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東京QUEST Ⅰ  作者: N
5/18

ハイデルベルク・ゲーム・チケット〈前〉

 自分達は駅前の混雑から外れて間もない場所にあるラーメン屋に入店した。入り口にはつつましい赤い提灯が点々と掛かり、縁日のような非日常感を出している。屋号は『六臂神ろっぴしん』といった。ここは爛花のお気に入りの店であるようだ。きのうラーメン屋にてトーキョーの一食目を済ませたことは、爛花には言わずにおいた。

 紫に近い濃厚な赤の暖簾をくぐると、何らかのタンパク質の複合した重層的な臭いが、砲弾のように身体を嬲ってきた。ここのラーメンがもしも旨いとすれば、この得体の知れないタンパク質の凝集したものが旨味なのだろう。料理とは魔術と並んで驚異的なものだ。

 店主は人のよい巨漢のゴブリンのような男だ。とはいえ、この比喩は実際にトーキョーヘイムに行って実物を見なければ頷けないだろう。この世界では[序二段力士のちゃんこ番]の風情、と言えば分かるかもしれない。

 店内は焦げ板を貼り付けた内装で統一され、特注と思われる裸電球の内部が技巧的に美しく、その光は精神的に温かい。狭い店内に屋台のような情景が造り出される。いくつかある狭いブースに自分は爛花と並んで座った。もちろん容積的に菱澤が対面になる。

 この店の料理はきのうとは毛色が違ったがこれもまた旨かった! 爛花に勧められた[つけ麺]という物を食べたが、具の多様さ、つけ汁の濃密さ、きのうのラーメンより遥かに手が掛かっている味だ。もちろん手を掛けただけ失敗することもあるが、この店では成功していた。単純に言えば「甘辛くてほんのり酸味が利いている」のだが、その一言の奥に、すぐには分からない多種の素材の味が縒り合わされているのだ。さすが[ちゃんこ番]が作るだけはある。

 麺もすばらしい。この麺でしか味わえないであろう弾力と歯切れが一本一本主張する。纏めて飲み込む時の充足感は、この店のことを忘れるわけにはいかないな、という気にさせる。ラーメンの味も知りたく思えたが、「通になってから」という爛花の言葉を聞くことにした。ふと、マスケが目線の高さを漂っているのに気付く。マスコットは料理を見るだけで味を体験できるらしい。「超越的」なキャラクターだけある。

 思い出したように、爛花が言った。

「菱澤はね、伽藍堂大学に憧れているの。でも、合格できない。菱澤の学力でも合格できた伏見神大学の学生証は持っているけれど、学校には行かないで、伽藍堂大学を目指して勉強しているの」

 話を振られた菱澤は、バケツのような特盛麺を掻き込む箸を止めた。

「ああ、伽藍堂大は俺を惹き付けてやまない。伽藍堂大には魔力があるゼ。ちなみに爛花さんは既に伽藍堂大学の学生でもある」

「単なる学校に魔力があるわけないじゃない。この人はおかしいのかしらね?」

 爛花も粛々と大盛を食べ進め、なかなかの健啖ぶりを見せる。自分も次回は麺を増やしてもらおう。

「……特別な学校は、向こうには存在した」

 それは「学院」だ。トーキョーヘイムでは「学院」に入学できなければ勇者を目指す道が絶たれる。この世界にも、そうした学校があるのか……。

「ほう、お前も少しは分かっているではないか。俺には分かるが、凡百の学校とは違う特別な学校というものが存在するのだ。爛花さんが在籍するような学校がな」

「菱澤はね、どうってことないものを神聖視する性癖があるのよ。困りものだわ」

 我関せずとスープ割りをすする爛花は、菱澤の「性癖」を把握しているふしがある。

 それから菱澤は火が点いたように喋りまくった。建物の魅力、[キャンパス]の魅力、そこに通う学生の魅力……。伽藍堂大学の美点を列挙した。汁を滴らせて喰い、汗を垂らして喋りまくった。爛花は食卓の会話が途切れないすべを心得ているのだ。

「ただ、私も認めてもいい事実もある。伽藍堂大学は学力は高くなく、定員もまったく少なくない。まともな人格であれば誰でも入れる大学と言っていい。にもかかわらず『東の伽藍堂大』と言われ、優秀というよりも奇才・・といえる研究者をしばしば輩出する。その程度の物理法則・・・・は認められる。地縁および人の縁が濃厚な場所ということね」

「『高度に発達した科学は魔法と区別がつかない』というやつだな!」

 菱澤は決めゼリフを得たとばかり張り切って叫んだ。

「『低度の判断力は科学を理解できない』とも言えるけれどね」

 爛花がそう囁くのが聞こえた。菱澤は、好きな学校の話題をして気分がいいのか、促してもいないのに自分語りを続ける。

「俺は、伽藍堂大学に入れば人生が変わると思っているんだ。ちっぽけな伏見神大学なんかじゃだめだ。俺は何の取り柄もないのさ。与えられた金を使うことと、メタルを聞くことと、コンビニと弁当屋の弁当を食うことと、一日に二度も三度も寝ることと、アイドル育成ゲームをプレイすることと、特売でまとめ買いしたペペロンチーノを解凍することだけしか特技がない人間なんだ。俺こそ底辺なのさ」

「『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』という映画では、ピザ解凍芸があったわよ」

 爛花がフォローを入れる。が、菱澤の心は動かないようだ。

「俺は、伽藍堂大学に行けば何かが変わると思っているんだ……。爛花さんも通っていて、設備も教育も学生も素晴らしいあの大学に行けば、ケチが付き続きの俺の人生もようやく終わるのさ。大学や会社や金で人生が変わらないと、有名大学や高偏差値な大学に行き、有名企業や一流企業に就職し、大金を持ってる奴らは言う。だが、本当にそうか? 実際になってみなけりゃ、分からないじゃないか!」

「こう言い出したら、納得いくまでやらせるしかないのよ。本人が強烈に望んでいるのだから。菱澤には世界の伽藍堂大学以外の部分は地獄というわけよ。最悪の世界よね。くすくす」

「……それは、違う気がする」

 自分は菱澤に言った。たとえばトーキョーヘイムでは、勇者の魂を持つ者だけが「学院」で修錬を積み、勇者になれる。裏口や詐欺で「学院」に入ったとしても、勇者以外は根本的に興味を持てないあの修錬についていくことはできない。きっと脱落するだろう。要は、学校が人を幸福にできるわけではない。幸福であるから学校に入っても幸福でいられる面が大きいのだ。

「なんとでも言うがいい。大学にすら行っていないお前に言われても、痛くも痒くもないわ」

 菱澤はゲポォと音をたてて煮卵を飲み込んだ。

「こんな奴だって、将来は社長を継ぐのよ。菱澤の父親は地元では、ああ地元というのはトーキョーから離れた出身地なのだけど、その地元では中規模な商社を経営しているらしいわ。だから、たとえ伽藍堂大学に入れなかったとしても、決して菱澤が恐れている『底辺』に落ち込みはしないわ。社会はそれくらい重厚に念入りに、歯車になりそうな奴を貪欲に取り込む力を発露しているのよ」

「あんな地元や親父のところに戻るつもりはないね! 自分の人生は自分で切り開いてみせるさ。それが面白いんじゃないか……!」

 菱澤は勢いをつけて大量の麺をすすった。

 何か……勇者の嗅覚には強烈な違和感を感じるな。この[社会]のことは、まだ知らないけれども。

「話題も尽きたようね。移動しましょうか」

 

 次に訪れた店は、『六臂神』の建物の二階にあった。

 ラーメン屋の横にひっそりとある、打ちっぱなしの狭い階段を上ると、一面真っ白で整えられた喫茶室がひらけた。店の名前はラーメン屋のように大きく書かれていなくて分からない。こういう趣向が[お洒落]なのか。

 この空間では菱澤が浮いている。カラッとした、さっぱりした空間では、ギトギトした脂は見るからに相性が悪いのだ。

 ここでは爛花が対面に座った。菱澤の豊満な肉体はただでさえ圧迫感があるのに、自分の身体が自動的に他人から離れようとするので、窓側にみっちりと押し付けられた姿勢になってしまう。

「この店は食後の移動が無くて済む点と、食べ物の持ち込みが可である点と、店員の干渉が少ない点がいいわ」

 爛花は、真っ白いチャーミングな制服の店員に、[ジンジャー・レモン・ペッパー・ティー]を三つ頼んだ。この銘柄が「最もまし」だという。紅茶を持ってくると、店員は白いカーテンの中に引っ込み、自分達の会話を再開したのが聞こえてくる。ああいうのは……[女子会]とか言ったはずだ。レモンの清涼さと、生姜の果実感ある辛み、ほのかに後を追う胡椒の風味が、ラーメンのタンパク系の香りを、洗い流してくれる。一口で気分を落ち着けてくれる飲み物である。

 菱澤は登山用のリュックの中から、[ミカン]と[チョコレート]と[乾燥デーツ]を出した。なるほど……「水菓子」の習慣は、トーキョーの食後にもあるらしいな。

 三つは爛花の専用で、菱澤が買い置きしているそうだ。菱澤はあんパンや個包装の焼菓子を出し、勇猛に頬張った。いっぽう爛花は、ミカンを一房味わった後、チョコレートを一片味わうといったふうに、食事とは違いゆっくりと時間を流した。爛花が分けてくれたデーツを食べたところ、向こうの「白花棗シロバナナツメ」に似た味がした。郷愁ある甘みである。

「ギュエェ」

 妙な呻きがした。見ると、何の前触れもなく、爛花がマスケを捕らえていた。マスケは空中でもがくが、しっかり掴まれている。爛花はぬいぐるみのように、マスケを机に置いた。

「何をする鋼鉄。鋼鉄の使者に対して無礼鋼鉄ヨゥ」

 マスコットは机の上をぴょんぴょん跳ねる。

 爛花は気にせず、自分に顔を寄せて来た。

「あなたの正体が何者か、思い当たるふしがあった。でも、精査しなくても、このマスコットで一目瞭然だった。あなたは・・・・、『レコニングマン・・・・・・・

 粘度の高く熱く濃厚なチョコレート液のような、爛花の瞳が、いっそう暗さと熱とを帯びた。

 ここまでの話や食事は枕だった。自分の秘密に向けて爛花は切り込んできたのだと分かった。

「レンコン、だと……?」

 菱澤は、呆けている。

「レコニングマン。私は日本語で『置かれ人』と当てている。外見上で判断する限りは、人間と見分けがつかない。しかし、あなたのように、しばしば人間には不可視な擬人的生物・デバイス・各種効果・等々を伴う場合がある。その場合は一目で判る。しかし、置かれ人レコニングマンについて語ると、込み入ったものになる。なので昨日は黙っていたのよ」

 置かれ人レコニングマン。それが自分の正体なのか。自分も知らない自分の秘密なのか。なぜ爛花が知っているのか。爛花の話は正しいのか、それとも誤っているのか……。

「レンコンマンだろうが、スーパーマンだろうが、X-MENだろうが、俺は驚かないがな。ポプムッ」

 菱澤はクッキーをもしゃもしゃ齧り、げっぷをして、また喰う……。

 自分なら、トーキョーヘイムの部屋に突然トーキョーの男が出現したら、絶対驚くだろう。この男の感覚は反転してでもいるのか? その鈍感さを少女いまの身体に分けてやりたいな!

 ともかく、爛花の話だ。耳を傾ける価値はある。ジュクブクロに来ても、誰一人マスケを視認した人間は居なかった。爛花だけがマスケを観ているのは、何らかの意味がある。

 自分は、相当に真剣な表情をしているつもりだ。だが身体は、二人に怯える反応こそ今はしないが、あいかわらず興味なげな、冷然とした目で、まるで見下しているような表情をしていた。

「……知りたい」

 全部の疑問を言いたかったが、例によって一言に縮めて呟くしか、身体はしてくれない……もどかしい。

置かれ人レコニングマンはこの世界に突然現れる。それでいてこの世界と整合性を取れている存在でもある。突然現れる点では、幻燈機によって投げ掛けられた幻影のようでもある。けれども生体としてはれっきとした人間でもある。あなたが駅で目醒めた時が、あなたの誕生の時よ」

 爛花は置かれ人レコニングマンの特徴を述べる。それまで居なかった人間が、それまで何も無かった空間に、突然出現する……? それでは自分はフシミガミ駅で、無から生み出されたというのか。そんな不可思議な事が俄かに起こるとは信じ難い。何より自分にはトーキョーヘイムからトーキョーへ遷移した経験がある。この体験は否定できない。

「……でも、自分は」

「あなたのように『前世』を語る者も比較的多い。でも、あくまでこの世界だけで見れば・・・・・・・・、あなたは十八時間前に突然駅前に生まれたのよ。その時から世界は君を含む巨大な整合体となったのよ」

 自分にとっては矛盾する仮説を、爛花は推し進める。遷移の体験は、自分の記憶の領域だ。爛花にとっては、矛盾はない。今のところ、事実上、トーキョーからトーキョーヘイムに行くことはできない。爛花の言うように、トーキョーからは、自分が突然出現した現象だけが観測されていてもおかしくない。

「なるほど、もし現場に誰かが居て、あなたが出現するのを見たら、架空の映画の一場面とでも思ったでしょう。――でも、あなた自身はどうかしら? 恐らく、それほど圧倒的な違和感は無く、折り合いを付けられる程度の些少な違和感と一緒に、目醒めたのではなくて? そして、残った僅かな違和感も、夢のように次第に消えてしまうはず。これがレコニングマンの誕生の時の特色よ」

「……!」

 自分は、いや少女いまの身体すら、微かに頬を強張らせたほどだった。

 駅で目醒めてから自分が辿った内心の変化を、爛花は見てきたように言い当てた。自分をまっすぐに覗く爛花の目は、チョコレートにココアを溶かし込んだように艶めいた。高貴と好奇。静謐と爛熟。このまなざしからは逃れられない……。どうして分かるのか。

「私もそうだったからね」

「……そう」

 とりあえず納得し、二人、同時にお茶を飲む。

 少女いまの身体がテーブルに両手を置いて身を乗り出した。

「……どういうこと……!」

「私は、置かれ人レコニングマンを見抜くことができる。私も・・置かれ人レコニングマンだから・・・。あなたも慣れればできるようになる。われわれは・・・・・置かれ人レコニングマンよ」

 至近距離にある爛花がニッコリ、[ロシアンブルー]の佇まいのように神秘的に、笑う。

「……そう、なんだ」

「私の話を信じなくてもいい。自分のことを人間と思っても、置かれ人レコニングマンと思っても、もちろん世界の遠くから来た勇者と思ってもいい。知っておいてほしいのは、あなたには仲間が居ること……。トーキョーの世界へようこそ」

 爛花は自分の頭に手を置き、白色の[無造作なショートボブ]を、優しく撫で回した。何だこれ……気持ちがいい……。これは同じ置かれ人レコニングマンだという証なのか。それを抜きにしても、爛花の真心は沁みた。勇者の直感が告げる、爛花は信じるに値する。トーキョーヘイムで出会っていれば、旅を伴にしていたに違いない。

 いや、旅をこのトーキョーでもやればいいだけの話だ。どういう「旅程」になるのか、まったく未知なのだが……とてもワクワクする。

『ПдЯКmooЯ』を聴いた時と同じだ。今はここがトーキョーヘイムである気がする。向こうでは仲間との出会いといえば酒場が定番だが、こちらでは喫茶室であった。

「さすがだぜ爛花さん……! レンコンマンでありスーパーマンでありX-MENでもあるのが爛花さんだ。完璧だぜ!」

 菱澤がシュガーラスクをバリボリ齧る。この男が「旅」のオプションに付いて来るのなら、使える点を見極めないといけないな……早くも自分は夢中になる。

「あなたは『前世』の記憶を持っているようだから、そちらは後で検討するとしましょう。けど、人間だって、生まれる前のことは知らないわ。気付いた時には既に産み落とされ、一個の生身で、死ぬまで生きるしかない。そう考えたら、置かれ人レコニングマンだって、人間と全く同じじゃなくて? あなたは『未来』だけを考えて生きればいい」

「……わかった」

 言われれば、その通りだ。かりに置かれ人レコニングマンだとしても、トーキョーではどこも人間と変わらない。すると自分がこの世界に一段と受け入れられた気がした。それは確かに安堵させてくれる……。爛花の言葉には、詩のようなリズムがある。どうやら紫羅爛花には、あの『ПдЯКmooЯ』の時と同じで、自分の秘密に触れる特別な「ゆらぎ」があるようだ。もしも、特別な「ゆらぎ」さえあればいいのなら、『ПдЯКmooЯ』を聴かなくてもいいことになる。他の音楽、他のひとびと、あらゆる物事が鍵になり得ると言える。

 すると、ふいに、この喫茶店で流れているBGMが流水のように耳朶を打った。あたかも話が一段落つくまで舞台脇で控えていたかのような音楽は、だが、会話の最中にも流れていたはずだ。実際、[エレクトロニカル]な打ち込みが主体の、空気のような平坦なその曲も、今では一つの建物のように精細に自分の前に全身をあらわにしている……かのようだ。このトーキョーでは、何が秘密への手掛かりになるか分からない。気は抜けないぞ。

 いっぽう、この世界への理解が深まるにつれて、冷たい心持ちも生まれる。トーキョーヘイムから遠ざかる怖れだった。けれどともかくも「未来」を目指すとしよう。冒険とは前進するだけなのだから……。

「ところで、いま閃いたのだけど、あなた、有希ゆきと名乗るといいわ」

 爛花がそう言った。有希……すぐに、悪くない響きだと感じた。だがどうして爛花は有希と閃いたのだろう。いや、閃きに理由を訊いても無駄か。

「菱澤が好きなゲーム内アイドルの名前よ。どう、いいかしら?」

 理由あった!

 有希か、いい名前だと思う。けれど二文字で終わってしまうのは、どことなく儚い……。そんな事を思った時、ある物が、まるで吸い寄せられる・・・・・・・・・・ように・・・、目に留まった。それは菱澤が食べ散らかしている、お菓子の袋の一つ。たしか、菱澤の実家から送られて来た[地元]のお菓子だと言っていた。[地元]では誰もが知る銘菓であるらしい。自分は殆ど無意識に、その名称を読み上げた。

「『ハイデルベルク』……」

「え? ハイデルベルクがいいの?」

 爛花に聴こえたようだ。全く意図はなかった。口に出てしまったのだ。しかしすかさず爛花は繋げた。

「わかったわ。ではそちらを苗字にしましょう。あなたは有希・ハイデルベルクよ」

 自分は訂正しようと思った、しかしフルネームを聴いた瞬間、その収まりの良さに脳が頷いてしまい、その気は無くなった。「菓子の名前にするなんて。『白神トウコ』の方が百万倍いいだろ」と罵る菱澤は、そよ風にも感じない。有希・ハイデルベルク、それでいい。というより、これしかないと思うほどだ。トーキョーヘイムの言語や名詞と似た響きがあった。

「そして、有希。あなたには渾名が無いといけない・・・・。渾名はもう決めてあるの。ヴィヴィアン。私が好きなバンドのベーシストの名前よ」

 こうして、みるみるうちに渾名までもが決まって行った。

 喫茶店の席を立つとき、自分は驚かずにいられなかった。トーキョーヘイムでは名前があったが、こちらでは合わないだろうと思い、今まで伏せていた。その名前がヴィヴィアン・・・・・・であったのだ。それは、勇者の名前だ・・・・・・

「私はアーツリン・・・・・。これは、そうね、裏の名前・・・・なの。これからはそう呼んで」

 爛花は、言い足した。

 

「アーツリン・ランピリス・ノクティルカ――。菓子よ、お前も爛花さんの真の名を知る時が来たか。伝説的存在は名前を二つ持つと決まっている。お前も賜った名を汚さぬよう、精進するのだな」

 菱澤はバナナを食べ歩いている。

「二つの名前」を「二つ名」のことだと勘違いしているらしいが、無事に大学に行けるのだろうか?

 爛花の「裏の名前」は、自分と同じく前世に由来するのか。爛花も前世の記憶を持っているのだろうか?

「……アーツリン、あなたは」

 そう呼び掛けた時、マスケが自分に体当たりして来て、早口で囁く。

「オイ、あいつには気を付けろ鋼鉄。あいつに掴まれたら一時的に飛べなくなった鋼鉄」

「……え?」

「あら、どうしたの?」

 爛花が、雑踏の中で振り向く。

「……あ……いえ……これから、どこへ」

 自分はとっさに質問を変えた。マスケを真に受けたわけではないが、このマスコットが焦っているのを初めて見たのは確かで、結果、今は爛花の人格に踏み込まない決断をしたのだ。それが将来どう出るかは分からない。勇者はとっさの決断の連続だ。

「ヴィヴィアン達は帰るといいわ。菱澤に歩かされて、慣れない都会を見物して、疲れたでしょうから。今日は世界観・・・を少しだけ共有できて嬉しかったわ」

「……あなたは、帰らないの?」

 菱澤と二人でアパートで過ごすのか。共通の話題がないぞ。

「私は学校に行くの。といっても講義に出るわけではないのだけど。伽藍堂大学は宿袋駅から電車で十分、更にそこから徒歩またはバスよ。覚えておいていいわ」

「爛花さんはどちらでもないけどな。大概タクシーで済ませるからね」

「でも、駅までは一緒にまいりましょう。そのうち私の・・学校にも来るでしょう・・・・・・けれど、ゆっくりすぎるほど着実に段階を踏むほうが、トーキョーでは最適。たとえば、あそこを見て?」

 駅ビル間近の高架下では、とある外食店の看板が光っていた。

 機械的な看板には、『中央屋アーバン亭  宿袋店』と大きく書かれている。手狭な店内の自動ドアの向こうは、コの字のカウンターのみがあり、[スーツ]や[作業着]の人々が食事をかっ喰らっていた。どうやら[丼物][定食][中華]まで幅広く出すチェーン店らしい。

「ヴィヴィアン、あなたはあの店に行ってはダメよ」

「どうしてだい? うまそうな匂いがするじゃないか」

 すかさず菱澤が言うが、悪食なんだろう。自分には一見してマズそうな空気が判る店であり、行く気にはならなかった。しかし、行ってはいけないというのは?

「『地元からトーキョーに来る人々の多くがトーキョーで最初に食事する店』というのが、立地的にあってね。その一つがあの店なの。トーキョーに電車で来た人の半分以上は宿袋で一旦乗り換える。その内の半分以上が駅の外に出る。その人達のうち、かなりの数があの店で食事をとる。特に他の店が空いていない早朝はそう。ところがあの店のメニューは全品、私達レコニングマンの力をそぐ必殺毒が混入されているの」

「初耳だな。俺は食べてもいいのか?」

「菱澤は人間だから問題ない。いい、ヴィヴィアン? 置かれ人レコニングマン私達の他にも居る・・・・・・・・。そして、一枚岩ではない。『中央屋アーバン亭』は過激な置かれ人レコニングマンの一派が経営する外食屋。知らずに食べた置かれ人レコニングマン八日後に突然死する・・・・・・・・・。ほとんどの外食屋は人間がやっているから、食べても死んだり力が封じられたりしないけれど……」

「過激な奴等だゼ。魔都・宿袋の裏世界はめっちゃ半端ねぇな! ま、こんなのは闇の一角なんだろうがヨ……」

 菱澤は舌打ちして、ガードレール際にバナナの皮を投げた。

「ではまたね、ヴィヴィアン。菱澤、帰ったらあれを」

 爛花は駅ビルの下で黒塗りのタクシーを呼び、ひとり乗って行った。

 ……なるほど。トーキョーを見て回るには、適切なペースがあるのだな。爛花をみれば当たり前なのだが、自分達の他にも置かれ人レコニングマンは居る。内輪揉めもあるというわけだ。誰が勇者になるかで、候補生達が足を引っ張り合うようなものか。必殺毒の話が事実なら、やはり爛花は自分の敵ではない。もしも自分に敵意を持っていたのなら、『中央屋アーバン亭』に行けとひとこと言えばよかった。

 もちろん、[おのぼりさん]をからかっただけの線もあるが、……それならそれで、許せる。直感で、伝わるのだ。爛花は優しい人間レコニングマンに違いないと。爛花と一緒に居ると、安らぐ……。やはり自分と同じ故郷の人間ではないかと思う……。

  

 その夜は、ゲームという物をやり始めた。

 勇者として生活したい自分の希望、それを叶えるためには、この世界での冒険の流儀を学ぶ必要がある。その教材がゲームという物で、爛花が菱澤に言った「あれ」のことだった。

 菱澤は[RPG]なるゲームをやらせてくれた。元々は菱澤が遥か昔、ひとまわり上の従兄から[筐体とソフト]を借りてプレイしたゲームらしい。今の時代、ソフトの中身を吸い出したデータが流通し、「汎用機械ポータル」と言われるこの世界の端末でプレイできるよう、復刻されている。菱澤によれば、RPGというジャンル、中でもこのソフトこそ、「最古にして最高のバランス」を誇る完成形らしい。

 自分は菱澤の「汎用機械ポータル」を借りて、ゲームし始めた。ゲームをする時、汎用機械ポータルはノート大の画面になる。普通、他人には貸さないようだが、菱澤は貸すらしい。なぜなら爛花の提案は菱澤には至上命令だったし、浪人の身である菱澤は知り合いとの交流が殆ど無いからでもあった。通信があった時だけ戻してもらえばいいと言って、菱澤はアイドルゲーを始めた。

 RPGとは要するに「勇者が魔王を倒すゲーム」だった。まずそのことが驚かせる。まさにトーキョーヘイムのようであり、自分が送って来た……いやまさに送ろうとしていた冒険の日々が、ゲームで描かれるのだ。

 勇者は初めから勇者として旅立つ。つまり、「学院」での修錬はすでに終えた立場なのだ。[レベル]を上げていきながら、ゲームを進めると……。

 壮大なファンファーレ。時に勇壮、時に叙情的な音楽。著しく戯画化されているのに、センスに溢れたグラフィックやキャラクター。都市のように華美ではなく、絵のように美しい色使い。謎が謎を呼ぶ冒険。パーティーが協力し合い難局を切り抜ける充実感。街や城での宴や安息。息もつかせぬイベント。はらはらさせる闘い。何だこれは……! 面白すぎる……! ゲームといえばカルタ遊びしか知らなかったが、こんなにも面白いゲームがあったなんて。だいたい、体を動かしていないのに、敵と戦ったり世界を巡ったりできるとは、どういう奇術だろうか? 

 この世界とは時間と空間を異にする、雄大な世界が展開している……! 

 薄い板のような画面まどの向こうに、トーキョーヘイムではないが、一個の世界があるのだ。

 自分はゲームにのめり込んでしまった。目が疲れると、ベースを弾いたり音楽を聴いたり菱澤が沸かしてくれた風呂に一人で入ったりあんパンを分けてもらったり[コンビニ]の牛丼を分けてもらったり寝て起きてゲームをした。あとは、そう、ゲームをしたりして――すまない、呆けた喋りになっているのは自覚している。自分は勇者なので、ことのほか常人離れした集中力を発揮する。その代償なのか、熱中から我に返ると、盛大に放心してしまった。夢を観ているときに佳境で叩き起こされる戸惑いに似ている。

 菱澤の部屋は中から遮光してあり、寝たいときに寝て、ゲームしたいときにゲームができる。ゲームには理想的な部屋だった。また、どうでもいいが自分は菱澤が勉強している姿を一度も見たことがない。

「おい、どうした?」

「……?」

「何を疑るような目をしている。怪訝なのはこっちのほうだ。プレイしてるあいだじゅう、ポチポチと独り言を繰り返しやがって」

「……そっちも」

 菱澤はよく叫ぶし、ときに五分くらいテレビに向かって演説するので、独り言というレベルではない。しかし、のめりこむあまり、この身体ですら独り言が漏れていたのか。以後は気をつけねば。

 自分が時間になったような、のっぺりした時間が流れた。菱澤と会話をしたのも、いつのことだったか……。時間が綿のようにもわっと固まって、部屋を埋めている……。そういえば、今はいつだ? ナンガツ、ナンニチで、ナンジなんだ? よくわからない。わからないけども、まったく支障ない。すごいな。ゲームしながら、あんパンを食べて豆乳を飲む。おおぅ……。向こうの王族でもこの至福を知ろうか?

 このゲームも同じ・・であった。自分の人格の根本に繋がっている気がした。原形がトーキョーヘイムではないかとすら思った。とても似ていた。帰ったら活かせる技能がたくさんある。特に冒険の全体を俯瞰できること、つまり旅立ちから魔王を倒すまでの流れの中で冒険を考えられる点は大きい。どのくらい勇み足をすると全滅してしまうのか分かるし、考えすぎた時に[セーブ]を入れて休むと打開策が浮かんだりするし、ある案件を処理しておくと後でどういう形で役に立ってくるかも分かる。冒険の全体を客観視する技能は、トーキョーヘイムでも絶対に役立つだろう。

 こうして、初めてのRPGへの熱中は、初めて魔王を倒すまで続いた。

 その結果、もう魔王を倒さなくてもいいかもしれないと思った。つまり、トーキョーヘイムの魔王については。

 だって、魔王は倒してしまったのだ。分かるかな、この気持ち……。もちろんゲームの中で倒したのであって、現実に倒したわけではない。この瞬間もトーキョーヘイムの最奥では魔王が息づいている。

 しかし今、自分は、魔王を倒すということがどういう・・・・・・・・・・ことか解った・・・・・・気がするのだ。錯覚かもしれないが、錯覚ではない充実感や、「学び」のようなものを感じた。濃い体験だった。これが、RPGを初めてプレイ・・・・・・・・・・する・・、ということなのか。最高じゃないか!

 自分は疲れ果て、こてっと、座卓の横に倒れた。寝落ちてもいいように、菱澤から借りた厚目のスウェットにくるまっている。フードも被っているので、遮光できるし、枕の代わりにもなる。お休み! 今は、この未知のトーキョーとはいっても、実になることを一つ成し遂げた気分だよ……!

 

 ちなみに、泥のような眠りから醒め、すぐさま始めた二周目のRPGは全く面白くなかった。この発見は予想外だったので衝撃だった。初回の面白さが、霧のように消えてしまった。

 だが、冷静に考えれば無理もないことである。なぜ自分が勇者、つまり根っからの冒険者かというと、冒険が異常なほど好きだからだが、「初めての出来事」にこそ冒険の内容はある。知っている物事には、冒険は感じられない!

 なぜ、判っていることをもう一度繰り返さなければならないのだろうか!

 ということで、その日は落胆を癒すように、想像の中で[ラストダンジョン]の緊迫感や厳粛さを反芻しながら不貞寝した。

 このことを少女の口から伝えると、菱澤は謎めいたことを告げた。

 自分を嘲る調子であったのは確かだ。

「菓子は勇者というより賢者・・なんじゃねぇのか。とっとと転職するんだな」

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