『Dies Irae』〈前〉
マスケに言われるまま、当該の部屋をノックしたが、反応がなかった。拠点と言うからには、冒険のアドバイスをくれる人物でも居るのかと思ったが、誰も居ないのか? 共用の廊下は見回すと、安っぽい建材に、雨避けの屋根が掛けられた陰湿な空間……。突き当たりには目と鼻の先まで隣の家が来ている。駅で目覚めた時は、つまり遠くからぼんやりと眺めるぶんには良かったが、少し分け入るとトーキョーはこんなに美観が無いのか。自分は眉をひそめる、もちろん身体には表れない。
ドンドンドン、もう一度ドアを叩く。物音はしない。正面に覗き穴のようなレンズがあるので顔を近づけるが、黒くてわからない。
「おかしいコウテツねぇ」
マスケが顔をかしげる。いるはずコウテツが……。などと呟いている。
「……いや……」
自分はマスケに呟き返す。……居る。しっかり気配がして、こっちを注意しているのを感じるぞ。その程度の勘が備わっていなくては冒険者なんかできない。鈍感な奴は、街から原野に踏み出した途端、魔物に殺される。
だが、中の気配は動く様子がない。気付いていないのか? ドンドンドンドンドン。ちゃんとノックして、しばらく待つが、ドアは開かない。相手に出るつもりがないのなら、ここは拠点になり得ない。マスケの目算は外れたんじゃないか? それを口にすると、
「……外れね」
と呟いた。この身体は、女言葉で出力するように仕立てられているのか! 口数が少なかったばかりに、今まで気付かなかったが……。これもまた試練だな。
いや、身体が女ならば、言葉も女言葉なのは自然かもしれないが、慣れることができるだろうか? 勝手に自分に赤面する。
そういう一連の寸劇の間も、やはり反応はない。中の人間は、出る気がないのだ。ならばもう自分も無理に訪ねはしない。自分はきっぱり決め、部屋をあとにした。
だが、廊下を曲がり、階段を下りようとした時、気配が後方からむわっと放たれた。
振り向かずとも分かった。部屋の主が登場したのだ。
――この瞬間は、きわめて大きい運命の分岐だった。それを瞬時に自分は勇者の直感力で感じた。このまま帰るか振り向くか――どちらが良い未来になるかは、全く見えないが、選択によって自分のトーキョーでの筋書きが全く違った二つのものになる。それは間違いないという直感。マスケの「指南」を真に受けるか。それとも、三度もノックして出なかったのだから、流れを重んじて帰らせてもらうか。自分は過ぎたことは振り返らない。「戻る」とか「やり直す」のは大嫌いなのだ。それは勇者の美学のようなものだ。ちょっとした忘れ物をしても取りには戻らないくらいだ。
だがしかし、この世界に落とし込まれて、馴れない別人の身体のせいもあったのか、自分は「戻る」ことを選んだ。つまり、振り返ったのだ。
嫌というほどノックをしたのに、終わったタイミングで、のそりと現れた人物……それは異様な青年だった。黒ぶちメガネをかけて、猫背で太りぎみで、ぱつぱつの薄ピンクのTシャツを着て、髪の毛はヘルメットのように眉毛を隠すまで伸びた気鬱そうな男が、ドアを開けて顔を覗かせていた。こういう雰囲気の人間とはトーキョーヘイムでは出遭ったことがない。
「……」
「……」
無言で、対峙する。自分の身体は性能上無言だが、男は何を考えているのか分からない。魔物よりも心が読めないな。
「お、出やがったコウテツねー。あいつが君の宿縁の人間コウテツよ。よかったコウテツね。コッウッテッツッ」
マスケが白々しく言い、意味ありげに笑う。というか、お前はそういう声で笑うのか。魔鳥の首を締め上げた断末魔にそっくりだな。
だが訂正しろ。あんな異様な男が宿縁であってたまるか。自分は内心嫌々ながら、だが身体は恐怖を表明できず淡々と、男に近付いて行った。この身体でなくても警戒する異様さだ。「この世界では豚が直立して文明を営んでいるのか」と言いたいところだし実際に自分は言ってやったが、この身体は勝手に、
「……寝る場所がない」
と呟いた。内容の削ぎ落としだけでなく、変換まで始めやがった! この身体はなぜ自らを追い込む言動をとるのか? 男と女の常識は異世界も一緒だろう。この少女はものうげで神秘性をたたえた特殊な容貌とはいえ、美形であることは疑いない。そんな少女が男の家に「寝せてくれ」と訪れたら、破滅を招くのは明らかだ。
猫背の男は、背は高いが蛇のように下から覗き込んで来る。自分も、中をうかがう。玄関に電気もつけず、部屋は薄暗くカビくさく発酵臭がする。生温かい空気が外に流れ出る。なんだこの個室は。こんな所にトーキョーの人間は住んでいるのか。訓練できる異種族や魔獣を入れて客に品定めさせる、商館の一角に設けられた檻のような所だ……。
男は皿のような平坦な目で、自分を眺め回した。
肉厚な唇がぷふっと笑い、言った。
「きみィ……人間じゃないね?」
*
「……なぜ」
呟いた二文字は、初めて内心そのものが出た。
男は窮屈げに「ふむっ」と鼻息を吹き、自分を観察してくる。
豊富な脂肪が覆う、土管のような胴体、きつそうに着ているTシャツをつまんで、整える。単純なヨットが海に浮かんでいる絵がプリントされている。センスのない図柄だ。
「なぜって? それはこちらのセリフだよ。お前の目的は何だ? 訪問販売か? 勧誘か? 宗教か? そういう奴らでなきゃ俺の所に来る理由がないだろう? 俺はどの意思もないしお前達に渡す金もない。どういう事情か知らないが帰ってくれ。さあ去ね去ね!」
男は手をあおぐ。不躾にもほどがある。……だがちょっと待ってもらうぞ。お前は「人間じゃない」と言ったな。自分がこの世界の人間でないことを見抜いたのか? だとすればうやむやに済ますわけには、
「……いかない」
末尾だけが呟かれた。
男はドアをゆっくり閉めようとする。自分は手を入れ、引き開ける。
「ンフックッ、意外に力のある奴だなこいつ……。どうせ金なんだろ? この社会は全員……クムォ……そうに決まってる……!」
牛のゲップのような奇声を上げ、対抗する男。上背があって大きめの体格だが、予想外に甲高く掠れぎみの声で、妙に早口だ。これも文化の違いか。
男が力を入れると、確実にドアは引き込まれる。少女の身体に合わせて、力も弱められているのだ。ドアを閉められたら、自分の何かを知っているかもしれない男と、接点が消えてしまう。そもそも何で部屋に入れないんだよ。ここが拠点だって言ったろうマスケ。
「……おい、どうした、何している?」
男の力が、弱くなる。自分がマスケを見ているのを見て、不審がる。マスケは男には見えない。自分が中空を見ているように見えるはずだ。ここには人形が居るんだよ。お前には見えないだろうがな。
「……居るの」
自分の身体は、呟く。
男も、自分と同じ空間を見る。
「……プフゥ。何が居る? 悪霊か? それとも守護霊か? だったら俺の願いをすぐに察知して願いを叶えてくれるのかね。くそがっ」
男は黙り込んだ。
玄関へ身を引き、自分をじぃっと見ていた。
「上がっていい。靴は脱いで入って来な」
玄関と居室を仕切る、丸やかな四角窓のある扉が閉められた。四角窓は濁りガラスなので、向こうは見えない。だが、明かりが投げ掛けられている。
「ほら、入れたろコウテツ」
したり顔のマスケである。
目に痛いくらいのまばゆい光に居室は照らされている。天井が高い部屋だった。[ロフト]がある。……梯子か、懐かしいな。向こうの世界の宿でもポピュラーなものだ。
「扉は閉めてくれ。暖気が逃げるからな」
男は部屋の中心に腰を下ろす。正方形の座卓があり、棚とクローゼットとCDラックがある、そんな簡素な部屋だ。本棚には本が数えるほどしかなく、がらあきの棚が目立つ。輪をかけて部屋を明るくしているのは、大画面の[テレビ]だ。細長い箱型の[ゲーム機]が接続され、ポーズ画面にはCGのアニメーションで描かれた女の子が映し出されている。座卓には食べかけの焼肉弁当が置いてある。男の足元の袋には[菓子パン]や[スナック菓子]や[チューハイ]。食物が凝縮されたような、すえたにおいが滞留している。
「まず荷物を下ろしな。で、お前は何の用で……」
あんパンの袋を開けて、男はかぶりつく。あんパンのように膨れ気味の顔があんパンを咀嚼している。ここが何の拠点になるというのか……。
!
自分は何かに気付いた。つまり、気付いたら身体全体がその物体の方に引き付けられたのだ。本棚の横に置かれていた一本の黒い物体。
「……そいつが、どうかしたのか?」
だんだん、男の声が消えていく。勝手にこの身体の集中力が高まっているのだ。自分にとって、澱んだ部屋の空気は消え、高山の山頂のような空気となる。そこはちょうど一人くらいなら立てる狭い頂……。
次いで自分は本棚の反対にあるCDラックに目をやった。縦積みのCDラックには、気付かなかったけれども、本棚とは違ってCDが充満している。この男は本が嫌いで音楽が好きなのだ。自分は目についた、というより分かっていたかのような一枚のCDをラックから引っ張り出し、男に渡した。
「……これをかけて」
「何なんだ、いきなり? 聴きたいのか?」
自分はうなずく。うなずくだけなら、この身体もちゃんとできた。
CDの[ジャケット]は、暗っぽいピンク色が基調。黄色のロゴで『ПдЯКmooЯ』と書かれてある。自分達の言い方では、演奏団とか楽団……要はこの[バンド]の、ロゴなのだろう。ジャケットの中央には兜と槍で武装しベールを着ている黒ずくめの人間が描かれていて、後ろにそびえる岩山の城塞を守っている……。何だろう、トーキョーヘイムの習俗を少し思い出さなくもない。だけど随分と簡略化されている。勇者が活躍するにふさわしい世界の生々しさも重みも切れ味もない。こんな絵は描き捨てのマンガと言ってもいい。だが、CDで肝心なのは中身だ。ジャケットは大きい要素だが、左右されるべきではない。
「こういう音楽が好きなのか?」
「……知らない。はやく」
自分は急いていた。この身体にしては最高に積極的な言動だ。このCDには自分の奥底につながる何かがある、予感というより確信。トーキョーの人間、いや向こうの人間でさえ、こうした感覚を妄想と呼ぶかもしれない。だが勇者は理屈を唱えている間に殺されることもある商売だ。直感で何となく場所を移動したら、直後にそれまでの場所に雷が落ちたなんて例は数知れない。自分にとって重要な直感を「論理」に感じ取れるまでに高めた職業が勇者でもあるのだ。
男はCDを受け取ると、本棚で埃を被っている[ラジカセ]を出してくる。自分としては、立派なスピーカーに繋がったゲーム機で聴きたかったが、男は中断できないゲームでもしているのだろう。仕方ない。
男はラジカセを床に置き、コンセントをつなぎ、『ПдЯКmooЯ』のCDを入れた。音量が低く設定してあるのが見えたので、ツマミを最大までひねる。「お、おい、ここ壁薄いんだから」と男が太ったゴキブリのような動きで這い寄るが、自分は譲らない。この男は何も分かっていない。出だしの音量は特に肝心なのだ。男との無言の争いの末、ボリュームツマミは七割のポイントに決まった。音楽が流れて来る……。
――こ、これだ! 自分が求めていたのはこれだったあああああああああ!!!
時間が消える。空間が吹き飛ぶ。独つの音楽が自分を呑み込む。直感が正しかったことが明らかになる。求めていたというのはつまり、この音楽が自分の奥底と繋がっていることが判明したのだ。楽団の演奏からは、強烈なトーキョ-ヘイムの空気や風土が感ぜられた。自分は強力無比な安堵感を覚える。トーキョーに来て以来揺らいでいた自分の根幹に、野太い柱が据えられたような。しかし、どうして、トーキョーにあるCDの音楽が、トーキョーヘイムを感じさせるかは分からない。いや、われながら愚かだ。それこそが音楽ではないか。音楽の実質の前には、世界の境界など、空中に引かれた線のようなもの。たちどころに吹き去られて消えるものだ。
この楽団の音楽について、音の連なり、楽器ごとの演奏、全体のハーモニー、そういう部分に着目して、論評したり講評することはできよう。だがこと音楽に対して、そうした行為は愚昧だ。ひとたび音楽が聴こえれば、「今」「どう受け取っているか」ということ、そこにしか意味はない。そして自分はこの楽団の演奏に、二つの世界を橋渡しする効能を認める。マスケや部屋の男が何と言おうと、トーキョーやヘイムの批評家たちが「そんな効果はない」と言っても、自分にとってはある。自分にとっては唯一無二の秘法。それだけで充分であるし、それ以外、言うこともない。勝手に何とでも言ってろ。
……と、この奇妙かつ必然的出会いを遂げた音楽に運び去られた自分が、やや鎮静を取り戻したところ、この世界での行動体である少女の身体が精神から置き去りにされ、自失の体で佇んでいるのを自分は観察するのだった。男が「うるせー!」と言っている。
どこがうるさいのだ。鑑賞に没頭している身からは、闇夜の奥できらめく宝石のように、鎮かでつつましいではないか。
だが、こうしてはいられない。すかさず身体を動かし、自分はある物を手にした。黒く、重量のあるその物体は、本棚に立て掛けられていた[ベースギター]だった。
CDの時と同じだ。あの時、この楽器も同時に心に深く響くものがあった。この[ベースギター]という楽器は、この世界では、自分とは切っても切り離せない物だ。物的証拠もある。自分が駅で目醒めた時に背負っていた直方体のケースを開けた時、内部が[ベースギター]の形に抉られていた、つまり[ベースギター]を収めるものに他ならない。
もっとも、ケースには中身はなく、代わりに別の物が入っていた。その話は後でするとして……。
入っていなかった中身が何処にあるかというと、男の部屋にある楽器がそうなのではないか? 自分はケースを開けて、男の楽器を収めてみる。よし。ぴったりだ。予想通り、この楽器は自分の為のものだ。その根拠はマスケの指南にもある。トーキョーヘイムに繋がる音楽があり、ケースに入るべき楽器がある場所ならば、マスケが「拠点」と言ったことが納得できる。
そして自分は、直感の導きにより、ケースから[ベースギター]を出した。
CDの時と同じく、自分はこの楽器のことが判る。
[ベースギター]とは、見たこともない物体だった。しかし同時に自分の心身は、「この物体と使い方を知っている」と告げた。つまり自分は、新奇なワクワクと、熟知した全能さとが一体となった気持ちを、まとめて感じたのだ。その気持ちを表す言葉を探した結果、自分はこう思う。――こいつは最強だな……! と。
「お、おい……」
男が、唖然としている。どういう心境かは知らない。まだ自分はこちらの文化には疎い。だが構わない。自分は肩に[ベースギター]を掛けた。あるべき物が無い気がする、具体的には線状の物で、本来の音色を得る為の物が。だがこの際いい。依然、音楽は鳴っている。合流しなければならない。
びん、絃を試しにはじく。この男、しばらく弾いていないな。絃が緩みすぎだ。こっちは締めすぎ。センスあるのか? だが、はじけるなら構わない。自分は鳴っている曲に合わせてベースラインを弾いた。右手も左手も自在に使って六つの絃をはじく。べんべんと肩透かしを喰らうような音色だが、確信がある、自分は一音たりとも間違った音符を演奏してはいない……。いいぞ、何か、この身体の深層に溶け込んでいき、二つの世界の秘密への糸口が、呼び覚まされそうだ。ここは八分……ここは十六分……次で転調するな……。なぜ判るかというと、演奏することによって脳が曲そのものとなり、ほとんど勝手に指も身体も動くからだ。雪は下から上に降ることはなく、木々が勝手に移動することもない、音楽は、自然と同じだ。音符のある場所は、最初から決まっている。――こういう考えも、弾きながら勝手に、脳裏に閃いてきた。この少女の肉体は、音楽の修錬を積んだ肉体なのかもしれない。
べん、と絃を最後にはじき、一区切りついたので、自分は演奏をやめた。ちょうど、CDも終わった。
男がぽかーんと見上げている。食べかけのあんパンが、机に投げ出されている。男は正気に返ったように、突然パチパチと拍手を送ってきた。
「よ、よくわからねぇけど、……オツ」
「……ありがとう」
身体は、無表情で答えた。演奏の熱量で少女の顔色はうっすらと桜色を帯びた。
マスケが、頭上で言った。
「フフ……。もう分かったコウテツね。コウテツという語尾は『鋼鉄』――鋼鉄音楽のことだぞ鋼鉄」
心なしかこの人形は得意げである。だが[メタル]とは何か。少女の肉体にもその情報は収められていない。流れから察するに『ПдЯКmooЯ』のような音楽を表すのだろう。あの曲たちは、トーキョーヘイムの空気を忠実に再現した!
また、ベースギターを弾くことで、トーキョーヘイムをさらに身の回りに感じた。自分にとってベースギターは最強の味方であるし、武器であると思える。自分はこの武器を持ってトーキョーの冒険に乗り出すに違いない。
「んもぅ。地獄の泥のように不快にまどろんでいたのに……。悪夢の中の喧騒かと思えば、実際の音だったのね」
どこから声がしたのだろう。雲をつかむような感覚だった。
天から降ってきたとも感じるその声は……。ロフトからだった。もこもことしたふとんから、[淑女]といった雰囲気の少女が顔を覗かせた。
*
「いつものように最悪の目覚めだわ。お早う菱澤。それに、どなたかしら?」
少女の第一声は、鋭い刃のようでいて、まろやかなココアのようでもあった。
少女がきわめて美しいことは一瞥して知れた。自分の身体とはタイプが違うが解る。なにげない白のTシャツを着て、化粧っけも全くない格好ながら、部屋の空気を支配する存在感を持っていた。
豊かな濡羽色の髪は長くて流れが美しく、寝起きの半眼はまどろみの中にも爛々とした好奇心を放っていた。生まれながらに高さが違う者を当たり前に見下ろす事に慣れている目だ。トーキョーヘイムでもそういう者達を知っている。
男は立ち上がり、そうするのが儀礼であるみたいに、黒髪の少女を示した。
「あぁ、紹介しよう、彼女は紫羅爛花さん。俺の、知り合いだ。ちなみに俺は菱澤龍圭。まあ爛花さんに比べれば俺の名前はどうでもいい。忘れて構わん」
と、名前が判明した男は卑屈すぎるほどの自己紹介をしたが、注目すべきは堂々とさえ感じられることだ。
「ケケッ、男の忠節ぶりはどうだい、君へのツッコミも忘れて粛々としたもんだな鋼鉄」
マスケが揶揄したように、菱澤という男は自然界の摂理のように、ロフトの少女を上位に置いている。だが自分も選ばれた人間である勇者の感性によって、[紫羅爛花]が纏う特別な才気を感じないわけではない。この少女には生まれ付いての身分の高さや気位の高さがある。そして自分は、そういう者を嫌いではない。
「爛花さん、お早うと言いたいが、まだ夜だ。起こして済まない」
「別に、いいよ~。朝じゃないのはすぐに分かったよ~。それより、面白い子がやって来たじゃない。菱澤がナンパなんてする訳はないから、つまり、こうなるべくしてなったわけよね~」
少女は言う。貴族的な雰囲気に似つかわしくない緩い口調だ。
そして次に自分に語り掛けた。
「ねえあなた、あたしのことは爛花って呼んで? それよりあなた……。妙なお伴を連れているのね~?」
少女は確かにマスケを観て言った。
「ね~、菱澤。もしかしてこの子、私と同じだったりする~?」
「あぁ、その通りだ、爛花さん。俺も驚いたんだが、この子は『二人目』だ……。突然訪ねて来てね、しつこいので追い返そうと思ったら、まさかさ。珍しい現象だと言えるな」
男――[菱澤龍圭]は、ひとり納得している。いったい何の話なのか。
「そっか~。面白いね~。愉しいね~」
爛花はロフトの縁に腕を載せて、そこに顔を載せて、ニコニコと幸福感たっぷりだ。こちらも満足げだが……。爛花から酒類の匂いが漂っているのに気付いた。かなり濃密なアルコール香だ。こころなしか爛花の顔も仄かに桜色であるし、自分が来る前に相当に飲んだのだろう。
「爛花さん、いまウーロン茶を出そう。爛花さんはコイツと知り合いなのか?」
「う~ん。どうかなぁ」
爛花はニマニマしている。思わせぶりのようでいて、泥酔で惚けているだけかもしれない。ところで、菱澤にコイツ呼ばわりされる覚えはない。
「よぉし……。今行くよ~」
と言うと爛花は身を乗り出し、そのまま頭から自然落下した。
「危ない!」と叫び、助けに走ろうとしたが、この体はどちらもできるわけもない。ただ無言・無表情で見ているだけのありさま。
爛花は空中でクルリと回転したかったようだが、半回転しかできない。Tシャツにハーフパンツの高貴な女は、背中から真下に落ちた。――だがそのとき、妙な効果が波及する。自分の見ている世界は、はっきりとスローモーションになり、その代償なのか、色彩が大部分抜き取られ、枯れた部屋となる。菱澤はあらぬ方向を見て、動作の途中で硬直している。間違いない、時空が歪んだのだ。
爛花は、背中から床に落ちていた。ちょうど座卓に両足を投げ出していた。スローモーションの世界の中、ずぶっと、爛花の両足が座卓に沈み込み、背中は床に沈んだ。まるで落下の衝撃吸収の為、一体化するかのようにだ。落下の衝撃なのだろう、机と床はゆっくりと自身を波立たせ――やがて意思あるかのように優しく爛花を押し戻し、何事もなく佇んでいた。
爛花が正座して座ると、スローモーションが解かれ、部屋の色も戻った。
「……今のは……」
「あら、何か見たかしら?」
呟いた自分に、爛花は答える。
「私はロフトの横の梯子をゆっくり降りてここに正座した。常識的なふるまいね。そうでしょう菱澤? この人には梯子が珍しいのかしら」
「ああ、そうかもな」
菱澤は相槌を打ち、冷蔵庫のほうへ歩いて行く。
「ふぅむ。試してみたら、あなたはやっぱり観えるのね」
爛花は秘密めいた笑みで片目を瞑ってみせ、指先でマスケをつつく。やはり観えている。
そして、爛花も言う「観える」とは、何なのか。
「お茶だぞ」
外は雪だというのに、丸盆にグラスを三つ載せて、菱澤が冷たいウーロン茶を持って来た。まあ、自分はトーキョーに迷い込んだ客人の立場で、贅沢は言えない。幸い即席のベースライブで体は火照っていたので、ウーロン茶で冷やすことにした。