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東京QUEST Ⅰ  作者: N
3/18

『Dies Irae』〈後〉

「なるほど~、そういうことなの~」

 爛花が纏めた。部屋に一つだけのソファに当然のように座る爛花は、なぜか鼻につかない。自分は、トーキョーで目醒めて以降の出来事を、ありのままに話した。例によって、この身体による「意訳」や「圧縮」を受けるので、ほとんど呟きの連続でしか話せない情報伝達は、異常に困難だった。しかし爛花は辛抱強く聴いてくれたうえに、単語の羅列から内心を推理して言いたいことを分かってくれ、納得してくれた。ただの酒飲み貴族とは思えぬ頭の回転の速さだ。

 ちなみに、迷い込んだのがこの部屋で良かったが、トーキョーの一般的世間では「ありのまま」に話すのは避けたほうがいいと言われた。自分が経験している事は、トーキョーの一般的な出来事からすると、特異であるらしい。とすれば、顛末を何食わぬ顔で聞き、助言までしてくれる爛花は、何者なのだろう。マスケと会話して、自分の話の裏取りもしている……。

「この人形に指南されてここに? ねえ菱澤。ここに浮かんでる人形が観える? おそらくあなたは無理よね~?」

「ああ、見えないな。仮に見えたとしても『同じ』だしな」

「そうよね~」

 爛花はマスケをつついたり投げ上げたりと、ちょっかいを出す。マスケは沈黙しているが、どこか迷惑げだ。このからかい好きのマスコットが困惑しているのは胸がすくものがあった。

「じゃあ菱澤はこの子の話についてはどう? ちなみに私は疑いも無く信じるわ」

「爛花さんが信じるなら俺が信じない理由はないね。信じようと信じまいと、俺には何の損も得もない話だし、もともと俺の興味のある話題ではないしね。だから俺が誰かに口外するようなこともあり得ないな」

「あなたはそれでいいわ」

 爛花は満足げに笑った。菱澤の言っていることは要領を得ないが、自分が早くも見抜いたのは、菱澤の行動原理は爛花だということだ。ほぼ盲従と言っていいほどに従う関係だ。要は、爛花が欲する答えを返したのだと理解しておけばいいのだろう。

「で、マスケと言ったかしら。あなたの指南によってこの部屋に至るというわけね」

「そうだ鋼鉄。マスコットは世界の情報を最適化して観測できる鋼鉄。といっても主人の関わりのない領域にはその力は及ばないけど鋼鉄。つまり当面行かないであろうサイタマやナガノにわたしを連れて行っても指南はできないのだ鋼鉄」

「その不思議な能力を用いて、伏見神駅の近所ではこの部屋がいちばんいいと判断したわけね」

「そうだ鋼鉄。この部屋は総合的にみて主人のルーツになると観た鋼鉄」

「たしかにね。あなたの語尾は『鋼鉄音楽』の意味で、住人の菱澤は鋼鉄音楽を聴くのが趣味だし、ベースを持っていた。しかもこの子は鋼鉄音楽に親和性が高くベースも弾ける。この子がぴったり嵌る為にあった部屋と言ってもいいわね」

 お茶を飲んで酔いが醒めてきたのか、爛花の口調が段々とメリハリを帯びる。さっきまでと比べて真剣さが増して来たことは彼女の目の輪郭がきりりとして来たことからも一目瞭然だった。

「それに、いちばんの根拠はあたしという破格の理・・・・・・・・・・解者が偶然にも滞在し・・・・・・・・・・ていた・・・ことね。それもマスケは『観測』できていたのかしら?」

「そこらへんを明かしちゃうと、秘密がなくなってつまらないけど、まあいい鋼鉄。実はあんたが居るのは観測できなかった鋼鉄」

そうでしょうね・・・・・・・なぜか・・・あなたを見える私が居たら、厄介なことになりかねないもの」

「鋼鉄」

 同意するマスケ。鋼鉄という語に同意の意味があるとは初めて知ったよ。

それにあたしはあなた・・・・・・・・・・が駅からあたしを観測・・・・・・・・・・できていないのを観測・・・・・・・・・・していたからね・・・・・・・。泥酔していた夢の中で~」

「こ、鋼鉄!?」

 意味深な事を言われ、マスケはうろたえる。だが、爛花の物言いは煙に巻くものだ。人をいじるのが趣味のマスケをいじっている。

「本題に戻りましょう。……で、この子はこれから何をすればいいと、マスケは思っているのかしら?」

「それは……三人で考えたらいい鋼鉄。指南の内容は部屋に案内するとこまでだし、与えられる情報も全部喋った鋼鉄。主人が希望すれば指南しなくもないけども、そうすると二度目の指南を使うことになる鋼鉄。指南は絶対にしくじれない運命の分岐点で使うべきで、それが面白いんだ鋼鉄」

「なるほど、まあ、一理あるわ。三人寄れば文殊の知恵と言うし、ここには菱澤が居るけど私も居るからトータルの知恵はマイナスにはならないはずだわ。というわけで、あなた……あなたというのも落ち着かないわね……名前はないのかな?」

 名前を訊かれて自分は初めて、自分に名前が無いようだと気付いた。器である白い髪の少女の情報は、自分にとって断片的なのだ。だから駅で姿を映して見たように、一つ一つ確認していく必要があった。この少女の――つまり自分の――名前を知らない。ベースの演奏の時のように想い出せはしなかった。

「……ない、みたい」

 自分は急にこの世界に来た。名前は知らない。だが、自分は自分だということだけは分かるし、自分が他ならぬ自分であると自分は知っているのだから、それで充分ではないか。だから自分は答える。

「……別に、いい」

 爛花は自分の内心を読み取ろうとするように、ジッと見詰めてくる。身体がいつもおずおずとしていて、呟きでしか話すことができない制限は、本当に歯がゆいものだ。

 もちろん自分はトーキョーヘイムでの名前ならばある。だが伏せておいた。というのも、この二人の名前からトーキョー人の名前の類型を推測してみるに、向こうでの自分の名前はあからさまに特異なものに思われたからだ。「洞窟に入ったら松明をともせ」ということわざがある。……こちらでは[郷に入りては郷に従え]と言うのだろう?

「でもねえ、この世界では身分証や番号がないと生活ができないのよねえ」

 爛花は思案顔になる。説明によると、本人が全く覚えがないとしても、身分証や番号の情報が本人に成り代わるのがトーキョーの仕組みだという。だがそれはあからさまにおかしい。そもそも本人が本人と言うから本人なのだ。謎のカードに本人認定などされては堪らない。トーキョーの仕組みは途轍もない阿呆なのか。だいたいそんなカードなど、無いものは無いのだ。駅で軽く自分を調べてみたが、カードなど持たされてなかった。すると爛花は一旦菱澤を追い出し、自分の服や持ち物を検査してくれたが、やはり持っていないことが分かった。

「……問題ない」

 と自分は言った。腕と知略と勇気で未知の世界も切り開くのが勇者だ。その自負くらいはある。

「名前が無いなら、俺が考えてやる。白神トウコ・・・・・。何処の馬の骨か分からないお前の名前など、それで充分だ」

「……それは嫌」

 菱澤は即座に言い、自分も即座に答えた。「白」い「髪」で、駅で「倒」れていた「女」という発想から、安易にこしらえたそうだ。もちろんそんなセンスのない名前は遠慮こうむるわけだ。

「……でも……」

 自分は爛花を見る。

 名前がないと困るなら、付けてもらうのはいいアイディアだ。

「……あなたのような親切な人の出迎えを受けられたのも、何かの縁」

「俺は無視かよ!」

 それに爛花ならば、いい名前を付けてくれそうな気がする。

「……あなたが、付けて」

「わかった、いいよ~。でもきょうは酔っ払っていて創造力がクズだから、明日まで待っててね」

 爛花は流れるように速やかに頷いてくれた。なんていい人だ。天使ではあるまいか。

 ところで、このことは伝えておく必要があろう。つまり自分は、名前は知らないが、

「……隣の世界の記憶・・なら、ある」

「隣の世界?」

 自分は頷いた。そう、自分が勇者であり、いままではトーキョーヘイムで魔王を倒す修錬を重ねていたが、なにかの拍子でトーキョーに滑り落ちてきてしまったこと。この世界での名前はないが、いわば前世の記憶ならあるのだ。だが、その説明のためにまたこの身体の不都合な伝達方法をとらねばならないのか……。その時、菱澤の本棚に置かれているペン立てが目に入った。内心を口に出す時には非常に難儀する身体だが、書く時はどうだろうか。菱澤にノートを一枚破ってもらい、ボールペンで自分の内心を書き付けてみた。

 書くのは非常にうまくいった! 思った事をスラスラと書くことができ、たちまち「前世の記憶」でノートの半分ほどが埋まった。[日本語]という初めて書く言語なのに、書きながら思い出して行くような、エキサイティングな感じだ! ベースと同じで、深い処で既に知っているのだ。

 これには爛花も目を瞠った。

「へえ。あなたとは仲良くできそうかな~」

[アズライト]の結晶のような、深く潤った瞳が、興味ありげに自分を凝視した。

「うわ……こいつコミュ障かよ。内心でこんなに言葉を積みまくっているとかウザっ。しかもこの設定と筋書きは妄想が過ぎるだろキモっ。グプゥーッ」

 菱澤は唸った。それは全く誤解だ。自分は本来普通に整然と喋れるが身体が許さないだけだ。喋れない分が内向しているのではない。それにしてもこの男、見たところ鍛錬もせずに緩みきったその肉体、トーキョーヘイムに行けば初等の剣術の授業で早速挫折するに違いない。文化が変わればこんな男でもいっぱしの口をきくのである。もっとも自分はこんな男の罵倒など、軽くいなしてしまおう。

「いえ、過ぎた妄想とばかりは言えないわ。信じられることと信じられないことの境界は曖昧なのよ。それに私達はちょっと自分の心身を外れただけの出来事を信じられないと断定してしまうものよ。菱澤、ゲームでも現実でも、健全な想像力は大切じゃないかしら」

「ああそうかもしれない……いや、その通りだ爛花さん。すまない。俺は時々自分が死ねばいいと思う。第一、爛花さんの解釈に従うと決めたはずなのに」

「あまり卑下しすぎることはないわ。ところで、あなた」

 爛花は破いたノートを手に、言う。

「とても奇麗な字ね、それになかなか緻密に書けている。喋ることよりも書くほうが得意なのね。あなたはこのメモによれば、伏見神駅で目を醒ます『以前の記憶』を持っていることになる。それは、驚くべきことだわ。でも、この記憶は今すぐ必要な情報ではないし、後から更に思い出す事もあるかもしれないから、検討するのは後でも構わないかしら?」

「……構わない」

 自分は応諾する。この世界とつながった一つの世界があるようだということだけ知ってもらえれば、今は充分だ。

「『ベースが武器になるのでは』と書かれてあるけれど」

 それはメモの最後に書いた私見だ。『ПдЯКmooЯ』がトーキョーヘイムの空気感を持っていたことはいかにも不思議だし、自分の身体がベースを弾けたのも不思議だった。ベースを演奏した時はまったく気持ちが良かった。不覚にも、勇者の訓練時代に冒険に没頭した時の気持ちが思い出され、弾きながら感傷的になったほどだ。ベースを弾くことは自分の特別な能力に思える。いわばこの世界での「勇者」の力と言えるだろう。それは今後の冒険の鍵になる。ベースのように複雑で重厚で精密な楽器は、向こうの世界には存在しない。思うに、この世界には剣が無いが、楽器を武器のように使って魔物の勢力と闘うのではないか。この世界の魔王はどういう姿をしているのか……。

 だがメモを読んだ爛花の歯切れは、悪い。

「この世界の魔物と魔王はね~……」

「『ハッハー! とんだお笑いだぜ!』」

「おー、Yngwieの名言鋼鉄ねー」

 自分にとって意味不明な掛け合いをする、菱澤とマスコット。

 爛花はメモを折り畳み、自分の手を握った。

「あのね、一つだけ聴いてほしいのだけど、トーキョーで魔物や魔王を倒そうとはしないほうがいい」 

「……なぜ?」

「たしかに、この世界には魔王がいる。だけどその魔王は今のあなたの方式で倒せる相手ではないからよ。だから別の方式を学ばなくてはならない。そのためにはまずはこの世界の生活に慣れることが必要。あなたの魂の純真さが落胆で曇るのは辛い。だけど、あなたが引き裂かれて崩壊して二度と戻らなくなるのはもっと辛い。今は私が守ってあげる。だから黙って聴き入れて」

 自分のどこを純真と言ったのだろう。少女の外見によって補正されたのかもしれない。爛花のまなざしは真剣だ。むしろ爛花こそ純真にみえる。それは直感から明らかだ。だから、内容は分からないが、爛花は正しいのだろう。

「……わかった」

 自分はたしかに少しは「落胆」したが、爛花の忠告を聴き入れた。

「……でも」

 すぐに魔王を倒せないと言われたら、自分は何をしたらいい? 自分は根っからの冒険者。勇者は冒険者の極致なのだ。冒険しない生き方なんて想像もできない! 

 でもこのトーキョーでは、自分の生活は少し変わってくる予感がしている……。ここでどうやって生きたらいい? 

「……だったら」

 自然と独白が漏れてしまう。新しい世界への興奮と不安が渦を巻いている。気持ちの昂りが抑え切れない。だったら、どうやったらいい? やはり自分はトーキョーでも冒険をしたい。どの世界にも、冒険があるはずだ。この世界にも、冒険者がいるはずだ。だから、そいつらを捜し当て、情報を得るつもりだ。この世界の冒険の流儀を身に付けるのだ。そしてこの世界でも、自分は……。

「……自分は、勇者として、生きていきたい」

「かわいい子ね。わかったわ」

 紫羅爛花は、猫が笑うように――猫は笑わないが――ニッコリ笑った。この場面を切り取った戯画があったら、「にゃああ」と効果音を当てたくなるあような、珠玉の可愛らしさだった。

「せめてと言うわけではないけど、後で時間を見付けて、RPGをやるといいわ……。この部屋には超レトロゲーがあったでしょ、菱澤」

「ああ、分かった、爛花さん。あとで準備しておくよ……」


「それじゃあ、あなたに一つ提案だけど、あなた、この男と共同生活するといいわ」

 人差し指を立てて、爛花は言った。それはまるで指を立てたと同時に思いついたような物言いだった。

「……ちょっと待ってくれ爛花さん。さすがにそいつは無茶ってもんだ」

「あら、それは単に菱澤が共同生活上困る営みを色々抱えているからでしょう? 行きずりの遠い世界の女の子を東京の魔都に放り出すの?」

「いや、確かに一理あるが、さすがに俺の都合を考えてくれないと困る。受験も近いんだ」

「仕方のない豚さんね~。まだ分からないの?」

 爛花はぴしりと言った。菱澤を醒めた半眼で眺め、前髪を掻き上げた。ふだん隠れている形の良い広い額があらわになる。それは男女の別なしに色気を感じさせる。

「この子は、『シンデレラ』なんでしょ? 菱澤の為なのよ・・・・・・・

 菱澤は表情だけは真面目だが、顔色がみるみる赤くなるのを抑えることができない。この侮蔑といってもいい局面に恥を感じている。だが妙なのは、そこはかとない嘉悦を覚えているように見えることだ。どういう心理なのか。

「分からないならいいわ。この提案は無し。菱澤に提案をした私が――」

「ああ、待ってくれ爛花さん、俺を見下げないでくれ。すまない、俺が至らなかった、喜んで提案を受け入れさせてくれ。ブフゥ」

「……そう。分かればいいわ。じゃあ、よろしくね」

 爛花は微笑みをふたたび回復させた。それはまるで機嫌を直すところまで計算尽くでしている芝居に思えるのだ。

「菱澤は歓迎してくれる・・・・・・・そうだけど、あなたは構わない?」

 自分は頷く。否やはない。トーキョーに来たばかりで暮らしの方便たずきが無いところだ。[家賃]も払えず[食費]もない。とても助かる。だが、部屋の主の人格に問題はありそうだ。しかし菱澤の性格はトーキョー人の普遍的な性格というわけではないのだろう。ラーメン屋の店主も爛花も菱澤とは違う。

 菱澤はテレビの前に座り、ゲームを再開した。体感では部屋の半分を占めるような立派なテレビである。この世界では有名な[アイドル育成ゲーム]をやっているようだ。三次元を模した二次元世界の中で、クールでキュートなデザインのアイドル候補生と、やりとりするゲーム。かん高いが調製されてまろみを持った[声優]の声が、寝ていた爛花を気遣ってか、ひそやかに流れている。理想的な少女とつながる仮想体験。だが菱澤を客観視すると、明澄な姿のアイドルと、画面の外の菱澤のドラム缶のごとき肉体とでは、明らかな断絶がある。

 しかも菱澤がプレイしているゲームは、自分の身体に入っている[常識]から引き出した直感によれば、何世代か前のソフトである。現在のトーキョーでは、完全な仮想現実のゲーム・システムが消費者向けに汎布はんぷされているはずだった。

「なんだよ。アイドルゲーに必要なのは思い入れだ。愛があれば画面の境界なんて溶かせるに決まってんだろ。それすらできない奴らは、俺から言わせればアイドルゲーをする資格は無いね。甘えきった奴らの脳には、造り込まれた仮想現実も、平面に感じられるだろうよ」

 自分の気配を察したのか、ふいに菱澤が首だけでこちらを向き、言った。

いいのよ・・・・、菱澤は」

 爛花が自分に、言う。

「そうね、あなたの宿主について、少し知っておいたほうがいいわ」

「ああ、爛花さん、それ・・なら俺が」

「いえ、女の私から説明したほうが、何かといいでしょう」

「……わかった。じゃあ、頼むよ」

 爛花に言われると、菱澤はゲームを再開した。

「さて、この部屋は菱澤龍圭の一人暮らし。私は客人で、まれに部屋に居る人種ね。菱澤は十九歳で、職業は浪人。現在二浪目。志望は伽藍堂がらんどう大学。不得意科目は英語。健康に問題あり。全面性狭界病・・・・・・に罹患している」

 自分は少女に収められた情報を総動員して解釈する。だが最後の全面性狭界病・・・・・・とは全く知らない情報だ。この世界の特有の病気なのか。

「菱澤がこの病気に罹ったいきさつは、がんらい本人が性欲が強すぎたことに由来する。あまりに強烈すぎたその性欲から、本人談によれば、このままでは正気を失ってしまうか犯罪で破滅すると、『本能で察した』らしい。すると、本能が本人の認識を変・・・・・・・・・・えさせる・・・・形で、性欲の膨張を遮断した。つまり、全ての女性について、いとも醜い物に見えるようになってしまったの。どう見えているのかは本人でないと分からない。ただ、絵を描いてもらったことはある。それが、これよ。伽藍堂大学のキャンパスを歩いている女子学生をスケッチしてもらったものよ」

 爛花はロフトのマットの下から、画用紙に描かれた絵を取り出した。

 自分はそれを観た。

 手に取った瞬間、なぜか背中を寒気が突き抜けたのだ。

 これは……何物なんだ? 「女子学生」と言われたモチーフは、それとは思えない。何というか、目なら目、鼻なら鼻、額なら額、全てのパーツが完璧に分断している顔面ふうの何かしら・・・・・・・・・だった。この世界には[不気味の谷]という表現があるようだが、そういう生易しいものではない。不気味の谷(むこう)はまだ人間を模した何かであると感じることができる。だがこちらでは、単に醜さというパーツの寄・・・・・・・・・・せ集めなのだ・・・・・・。擬人的な何物かですらなかった。すごく気持ちが悪い。

 絵という鑑賞物なのに、目が、肌が、骨格の凹凸が、その一つ一つが、大怪獣であるかのように迫って来る。なだれかかって来る。あふれかえって来る。自分はこの絵を二度とは観られなかった。目が情報を取り入れるのを拒否している。首が勝手に背いてしまう。

 ……ああ、わかった。地獄とは、これだ。噂に聞いた魔王の本拠。この菱澤は、現世に生きながら、地獄に苛まれている。どうして同じ人間を描いて……ちらりと見ると、うわ、また猛烈な寒気……どうしてここまで、醜くなるのだろう。いや、だがまあ、本人の絵のセンスが独特の方向に振り切っている可能性もある。だがもし事実として、本当にこれ・・が観えるなら、この世界は苦しいはずだ。女の美しさを楽しめないなんて! 今は自分も女になってしまったが、こんな観え方は少なくともしない。

「ところが、菱澤の病気には続きがあるの」

 爛花は続ける。

「全面性狭界病は、進行した・・・・。その結果、女子に限らず男子も、あげくは世界全部に亘っても、醜く見える副作用を生みだした。どうしてかって? それは謎ね。女子だけをシャットダウンするほどこの男の認識は器用ではなかったか、あるいは人間の認識は、そもそも世界全体を変えなければ変えられないものなのか。というわけで、この男は、部屋から外に出ることを恐怖する。でも、なぜか分からないけれど、不思議なことに私のことは普通に観えるらしいの。普通というのは語弊があるかな。菱澤は二次元の人間については認識の変化は起こらないそうなんだけど、私のこともまさにああいう感じに観えているらしい。仮想的なキャラクターにね」

 爛花は丸めた画用紙で、ゲームの画面を指差す。ゲームは会話からライブのフェーズになり、立体的な二次元キャラが歌って踊っている。自分がハッと気付いたのは、ゲームのアイドルは背景と同じ素材ででき・・・・・・・・・・ている・・・ことだ。画面の向こうでは無機物も有機物もない。世界全てが微小な点の結合で構成されている。……ということは、菱澤は爛花を無機物でも有機物でも・・・・・・・・・・ない何か・・・・として観ているのか。

「……なんで」

「分かんないけど、私は唯一の例外というわけね。認識が全世界を覆うとはいえ、雨漏りくらいはするんじゃないの? 私からすれば大いに迷惑よ。私は物体としても、ひとかどの美貌を備えていると自負しているのに、ゲームキャラそのままの純粋な幾何学図形として観られてしまうなんて! 菱澤の世界に開いた極小な穴からは、二次元から三次元に向けて、世界が反映されてる。私の時にだけ、全面性狭界病の副作用のが起きる。私は唯一の例外だった・・・。そこで菱澤は、愛するゲームのタイトルから取って、私のことを『シンデレラ』と名付けた。ということで、もう分かるわね?」

 さっき爛花が掛けた言葉の意味。

 ――この子は・・・・シンデレラ・・・・・なんでしょ・・・・・

 あれは、つまり……。

「……自分も?」

「その通りよ。菱澤の反応を見れば、あなたが二人目の『シンデレラ』なのは明らか。そもそも、そうでなきゃ、菱澤はあなたを部屋にさえ上げていない」

 それは確かだろう。あの絵に描かれたような醜い物を部屋に招き入れる人間なら、更に二つ目の病気にも罹っていると見るべきだ。

「爛花さんは何でもお見通しなんだ。だから爛花さんは俺にとっては特別で不可侵で、唯一の尊在・・なのさ」

「……自分は?」

 訊いてみた。自分も『シンデレラ』には変わりない。この男に特別と言われても嬉しくもないが。

「お前は只のイミフだ。髪も白いし、常識も通じない。爛花さんとは比べようとも思わんな」

 即答。訊かなきゃ良かったよ。

「……だがまあ、この世界で二次元を除いてまともに存在する二つ目の人間であることだけは、評価してやらなくもないゾッ」

 菱澤はムッツリと言った。照れていたのだろう。語尾が裏返っていた。純粋に疎ましい。

「……そういうわけで、菱澤の世界では、君と私だけが擬人的な存在。言ってみれば、病気によって無人となった荒野に、二人だけの天使が舞い降りたということ。菱澤によれば、『シンデレラ』という仮想的な存在は、男にとっては美的対象であって、性的対象では全くないそうよ」

 なるほど、だから爛花は気兼ねなしにロフトで寝ていたのか。

「もっとも、それが嘘で、私達に性欲を抱いているとしたら、よくよく業の深い生き物よね。怒張するおぞましい性欲を何とか閉ざそうと、最後の賭けのような防衛本能で病気にまでなったのに、それでもなお性欲を感じてしまうのなら、それこそ菱澤は今この場所には居なかったことでしょう」

「……そう。……難儀」

 自分は思わず呟いてしまう。今でも魂は勇者のままだから、菱澤の「おぞましい性欲」までは実感できないが、男特有の心情は解る。初めて菱澤に少し共感したかもしれない。

「ちなみに俺の病気の俗称は『イデオフィリア』と言うそうだ。一つ賢くなったな、フフッ。受験には必要ないがな。……おっ! よし来たフギャァァアアア!! やっと念願のオーディション突破したぞ! おお、俺はキミが愛おしいよ! キミは世界と同調している! ピャアアアアアア! 本当に素晴らしいアイドルだよ!」

 菱澤は薀蓄を垂れたかと思うと、ゲームの展開に狂喜する。病気持ちだが声量は人一倍だ。鍛錬してみれば、トーキョーヘイムでは様々な職業の目があるだろうに……。ところで、[受験生]と言っていたな。

「今日は一区切りかな。私は本番の眠りに入る。あなたへの詳しいガイダンスは明日からにしましょう。朝食でも摂りながらがいいわね。では菱澤」

「お休み、爛花さん。時間はいつも通りの流れだな。分かってる」

「ああ、頼むよ。客人も居ることだしね」

 爛花は立ち上がった。直後、「ぴしっ」と音がした。菱澤はゲーム中で気付かなかったが、自分は反応した。座卓を見ると、木製の足に今まで無かった亀裂が走っていた。今は誰も座卓に触っていなかった。だがその時、自分の中で、しばらく前の事実と現在の亀裂が符合した。根拠はない。ただの直感だ。すると爛花はしゃがみ、自分の予感を裏付けるように囁いた。

「……目ざといね。こんな具合で、ゆっくりと受け止めて・・・・・・・・・・くれたから・・・・・、怪我しなかったわけだよ。私は『シンデレラ』だからね」

 それは菱澤には聴こえていなかった。菱澤はマスケが観えない。爛花のあのシーン・・・・・も観えていない。……確かに爛花は『シンデレラ』だが、もっとそれ以上のもの……。すこし恐れながら予想すれば、人間とは異なる者・・・・・・・・なのではないだろうか。爛花には大きな秘密がある……。だが、異世界からの滑落者という点で言えば、自分も似たようなものか。

「じゃあ、お休み~」

 爛花は一瞥をくれて、ロフトに潜り込んだ。トーキョーヘイムから離れていようが、文化が変わろうが、美貌は美貌で共通だ。ロフトに潜ったTシャツ姿でも、有無を言わせぬ説得力があった。

「うふふ。明日になったら驚くゾ~」

 菱澤はゲームに没頭しながら、何を意図しているのか、含み笑いを漏らした。

「……自分は?」

「お前の寝場所なら、収納の中にマットがあるゾ。そこらに敷いて寝ろ。音がうるさきゃキッチンに行け。俺はどうせ寝落ちだから心配するな」

 誰も心配しないが、菱澤は分厚いどんぶくを着込んだ。

 音? 勇者はトーキョーの騒音くらいに惑わされる小心者ではない。街の中心部で野宿しながらも、夜襲の些細な物音にすら気付く。大胆で鋭敏な感覚こそ勇者の証だ。

 というわけで自分は、世界の遠い場所での「初夜」を迎えた――。

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