐらいまばら。
少し視線を上げると、すぐ近くに山並みが広がっていて、何となく山に閉じ込められているような閉塞感も感じてしまう。
時間は午後を過ぎたあたりだが、空を厚い雲が覆っていて、何となく薄暗い。
今までまったく違う景色。
いったいどんな生活が待っているのだろうか。
「ここで時間を潰してもしょうがない。病院に行ってみよう!」
私はかろうじて止まっていた一台のタクシーに乗り込み、行き先を告げて仕事場となる病院へ向かった。
病院の名前は「ゆきぐに魚沼総合病院」。
名前になんと「ゆきぐに」がついている!
どれだけ冬は雪深いのだろうか……。
「魚沼」は土地の名前。
魚沼産コシヒカリ! そう、ここがまさにその魚沼だった。
総合病院とはあるが、200床の中規模病院。
病床数はそれほど大きくはないが、内科、外科、整形外科、小児科、産婦人科を揃え、健診施設、老健施設まで併設され、まさに「ゆりかごから墓場まで」。
ここで、街一つの医療をすべてまかなえるスペックがあるから驚きだ。
タクシーを降りて施設を見上げ、私はようやく内科医として一年間ここで働くのだという実感が出てきた。
忙しいのだろうか、暇なのだろうか。
どんな人がいるのだろうか。
「よしっ。ちょっとワクワクしてきた」
私はさっそく入り口から中に入り、すぐの受付に声をかけた。
「すみません。今日から赴任予定の内科の新川です! 担当の方はいらっしゃいますか?」
すると、すぐ近くで事務仕事をしていた若い男性が顔を上げ、私と視線が合うと嬉しそうな笑顔を浮かべて立ち上がった。
おぉっ! イケメンだ!
服装は事務服だし、いっさいアクセサリーもしていないのに、顔の整い具合と笑顔だけで疑いようのないイケメン感。さぞやもてるに違いない。
「新川先生。お待ちしていました。私は事務の遠川と申します。ご案内させていただきます」
そういって、受付から出てきてくれた。
ちっ、こいつ身長まで高いのか……。
なぜ舌打ちをしたかというと、私は身長が低いのだ。
人前では150cmと公言しているが、実際は149cmしかない。
悲しいかな、私は椅子に座ると足がつかないことがある。
小学生かよ……と愚痴りたい時もあるが、昨今の小学生は今の私よりも大きい。
いつかは伸びると期待していたが、27歳になりもうさすがにあきらめた。
一方で遠川といった彼は、身長180cmはあるだろう。頭2つ分は差がある。
私は見上げる形で、顔の笑顔を眺めた。
「新潟まで来ていただいて、ありがとうございます。それではさっそく案内をさせていただきます」
彼は本当に嬉しそうな表情をして私の少し前を歩き始めたのだが、その笑顔を理由はすぐに説明してくれた。
「先生、我々職員一同、先生が来ていただけるのを本当に楽しみにしていました」
「……?」
「おそらく先生が思っている以上に、ここは医師が来てくれません」
「…………そうなんだ」
彼はちょっとだけ悲しそうな顔をしてうなずいた。
今日は日曜日のせいか、廊下は薄暗くて人も少ない。
そんな中を二人で歩いた。
「ここは凄い病院なんです。この街の人たちの医療をすべてここで担えているんです。あるべきものがほとんど揃っているんです。こんな田舎には珍しいようで、全国の医療機関から見学の人がきます。でも、医者はなかなか来てくれません……院長先生の仕事の殆どは、医師の確保です」
「…………」
東京はようやく医師が余ってきていると言われているが、それでも研修医時代は忙しかった。レジデントと呼ばれて、その言葉の意味は「病院にいること」だ、と言われ、ほとんどの時間を病院で過ごしていた。
忙しかったけど、楽しかった2年間だった。
東京でさえそうなのだ。彼の言っていることはおそらく現実なのだろう。
「だから、先生が来てくれて、みんなとても嬉しいんです。先生もせっかく来たのですから、楽しんでいってくださいね。田舎だけど、けっこう楽しいことありますよ」
「……ありがとう」
私の言葉に、彼はニコリと笑って、ドアを開けて中に招いてくれた。
そこは医局で、私のロッカーと机がある部屋だった。
大学にいたときよりもよっぽど広いスペースに、6名分の机にロッカー、それにソファーやテレビも置いてあった。
そして何より、窓からの光景。
「山並みと……川?」
病院のすぐ隣に川が流れていた。
けっこうな幅のある川に、恐ろしく澄んだ水がとうとうと流れ、わずかな雲の切れ間からさす陽光で、川面はきらきらと輝いている。
「きれいな川だね。病院の近くにこんな川が流れているなんて」
「ええ、水無川ですね」
「えっ? 水無川? こんなに水が流れているのに?」
私の言葉に、遠川くんはまた嬉しそうな笑顔を浮かべて答えてくれた。
「夏には水が無くなってしまうんです」
「今はこんなに流れているのに?」
「はい、すべて雪解け水なんです」
「……これ全部!?」
「はい」
本当にびっくりした。
この水量がすべて雪解け水とは。
そして、雪がなくなれば、水も無くなり、川も無くなるのだ。
すべてが東京では見ることも、考えることもなかった光景だ。
水の無い川。
そしてここが、私の新しい職場か……。
「あらためて先生、よろしくお願いします」
遠川くんは、あらためてそう歓迎の意を伝えてくれた。
「私の方こそ、よろしくお願いします」
私も笑顔で答えた。
これは、ここで過ごした、私の1年間の話である。