宿袋破滅譫妄
自分は、まだ暗い時刻に菱澤に叩き起こされ、目を白黒させた。
部屋は真っ暗。カーテンから射す一分の光も無い。菱澤が一時停止をしているゲームの画面では、アイドルキャラクターの大写しの笑顔が静止している。室内は無音と昏明。
し~~っ。菱澤は物音を立てないよう指示し、こっそり囁く。
「起きろ。もう、とっくに『朝』だ。俺達は先に出掛けるぞ」
真っ白の[チェスターコート]を着込んだ菱澤は、ベレー帽を頭に乗せ、自分を急かした。自分は面食らったまま、予期したよりも遥かに冷たい水道の水で顔だけを洗った。そして、菱澤に連れ出される形で玄関を出た――。
アパートの廊下は日陰にもかかわらず、目を突き刺すような光が射し込んで来た。夜だとばかり思っていたので油断していた身体の反応だった。目を眇めて振り返ると、菱澤の部屋のガラス窓には内側から白いシートが貼られている。光を遮る細工をしていたのだ。カーテンも真っ暗だったが、部屋の窓にも工作をしているのだろう。この男の部屋は、明かりをつけなければ年中暗いのだろう。時間の感覚なくゲームをしても、いつでもぐっすり眠れるわけか。
「しゃきっとしろ。もう二時を回っているぞ」
菱澤は暗室の仕掛けにはわざと触れず、自分の反応を見て楽しんでいた。午後ではなく未明の二時だと思ってしまったくらいだが、何事も無かったかのように振舞う。
「……爛花さん、は?」
「いずれ来るさ。部屋には爛花さんの着替えも仕舞ってあるし、鍵も渡してあるんだ。彼女が『起き』られるようにな……。行くぞ」
菱澤はアパートの階段を降りて行った。
こんがりと灼けたパンのような狐色の光が、この街を満たしている。
この世界の太陽は、トーキョーヘイムで観る太陽よりも強烈な気がする。何というか、明るさは同じでも、幽玄さといった趣が全くないのだ。この光には全く安らぎがなく、常に何かに駆り立てられている感じがする。そんな太陽に照らされる昼間の街は、いきおい猥雑に見える。昨晩の雪が至る所で融けて湯気を放っている様子は、ちょっとした魔物の住み処のようであったし、夜とは違ってあらゆるものが白日のもとにさらされると、この街がいかに禍々しい趣向で造られているかがはっきりした。
建物が密集しているだけならばトーキョーヘイムにもあるが、向こうとは違う[看板]の節操のない主張、さまざまな字体の文字、なにより無節操に描き散らした狂ったような配色はどうだろう。青があると思えば赤があり、振り返れば緑があるという具合だ。トーキョーヘイムでは、色が人体に及ぼす好影響や悪影響については研究し尽くされ、この色彩学にもとづいて統一的で慎ましい配色を行うことは常識だ。だが、この街では何色もの色を同封した看板や、異常に大きいクリーム色の壁面などすらある。この街の施政者は今すぐ精神病院に入ったほうがいい。もしかするとトーキョーじゅうがこうなのか?
菱澤は、白いチェスターコートとスーツ、ピンクのシャツと赤いネクタイ、茶色のベレー帽で[フォーマルに]決めていたが、壊滅的な色彩のセンスだ。革靴の音が秒針のように時間と距離を刻む。だが、スキー用の手袋をして登山用のリュックを背負っているのがぶち壊しにしている。道化にしか見えない。やはり一種の変態なのだろう。
昨夜の駅に来た。駅の建物も太陽光の邪悪な焦色に汚染されていた。爛花はこの世界にも魔王が居ると言ったが、たしかに昼間に見ると、街の隅々にまで邪気が充ち充ちている……。
菱澤は駅を通り過ぎた。
「……どこに行くの」
「トーキョー旅行に連れて行ってやるのさ」
菱澤は締まらない顔で笑うと、電車の線路沿いの道路を歩き出した。もちろん従う理由はない。菱澤の部下ではないし、パーティーを組んだつもりすらない。だがトーキョーに動揺していると見られるのも癪だし、見るに堪えない頭のおかしい色彩の街だとしても、尻込みするほどではない。なめるなよ、勇者を。
というわけでその後二時間半かけて、[宿袋]という巨大駅のエリアに辿り着くまで、たっぷりトーキョーの街並みを堪能させてもらった。フシミガミ駅からジュクブクロ駅へと二人が近付くにつれ、建物の高さや禍々しさや人口密度が増した。看板や色彩も加速度的に苛烈になり、みずから点灯したり点滅する看板まで現れたのはもう笑いが込み上げる。
だが、自分の魂としては初めて、トーキョーの都市部を眺めてみたわけだが、恐れるに足りないな。
トーキョーヘイムの対極といえる過密で無秩序な街。だが、それだけだ。混沌という[出落ち]は、いつまでも混沌のままなのだ。この街を見詰めていても、永遠に発展も結実もしない。あらゆる個別の欲望が溢れ返っては、全体の混沌を生み出し続ける。そう理解すれば、悪夢と万華鏡の中間にあるような、悪くない幻影の群れと見えなくもない。
もちろん少女の身体は人間に対して拒絶反応が出るので、ジュクブクロが近付くにつれてガチガチに縮こまり、動悸はするし、寒気はするし、物音がするたびにビクッと跳ねるし、一個の金属球になったように緊張していて大変だった。転がりたくないのに、街の中であちこちに転がってしまう。解釈が追い付かない。
「おい、小腹が空かないか。俺だけ食うのは気が引けるから、ご馳走してやるぞ」
と菱澤が言うので、自分は近くのビルからうまそうな匂いを漂わせている、「BourgogneOHBAN-Cookie」とかいう焼菓子を所望した。一メートルおきに立てられた幟を見ると、現地調達の材料を使っていることと、人工物を与えない小麦で生地を焼いているのが特長らしいが、何が特長なんだ? 当たり前のことじゃないか? 「カマンベールチーズ入りクリーム」「クーベルチュールチョコレート入りクリーム」という売れ筋の商品を、菱澤は五個買った。自分は、最も安い通常の[大判焼き]を買ってもらった。まずはオーソドックスでいいだろう。ぱくりと齧り付く。――おお、懐かしい旨さだ。こういう素朴ながらも豪華な焼菓子は、トーキョーヘイムの市でもしばしば売られた……。甘くて熱いクリームを、生地と一緒に飲み込むと、だだっ広い道路に走る車の大河があり、向こうには広くて高いジュクブクロの駅が、城塞のように立ち上がっている。駅ビルは自身を誇示するようにバイオレットピンクの光で照らされている。[ライトアップ]という概念は、向こうの世界には無かったな。
「なかなか見事なものではないか、鋼鉄」
マスケが羽ばたきながら述べる。……まあ、この混沌の都市にも稀には美しい建築物もある。まったく、いったい自分は何処に来てしまっているのか。それに今日はたちまち夕刻ではないか。
やっと爛花から菱澤の[汎用機械]という物に呼び出しがあり、到着したというので、その駅ビルに向かった。
駅ビルの一階は、蟻塚の入口のようだ。人間のひしめきで視野が全体的に黒い。この人間だらけの中から爛花を探すのか……。
「お早う二人共。いい朝ね」
結論すれば爛花は探索しなくて済んだ。ビルの前に乗り付けた黒塗りのタクシーから降りて来たからだ。
自分は、目を瞠った。
その時、音が消え、風もやんだかのようだった。空気がりんと澄み渡った。
爛花は[ゴシック系]の黒い衣服で身体を飾っていた。黒薔薇の飾り物がちりばめられ、パニエが入った見事な物だった。通常の[ゴシック系]の服装と一見して違うのは、スカートがより長く重々しいことであり、あたかも一つの結晶体が地中から突き出た様子を想起させた。
冬なので上半身を覆う外套をドレスに重ね着しているが、外套にはところどころに乳を流したような白斑や、臓腑の断面のようなピンク紋があしらわれ、まるで羽化直前の麝香揚羽蝶の羽のような、神秘的意匠だった。この外套を脱いだ時、真の爛花の全貌が露われるのか……。
彼女の佇まいは、アパートの時とはあまりに違った。別物のように、艶美で、つつましく、荘厳だ。身を屈めてタクシーから降りて来た動作だけでも、常に良く撮れた被写体が写真の枠ごと動いているようであった。彼女の質感、均整、コントラスト、立体の滑らかさ……、全ての部分が完璧な調和の糸によって吊るされているようだった。それは全体で一つの完璧な図形と思わせたほどだ。三角形でも平行四辺形でもない、全く新しい三次元の図形である。
自分は審美眼には信頼を置いている。美しいものを選び抜く「目利き」の力は、冒険ではきわめて重宝する。なぜかというと、「目利き」の根本は、毒物や有害物が属する「例外」を選り分けることだからだ。逆に言えば、美しいものが属している「普遍的なもの」を見抜ける眼を持っている。爛花なら、トーキョーヘイムでも美しさを称えられるに違いない。服装も姫を思わせる。だが、黒いのは頂けない。黒は魔王を思わせる邪悪の象徴と言われる。
しかし爛花は不思議と邪悪ではない。むしろ宵の口のジュクブクロの混沌を吸い取り、跳ね返している。爛花は光輝を放っている。
「どうしたのかしら?」
「……見とれた」
「嬉しいわ。違う世界から来たひとは、率直に物を言ってくれるのね」
口調もアルコールが入っていた昨晩より理知的だし、あからさまに違うのは眼光だ。湖のように澄み切って、銀嶺のように鋭く、どちらもそうであるように鎮かであった。昨夜の人懐っこく安らいだ眼とは、別物だ。これは「選ばれた者」の眼だと直感した。アルコールが抜けただけの変化ではない。一晩で爛花に何が起きたのか。
「言っておくが、これが爛花さんの通常の姿だ」
菱澤が自身のことのように言った。
「あ~、まだすこし眠いわ~。アクビがわりにこの町の人間全員爆発させたい。なんでこんなに人間が居るのかしらね。自分達が死ぬべきだと悟らないのかしら。しかもなんで伏見神と宿袋が離れているのかしら。帰り道を考えるだけで憂鬱極まるわ。むしろなぜ宿袋と朝ご飯が私の所に来ないのかしら。……そうね、ご飯に行きましょう。いいお店があるのよ!」
……昨夜の爛花がまだら模様に出るあたりは、まだ少し寝ぼけているのかもしれないが。