ハイデルベルク・ゲーム・チケット〈後〉
ゲームを終わってからどのくらい経ったか……。自分は座卓の横でごろりと寝ているままだ。寝たり起きたり食べたりしている。それ以外は[アンプ]に繋がらないベースをベンベンと弾いている。
自分の身体は、ベースを持つと無性に外に出て行きたくなり、風や草木の中でベースを弾いていたい衝動に駆られた。だが、爛花が自分を心配したらしく、次に行く時まで外に出さないようにと菱澤に命じたらしい。爛花はすぐ来ると言っていたそうだが、何があったのかなかなか来ず、ずるずると軟禁が続いている。
菱澤が[コンビニ]から食事を調達してくれるのはとても便利だ。だが、コンビニの弁当は二回も食べると飽きるので困る。違う料理でも全部同じ味がするのはどういう詐欺なのだ。吐き気と怒りが込み上げる。そんなわけで、菱澤にはあんパンと瓶入りのメンマばかり頼むようになった。
……これはだめだ。自分は、ふと思った。
スウェットを着て部屋で過ごすのが楽しくて仕方ない者も居るだろう。しかし、この生活は自分用の生活とは思えない。
といっても、勝手が違う世界で、何をやったらいいのか……。マスケの「指南」を使えば、指南してくれるのだろうが、三回のうちの二回目をこの雰囲気で使いたいとは、どうにも思えない。しかも食事と寝床が確保され、真剣にならずとも生きられてしまう。向こうではここまで精神が弛緩しつづけた時期は無い。向こうでは心身ともに真剣であるのが[デフォルト]であったのだと、この部屋で初めて知った。そして、倦怠が一つの明確な敵だということも知ったのである。なぜなら、倦怠を紛らそうとすると、喰うか、ゲームするか、寝るかしか無かったからだ。菱澤はアイドルゲーを続けている……。ひょっとして、ゲームをしない人間にとって、この部屋は地獄なのではないか? だが、この方面を考え進めると、非常に良くないことになりそうだったので打ち切った。
迷いを振り払おうと、ロフトにぶら下がり、懸垂を始める。
突飛な行動に、菱澤が動物のように真ん丸な目をして、びびった。
「レンコンマンとやらも汗を掻くとはなぁ」
十分後には、いつもの菱澤に戻ったが。
「菓子の社会常識が身に着けば、爛花さんも部屋に居ろとは言わないだろう。許可が出た後は、出て行きたくなりゃ、いつでも出て行きゃあいいんだ」
ふと、菱澤は言う。
「部屋だけで暮らすのも菓子には飽きるだろう? 俺の小遣いは、今のペースで使えば、そのうち無くなる。そしたらお前は出て行くしかなくなる。お前という『キャラクター』が勇者だか冒険者だか知らないが、この『都市』のフィールドに置かれちまえば、勇者だろうが、大魔王だろうが、記号化された一千万の『ニンゲン』の一個に変えられちまうのさ。お前もそうに決まってらァ。『私が死んでも代わりはいるもの』って言ってみなよ。アハハ……!」
一気に言ってから、しばらくして、菱澤は「すまん」と言って、ゲームがうまくいかなかった反動で「言い過ぎた」と明らかにした。
しかし自分は、菱澤が何を言っているのか分からなかったから、なぜ菱澤が謝ったのかも分からなかった。
「部屋の外に冒険とやらに出るつもりなら、爛花さんも言ったように、この世界では煩雑な手続きが必要だ。社会と繋がる形式を手に入れる為の、努力・労力・書類・手続き・儀礼・人間関係・金・衣食住ッ! 都市であるトーキョーでは、こいつらを確保しておかねば、人間未満の扱いを受ける。野良猫とおんなじだ。それでもいいなら、気儘に生きるがいいさ。俺は部屋の鍵を閉めるつもりはない。お前がいつ居なくなっても心は動かんし、逆に俺の小遣いがなくなるまで部屋に居たって、お前には何も言わない。繰り返すが、お前は確実に部屋から出て行く時が来るということだ……」
自分は菱澤を見詰める。真意を知ろうとする。部屋を提供していることを恩に着せようとしているのか。いや違う。これは……どちらかといえば、心配しているのだ。口では素っ気なくふるまっているが、「部屋の外で生きていくのは難易度が高い」と、裏では訴えている。そして、さらに……。
「……どうしてそんなに卑屈?」
自分が感じたことを、一言で身体に言わせる。
菱澤は、生々しい、真剣な顔をした。
「なっ……。貴様ッ……。なにゆえッ……!」
口調が変になる菱澤。なぜか、動転している。
菱澤は、何をそんなに怖れているのだ。
いくら世界の果てにあるトーキョーだからといって、なぜ「勇者」が「ニンゲン」に変化させられるのだ? 勇者は、生まれつき勇者だ。自分は勇者に生まれたのだから、勇者として死ぬ。それ以外の性質には変われない。自明だ。トーキョーヘイムの常識だ。なぜ錯乱の呪文に掛けられたような言動を取っているのだ?
自分は言い聞かせる。菱澤に。
安心させる為に。
「……大丈夫」
自分の中では、満面の笑みをしてあげる。この身体では、おそらく、微笑んだ程度、か。
「……自分はずっと、そうして、生きてきた」
「菓子……」
菱澤は笑みとも怒りともとれない複雑な顔面となる。向こうの宗教儀式で用いる、邪神「ハナメラ」のお面にも似ている。……やがて、何かが切れたかのように、菱澤は笑い出すのだった。
「ア……。フア……。フハハハハハハハハ! 面白い! やってみせるがいい!」
啖呵を切ると、菱澤がいつでも飲んでいる[レッドブル]を一気に呷り、ゲップをした。
懸垂して汗をかいたから、シャワーを浴び、新しいパジャマに着替えて戻る。やはり身体を動かすのはサッパリするな……。
と、ただでさえ薄暗い部屋のうえに、菱澤が立て掛けていたのだろう、すっかり本棚の陰に隠れていた楽器のケースを見付けた。あれはもちろん、菱澤の物ではない。駅で目醒めた時に自分が持たされていたもの。
自分は、ほとんど心身の反射、つまり勘で跳躍していた。ひと跳びで座卓を越え、ケースの前に達する。
「プオッ!?」
菱澤が遅れて身を屈めた。
この身体は、ベースが弾けたり、弾き続けても指の皮が異常なかったり、懸垂できたりと、特定の体力がある。とても不思議で、ときに妙でもあるが、そうした[チューニング]が施されている身体なのだ。
自分は一心に、楽器の入っていないケースを開ける……思い出したのだ。
ケースの中には何も入っていない。ベースの形に刳り貫かれ、藤色のビロードが敷き詰められている。ソフトタイプのケースのほうが主流だろうに、いかつくて立派なケースだ。まるでベースだけを入れるものではないみたいに。
窪みの中には、なだらかな隆起がある。押すと引っ込む程度の目立たないものだ。駅でケースを確かめた時、からっぽなのは知っていた。だがこの不自然な盛り上がりも覚えていた。ケースに手を入れ、藤色のビロードを、ゆっくりはがしていくと……。中には一枚の封筒が仕舞われていた。
「……これは」
自分は封筒を捧げ持つように見る。アイテムの中にアイテムとは、まるで[RPG]のようだ。静かな興奮が湧き上がる。鮮烈な黄色の封筒には、何も書かれていない。中には厚紙が一枚入っているようだ。ハガキ大のそれを自分は取り出す。
「どうしたんだよぉ、一体?」
菱澤もゲームを止めてやって来る。
「お、おい……! こいつァ……」
封筒の正体は菱澤の説明で明らかになった。
しかし自分はその正体をいわば初めから知っていた。つまり、言われなければ詳細は知らなかったが、その封筒を用いることによって自分の冒険が明快に開けてくる事は確信していた。それは現時点では予感であったが、自分は必ず予感に従って動き、今は知らない何かが達成されるだろう……。その意味で確信であった。
[受験票]が、封筒の中に入っていた。
校名欄には、「伽藍堂大学社会学部」とある。試験科目と科目ごとの時間が書かれ、試験会場の地図が載っている。日付と名前は無かった。いつ行われる試験なのか明らかではない。しかし受験する人間は解っている。自分だ。
「日付が無いな。名前も無いとは。伽藍堂大学の試験は十日後に迫っているが……お前のいたずらか? 偽造にしては、抜け欄があるなんて雑すぎる……」
「……ちがう」
自分は、首を振る。この受験票は、本物だ。菱澤が自分から奪い、しげしげと頭上にかざして観ているが、作り物にしては精細すぎることが解るだけだった。鑑定ごっこをしても意味がない。抜け欄があるにしてもこれは本物なのだ。それが分かる。
このトーキョーの大きな流れのようなものを感じる。それは動物や人間の気配にも近い。より広漠としているが、同じ気配として感じられる。ちょうど空気のような、だが空気よりも確実なそれが存在するのだ。要は、自分は[受験票]を見た時、「受験しろ」と言われた気がした。そうに違いないと、思った。
なぜなら、菱澤は先刻の独演の中で言った。つまり、「お前は近くのスーパーでバイトもできるし、バンドもできるだろうし、あとは何を意味するか分からないが都会でマジモンの冒険とやらをしてもいい」という事を言っていた。
部屋の外には、その気になれば、たくさんの[イベント]がある。やってみればいいだろう。そんな意図で言ったのだろう。
だが、自分はこの封筒を使うこと、この封筒によって示されている道の他には、自分の冒険心の湖面に全然さざなみが立たない。そればかりか、この道だけが現実に実現している道であると感じた。封筒の色は黄色だが、[バイト]や[バンド]などの選択肢は白黒であるかのように濃度が無かった。それらの[イベント]は蜃気楼か幻想のようにしか感じないのだ……。
「受験するのか、鋼鉄?」
「……する」
マスケが問い掛け、自分は答えた。明快だ。解り切っている。
「決まりだな、鋼鉄。君がそう思った時点で、その道が開かれた鋼鉄。つまり、宣言前とは違う道が敷かれたんだ鋼鉄。もう引き返せない鋼鉄。……ということで、決まったから言うんだけども、ここは最初のフシミガミ駅の時と同じくらい、重要な分岐のポイントだった鋼鉄。君は指南を使わなかった鋼鉄ね。この決断がどう出るか、もちろんお楽しみ鋼鉄ー。楽しませてもらう鋼鉄ー」
それでいい。仮に、マスケに他の道を指南された後で封筒を見つけても、封筒を選んだろう。不都合は何処にもない。
「ごきげんよう。よい宵ね。……あら、何してるのかしら」
ちょうど爛花が訪れた。
[仕事]が立て込んだことと、[仕事]の都合で出られなかった[フランス語の補講]があったことで、三日ぶりになったことを謝った。……三日しか、経っていなかったのか! 気が遠くなる長さに感じたぞ。
「ねえ、ヴィヴィアン。バイオグラフィを調べてみたら、ベ-シストの名前はジェイソンだったわ。でもジェイソンだと何となく熊みたいだから、ヴィヴィアンのまま呼ぶわね」
爛花は、そんな挨拶をしてきた。もちろん自分は頷いた。ジェイソンなんていう赤の他人の名前では呼ばれたくはない。それよりも今は、言うことがある。
RPGが面白かったこと、受験票を使って受験したいことを、爛花に報告した。
「そんな受験票が、認められるわけがなかろう。そもそもトーキョーの水準の学力すら無かろうて」
菱澤は取り合わない。
が、爛花は予期していたように、神秘的な双眸を細めた。
「いいわ、受けましょう。菱澤、茴香宿に出るわよ。大学の話をするのなら、実際に大学に行きましょう。私は今日も行ったので、舞い戻りだけれど」
爛花は自分の手から優しく封筒をもぎ取ると、部屋に入るのも疎かに、クルリと反転した。一瞬、ドレスのようなスカートが、冗談のように膨張する。
「ら、爛花さん嘘だろ? その受験票はどう見ても――」
「本物よ。使えるようにすればいいの」
爛花は振り返り、口元に手を持って行き、くすくすと笑んだ。優美な輪郭を描く五本の指は、か細くも、整っている。
*
茴香宿駅。
ジュクブクロに比べると同じ駅とも思えない、小さな庵のような駅だ。だがここでも人間の多さは乱れ飛ぶ銃弾のようだ。トーキョーは何処でも人だらけなのか。
駅の外は(トーキョーヘイムで言うと)共同墓地のような、広いロータリーであり、ロータリーの傍には王墓のような仰々しいモニュメントがそそり立っていた。
たとえば、まさに巨大な墓石のような陰鬱でのっぺりした建物。また、一万を超える銃眼が配列されたビル。ロータリーを旋回する自動車やバスは引きも切らない。異臭のするガスが煙のように立ち込める。
そういえば、茴香宿に到着するまでの電車でも、鉄橋を渡る時に軋むような音はするし、下方には三面護岸の長大なコンクリートが掘り抜かれ、鬱々とした色の水がぬらりと流れていた。菱澤が言うには、川だという。トーキョーヘイムとは余りに懸け離れた、ひどい異形の川だ! 腐った粘膜の光沢のような水の中には、大魔王でも潜んでいそうだった……。ここでは何もかもが違うのだ。
自分は駅の出口の壁に寄り添い、そそり立つ王墓状の建物を見ている。散乱する人間の情報を処理しなくていいよう、少女の身体が望んでいるのだ。夕焼けの残滓が完全に空から消えても、代わってネオンの蓄光が、ぼんやりとロータリー上空を充たす。十メートルもある本屋の看板……。感覚が、ねじれてくる。
駅前からは大通りが両岸にビルを並べながら伸びている。メイン通りなのだろう。が、行く手でゆるやかに蛇行しているためか、まっすぐは見通せない。しかし、何かを感じる。
濃厚な得体の知れない気配を感じる。
その気配の元に向かって、大通りがここから、垂直に落下しているような錯覚さえ覚える。大通りの奥に控えている何かが、特有の重力を放っている。駅を出た人間を捉えているのだ。だが人々はそれに気付いた様子もない。
この茴香宿駅と、駅の先にある何物か……。ふたつに囲まれた領域は、特殊な時空下にある。もちろん、重力や時空とは比喩であって、向こうの世界では魔術や呪力と表現される何かなのであろう。言い換えれば、この駅からの一定の領域は、一種の結界のようなものに思える。
「ヴィヴィアン、行くわよ~」
バス乗り場で爛花たちが呼んでいる。大学には、バスで向かうのか。呪力の一つの元かもしれない、王墓状のモニュメントに一瞥し、バスに乗り込んだ。バスは重力の大元へと引き込まれるように滑り降りて行く……。電車から続く乗り物に酔ったのか、自分は垂直に傾いたバスと街を幻視した。だが、こうした現象への対処は向こうで心得ている。幻視を見ていても無意味なので、爛花に言って、降りるまで目を閉じることにした。爛花はサングラスをして、彼女のスカートの相似形のような編み込みのケープをかぶっている。サングラスは顔の半分を占めるくらいで、やたらと大きい物だ。もしや爛花も視覚を遮断しているのか……?
とにかく、この先には強力な何物かがある。
*
すぐに終点に着いたバスは、伽藍堂大学の[キャンパス]で停まった。といっても傍には街路樹が欝蒼と連なって景色を隠しており、学校がどこにあるのかは窺い知れなかった。
爛花はバス停に隣接する庭園のような場所に入って行った。この庭園は、大学の一部なのか。黒い植樹のさなかを蛇行して伸びるレンガの道が、あちこちの足元に配されたほのかな明かりに炙り出される。
「私達の仲間が多くなる、ちょうどいい時間ね……」
影絵のような庭園の中を、影絵のような色の爛花が歩いているのを観るのは、浮遊感ある不思議な気持ちになる。やがて、道の終わりに月の色のような光を灯した、白亜の建物が観えた。
「あそこは、大学のカフェテリア・その1よ。食事をしましょう」
建物は、なめらかで丸みをおびた、巨大な[ダンゴ虫]のような形であるようだ。建物の全容からすれば小さな入り口をくぐり、料理を注文するブースに向かう。和洋中華、その他各国料理。いくつかのブースがあった。自分は爛花を倣って「本日の夜定食」にした。
今の階にも座席があって、下の階層を見下ろせる吹き抜けの構造になっているが、爛花はお盆を受け取って階下に降りる。下で食べるようだ。
下の階は少しの仕切りの区画があるほかは四人用のテーブルがありったけ敷き詰められており壮観だ。[学生]たちの姿も散見する。この時間でも学校に居るのか。夜に営業しているのは菱澤の専売だと思っていたが、そうでもないのだな。
爛花は、こんな所に席があったのかというエアポケットのような場所を目ざとく見つけ、座った。全体のざわめきが感じられつつも、やけにひそやかな、洞窟の奥のような席だ。
「しっかし、なにゆえ、わざわざ、伽藍堂大学に来る必要があるのだ?」
菱澤がいかめしく吐き捨て、カツ丼の肉をさっそくほおばる。さらに手元に置かれているのは大盛りのカツカレー。よくも毎食大量の物を腹に詰められるものである。食べるほかの楽しみを知らない、ある種の王侯のようだ。満腹では敵襲に遭ったら的確な判断ができないだろうに。
「俺は伽藍堂大学に来るのは受かってからと決めていたのだぞ」
「あら、駅で待っていても良かったのよ?」
「菓子が伽藍堂大学に圧倒されて発狂や昏倒されてはかなわんからな。それにカフェテリアは付属施設だ。本体ではないからよかろう」
菱澤はカツ丼をおかずにカツカレーを喰べた。……満喫しているのか?
「願掛けをしているのね。でも、入りたい大学に入らないでいるなんて、辛くはないのかしら?」
「申し訳ないが、さすがの爛花さんにも、漢の美学は分かるまい。しかも既に学生の爛花さんには何とでも言えてしまうよ」
「あら、さんざんね。でもそれでいいのよ。あなたは漢なのだものね。頑張りなさいな。ヴィヴィアン、なぜ食べないの?」
「……アーツリン」
フォークを手に呆けていた自分は我に返った。そして、内心で爛花と呼んだつもりでも、身体をついて出る名はアーツリンなのだ。やはり自分達は身体のレベルで何処かに共通性があるのか。
「……この料理は何?」
「食べたことないのも無理ないわ。うちの大学はいつも各国料理や創作料理を定食に入れているのよ。今日は〈穀類フェア〉の期間中なので、『プンタレラのサラダ』『冷製ジャガイモのポタージュ』『お米スープごはん』『三色豆とオリーブのパテのステーキ』『デザート』ね。口に合わないかもしれないけれど、まずくはないから、食べてごらんなさいな。大学の空気を吸い、食事を摂るのは、大学生には当たり前のことでしょう?」
爛花は先にスープを口に含み、自分に頷いてみせる。不思議とその微笑は続きの言葉を語っているようにみえる――「あなたは大学生になるのだから」と。
自分も「スープごはん」を掬い、口へと運んでみる。……これは、うまいな。スープの風味はデリケートだが、耳を澄ますように舌に集中すると、ほんのりとしたブイヨンの味がしっかりと広がってくる。特にキャベツのほくほくした香りがいい。そして噛むとサクッとしながらクニュッと弾力もある米のフレーク。揚げ色のついた細い粒粒の見た目は、何かのソボロかと思ったが、確かに米の味だ。これは炊いた米を一粒ごとに揚げてあるのか? ……いや、炊いた米を餅状に合わせてから細断しているのか! なんという工夫だ。しかも米だけではない。タマネギ、野菜チップ、コーン、揚げたさまざまなフレークが混ぜ合わされ、ひときわ奥深い味わいを醸し出している。米の香ばしさとスープの清澄さの調和も抜群だ……! 冷たいポタージュもジャガイモの香りがすっきりとし、ほのかな甘い香りが喉に残る。デザートのポテトアイスは、その発展形。牛乳でなく豆乳が使われ、野菜の共調が生むコクと旨味は鮮烈だ。そして星の形をしたチョコレート菓子は、シンプルにスターフルーツを輪切りにし、苦味の強いチョコでコーティングしたものだった。チョコレートの苦味がフルーツの淡い甘味を膨らませ、それが再度チョコレートと合わさり一層豊かな甘さになる。自分の――少女の手は淡々と皿と口を往復し、止まることがなかった。初めて創作料理とやらを食べたが完璧だ。そもそも自分には全ての料理が創作料理だ。トーキョーの人間の料理への熱意と技術には毎回驚かされる。
「それで、爛花さん、何を始めるつもりだ? 伽藍堂大学に来ても菓子の受験票が本物になるわけではあるまい」
「そうでしょうね。もちろん、何もしないわ。もう用事は終わったもの。だから菱澤が食べ終わったら私達は帰るのよ」
「終わった……? モッモッ、まだ何もしていないが……?」
菱澤は追加で頼んだチョコレートパフェを食べている。ちなみに鳴き声は咀嚼音である。
「いいえ。もう充分よ。ヴィヴィアンは受験する決意を固めた。あとは入試を通過するだけ。きょうは前もって大学の空気を吸ってもらって、自分は学生であると身体に思い込んでもらったの。身体という有機体は、周囲の有機体との連鎖を構成する。つまり、意識とは無関係に、環境の影響下にある。すでにヴィヴィアンの身体は未来の準備を始めているわ。いわば入学前から学生に半分なっておく為に、今日は来てるのよ。学生になったらカフェテリアで食事する――普通はそう考えるでしょう。でも時間の前後は関係ないの。なぜなら、学生になる人は、必ず未来には学生になっているからよ」
「よく分からないが、つまり……おまじないという事なのか」
「ええ。菱澤はそう取って頂戴。では、帰りましょう」
爛花は席を立ち、下膳口へ向かったが……自分には解った。今の爛花の目は、おまじないについて語るよりも強い確信に満ちていた。菱澤は気付いていない。爛花は菱澤が解らないと最初から知っているのだ。
自分も爛花の考えは全く解らなかったが……。「身体が意識とは無関係に環境の影響下にある」というところは、今の身体からは、妙に納得できる。
ともかく、爛花に秘策があるというわけなら……。
「?」
その時、下膳口に向かう自分の視界が、ある違和感を捕らえた。
時空が歪む感覚がした。だが、駅前の時の魔術的な気配ではない。現に視界の中に違和感の元がある感覚だった。
その正体は、天井あたりにあった。自分はそこにテレビを認めた。無音で何かの番組が映っている……。
「どうしたの?」
下膳した爛花が戻って来る。
爛花の上に、爛花が居る。
テレビの中で踊り、歌っている演舞者。それは、爛花以外の何者でもなかった。
見較べる自分の視線を辿り、爛花は天井に目を遣る。
「……ああ、居たのね。紫羅爛花が」
ただ論理的に納得した、そんな無感情な声で、頷く。
「これっていつ収録したものだったかしら。あまり見られるのは恥ずかしいわね。アイドル業の私は浅薄さと単純さに振り切ったキャラクターで活動しているので」
爛花は自身を落ち着かせるように一つ、咳をする。画面には「紫羅爛花」という飾り文字のテロップが出た。
テレビの中の爛花は……これはもう、衣装・踊り・歌声・どれを見てもとてもものすごい。本人なので紛れもなく美人だ。しかしあらゆるところが、違う。他の時空に居る爛花を観ている感じがする。一方、視線を下げると、今の爛花は黒い重層的なドレスに帽子にサングラス。ああ、完全に別だ。
「あまり見てはいけないわ、ヴィヴィアン」
爛花は回り込み、自分の背中を押しやって、下膳口に行かせる。爛花にしては恥ずかしそうだった。
「そういや菓子は知らないんだったな。爛花さんは日本屈指のアイドルだゾ。それでいて学生でもあり、小説家でもあり、事業主でもあるゾ」
追い付いて来た菱澤がこともなげに言った。
「……な」
少女の身体が感嘆詞を漏らし、口元に手を持って行き、背中をピンと伸ばした。
トーキョーヘイムでは幾つも職業を兼ねる冒険者は珍しくない。が、この世界での爛花の[ステータス]は、少女の肉体が驚くほど稀少なものであるらしい。きょうまでフランス語の補講を受けていたのも、このステータスゆえの忙しさだったに違いない。
「爛花さんはゲームのアイドルのトップキャラ並に完璧だからな」
菱澤は最高に自慢げに言うのだった。
……どうして爛花は菱澤の部屋なんかに来るのだろうか? いや、菱澤をけなしたわけではない。二人の[ステータス]は別物のように離れていて、自然な接点が見付からないように思えてならない。
「――あぁそうだったわ。菱澤、カフェテリアを出たら、一人で十分ほど待っていてくれるかしら。少し『女の話』をして来ようと思うの」