無動の陥穴(かんけつ)のダンス
《人は、できないものごとの中に才能を見出そうとするが、あたりまえにできることの内に才能は表れるものだ。それに気付くことは難しい。》
《菱澤龍圭は思い込みが強く、別のことに力と方向を奪われた。だから菱澤はだめだった。死ぬ奴は死ぬ。根拠律から解き放たれなければ、人間は、自由にはなれない。》
《アーツリンと菱澤龍圭。菱澤はアーツリンのごく一部分の部分集合。しかし菱澤は、病気ゆえにアーツリンの本質的姿を捉えた。その点だけは菱澤の功績だろう。菱澤の生きざまは、一編の悲劇であった。一編の詩であった。》
《ならばアーツリン・ランピリス・ノクティルカが、どうして観劇しないだろう。》
《アーツリンは、酒を飲んで認識のレベルを落とし、いつも酔っている菱澤と一緒に酔い、同調した。そうすることであの男の悲劇を特等席で観たのだ。》
《「自分がこの男でなくて良かった」。「この男が自分の地位であったら良かったのに」――。そういうことは思わない。アーツリンは思ったことがない。》
《悲劇は、ただ浸る。あの男の絶望、落胆、悲憤、それを取り出して、目の前に浮かんだ一個の博物のごとく観るのだ。絶望も、落胆も、悲憤も、鑑賞されれば味わいを観せるもの。それらにまみれ、襲われているのは、一人、当人だけだ。》
《悲劇という博物には、独特の美しさがある。それに人々が気付いていなければ、そもそも「悲劇」という言葉はなく、伝えられても来なかったろう。》
《悲劇は鑑賞する者を厳粛にさせる。世界の事実への、深い共感を呼び起こす。それは、世界は悲劇的であるという、厳粛な事実に他ならない。ゆえにアーツリン・ランピリス・ノクティルカは、悲劇を鑑賞して美しさを感じずにはいないのだ。事実を知らされる学びほど美しいものは滅多に無い。そして、美しいものは、喜びも落胆も欲望も与えない。それはただ人に聖性を与えるのだ。永遠なるものへの接触を与えるのである。それゆえ悲劇は、欲動にまみれるどの人間の顔とも違うただ一つの表情をわれわれに与える。人間の姿は初めてありのままにさらされ、聖なる目によって観られることになる……。》
また、夢を観た。前に山の火口で観たときより、もっと濃密な夢だった。声でもないが言葉でもない凝縮された何か、あたかも世界を構成する[スクリプト]の一部が、流れ込んで来たのだ。
いわばそれは、一瞬で経験される物語……《ひとつの光景》だった。
その《光景》には、知らない情報が、いくつも含まれていた。たとえば爛花と[悲劇]との謎めいた関係など――。
だが同時、自分はそれらの情報を、知っていると感じた。いや、観じたと言うべきか。つまり、その場面に自分が居合わせて見たわけではないけれど、あたかもその場の空気や地面として、ひょっとしたら爛花の衣服や何かとして、自分の心身を越えた形で観ていた感覚があった。だから自分の心身では知らないが、自分は紛れもなく知っていた……。不思議な心地良い位相を漂ううちに、自分の意識は凶悪な鉤爪のような目覚めに引き込まれた。
「……あ」
脳が世界観を組み立てるのに、一瞬、時間がかかった。眠ってしまっていたのだ。
ここは、ほとんど無人の電車の中。赤いシートと白い壁。しらじらとした明かりに寒い色の広告が照らされている。
向かい側のロングシートには、魔王が座っている。思索にでも耽っているのか、腿の上で手を合わせ、目を閉じている。
魔王と一緒だと、茴香宿の駅には呆気なく辿り着けた。自分はアマミキョーの言葉を思い出していた。あなたひとりじゃ、絶対に辿り着けない……。それは、魔王と一緒なら大丈夫という事だったのか。それなら、この先には……。自分は魔王の指示に従い、郊外への電車に乗った。
魔王が、ふと目を開けた。
「今、貴様の『闇呪の法衣』を解除した。貴様は闇の迷宮からは抜け出た。もっとも、トーキョーに生きるかぎり、いつでも闇呪に掛かる可能性があるがな」
「……解除なんて、できるの?」
「我の魔眼は、魔を正確に見通す。すなわち、正体を観抜くことで闇を払う力を持つ。魔眼による破邪の発動の要件は、瞑想だ」
だから魔王は電車に乗ってから目を瞑っていたのか。
「……闇呪を解いて、大丈夫なの?」
魔王は自分に憑いた闇を根源へと辿って行くと言っていた。闇呪を解除したら、辿れなくなるのではないか?
「心配は無い。もう辿り終えた。我は全てを観た。もっとも、時空を越える千里眼の能力は、魔眼の更に深い力。今の器で発動するには、瞑想のみでは足らず、こいつを必要としたがな……」
魔王は傍に置かれたコーヒーの空き缶を示した。そういえば、最初に一気飲みしていた。
「寝ていた貴様の認識には、我が観た心像の一部が流入したやもしれぬ。意識がシャットダウンされていると、心像の共有が容易なのだ。何らか夢でも観たか?」
「……観た」
「そうか」
それだけ、魔王は言った。同じ心像を観ているのなら、訊く必要はない。
だが自分が観たのは、魔王が観た《光景》の一部。詳しいことは、なお分からない。アマミキョーが言った通りなのだろう。自分一人では発想できない行き方や場所。おそらく、闇になじんだ魔王の発想が、必要なのだろう。
「おそらく、貴様に纏わせたのと同じ闇を持つ者がおる。脳が共振しておるな。めずらしい現象だ。肉体的でも精神的でもよいが、ある者と深い接触を持たなかったか? 貴様は闇を知ることができない。勇者は光だからな……。『遷異乖廊』の先に何があるか、想像だにするまいよ。行くぞ」
電車が停まった。魔王は立ち上がった。
フシミガミ駅の裏口から出て、しばらく歩き、自分達は辿り着いた。
立入禁止の柵で囲われ、内側に資材が積まれた、そこは……トンネル工事の現場だった。奥には丘陵があり、黒い穴が口を開けていた。
*
私は菱澤のケガレを受けて人知れず憂悶に捕らわれた。これは、よくあることだ。私においては本当によくある。現在はどういう時にそれが起きるのか、闇や抑欝といったものがどのように私を捕らえにかかるのか、昔とは比較にならずよく知っている。欝の偉大なる世界と前の私がどう戦い、苦闘をし、今のように欝世界の地図を一通り描き上げるに至ったかは、世界でも最もつまらない話だろう。言える事の一つは、欝世界の光景には一貫性がなく、まったく混濁しているから、面白さのために必要とされるものが全く抜け落ちている。だから生涯お蔵入りとしておく話であるしかない。
欝世界の感知、これはこの器――紫羅爛花の、個性的な性能だった。だが、それだけが特性ならば、この世で意識が目覚めてすぐに私の心身は崩落していただろう。感知だけではない特性が、この器にはあった。それは、感知した欝世界から脱出できる特性だった。つまり私は、自分に絡んで来る欝世界を怪物的に冷静に引き剥がしてゆき、自分から剥がし切ったそれを、目の前で眺めることができたのだ。眺められた物の名前を、「悲劇」と言う。「悲劇」は、美しかった。
この特性のおかげで、今の私は欝世界の大気の残り香さえ自分の奥底に封じ込めて、欝世界から最も遠い悦ばしい者として振舞うことすらできる。そんな私でも、たまにへまを犯すことがあって、感知される欝世界を絶えず「悲劇化」する行程が中断し、以前のように欝に捕らえられる事がある。そうなった時の対処法は充分に心得ているが、こうなったら発作のようなものなので、基本的には過ぎ去るまで待機している他ない。
過ぎ去るまでの、経験・体験・気分は言いたくない。この気分の最悪さこそが欝世界の特徴であって――いわば「醍醐味」でもあるからだ。私は美食家だが、それ以上に貪食家で悪食なのだ。私と同じ世界に来ない者には欝世界の芯髄を、「暗黒なる黄金」のその一滴すら、分けてやりはしない。
だが、さすがの私も、今回のようにどっぷり捕らわれたのは非常に久し振りだ。
菱澤の死の効力はやはり大きい。こうなることは分かり切っていた。菱澤が崩落することも、菱澤の崩落に出会えば自分も欝世界に引き込まれる事も。私は予定通りに甘受した。この世界は何より昏く、何より甘い。空気は自分の体を閉塞した壁であり、時間は自分の体を削って行く鑢だった。人の死は最も明白なケガレ。ケガレは欝世界を運んで来る。だがそれも幾許かの縁を共有した菱澤への礼儀だろう。菱澤の部屋は私の隠れ家だった。菱澤の部屋に立ち寄り、徹底的にだらりとする時、私は一時的に放棄できた。私の肉肌と世界とが、百億本の糸で結ばれ合っているような、緊密な世界とのあの関係を。
私は菱澤に感謝している。この気持ちには偽りは無い。もちろん私は生活において終始だらけることを推奨するわけではない。私達にとって世界よりも真剣に向き合うべきものが一つとしてあろうか。世界を感知してしまうのなら、最高の厳格さをもって、真剣に向き合うべきだ。ただし真剣さばかりでは菱澤のようにすぐ死んでしまう。休息や弛緩を絶妙に取り入れ、真剣さは蓄積して愉しまなければならない。
これから欝世界が私をどう踏み歩くかは知っている。何千度繰り返したと思っている? 対処法は私自身の探求によって出尽くしているし、その時に身を置くとよい場所も心得ている。すでに私はその場所に居る。私の気持ちのように、周りも昏い。欝世界に来ると、景色も普段とは違って見えるものだ。このトンネルが永遠に完成しないようにも思えてくる。
この場所は気に入っている。捕らわれた時、私は、ここで暮らす。欝世界に浸されると、自然と自分の由来に思いを馳せるものだ。欝世界は「なぜこのような世界を味わわせるのか」と艱難させずにおかないからだ。
私は、自分が一種のヒロインである事を自覚している。ヒロイックな生き方をして来た。ヒロインとは何か。命をささげて生き様を世の中に描く事、それがヒロイックな生き方であり、男ならヒーロー、女ならヒロイン。「紫羅爛花」という「ヒロイン」が目指しているのは、命をレイズして今生のあらゆるギャンブルに勝利し続けること。ヒロインに課せられた、それは使命だ。命は金貨のようには増えない。ギャンブルを続けることができるだけだ。
人間世界では、命を懸ける以上に懸命なことは無い。学生、事業、作家業、アイドル業。それらの基底にある、「自分を演ずること」。いずれも命を懸けている、懸命にやっている。だが辛さを感じたことはない。苦しいと思ったこともない。物心ついた時、それは私がレコニングマンとして東京に現れた時でもあったが、その頃から私は同じ生き方をして来た。当時の私は、地位も金も名声も何も持っていなかった。命を懸けて生活していただけで、今のようになった。それだけの事だ。謙遜も誇張も無い。
私は昔から「物語」が好きだった。この世界に現れた時から、そうだった。「物語好き」とは、私というレコニングマンの特性なのだろう。私は当然、考えた。好きなもの、物語を、自分でも作るには、どうすればいいだろう――。もちろん小説を書くことも間接的な方法ではあったけれど、直接的な物語であるこの私の人生、それをどう演出したら、最も物語らしくなるかという大問題があった。そのことを考えた結果、出た答えは単純だが、命を懸けることであったのだ。――人生の舞台に絶えず命をレイズし続ける。そうする事で世界が彩りを増すことを、私は体感した。命を懸ける事。これだけの事によって、一曲の大曲をプレイしている最中のバンドメンバーのように絶頂的な熱中を、生きているあいだじゅう保持できる。
彩りの絶えた世界には耐えられない。
物語とは世界の彩りの鮮やかさに他ならない。
だから私は「ヒロイン」をやめる理由は無い。ヒロインは、物語の中央で世界の鮮やかさを浴びる玉座。人々を惹き付けずには居られない。もちろん、ヒロインは常に自分に極度の緊張を強いる。身体と精神は無限の膨大な緊張と戦う。しばしば休息を余儀なくされ、ときどき破滅する。けれどもヒロインなんてものは立派な奴ではない。命を懸けるのは楽だ。少なくとも、それ以外の作法なんて知らない私には、最高に楽な作法だ。ヒロインには、特徴がある。常に「死と隣り合わせ」に居ることだ。背中に憑いた死に追い立てられて、ヒロインの特権の一つ、「物語」を自分の周囲に編み出せる。
ヒロインの衣服を剥ぎ取った私は、誰よりも死を恐れる脆弱で平板な人間だ。裸の私を見せることはできない。それは美学のようなものだった。言葉を使う動物という、妖怪みたいな奇妙な姿態をして、世間に這い出るわけにはいかない。
朝、起きたばかりの私を見たら誰でも、紫羅爛花だと認識することはできないだろう。
だから、泊まった朝には私を一人で数時間放っておくように、菱澤には言い置いていたわけだ。自分が起動する儀式的な過程が必要だ。それなりに重厚で緻密で奥深いものであるヒロインという衣装を着るには、毎日、時間がかかるのだ。これに比べれば、アイドルの仕事のときの化粧などは一呼吸の気楽さだ。
私は、極限的に矛盾している。死は、ヒロインを衝き動かしてくれる。しかし、私の背中にある死は、私から四万キロ離れている。私は死を何よりも忌避している。実際の死は悲劇とは全く違うことを、私は知っている。実際には、死は、私の想像もつかないほど怖ろしいものだろう。なぜならそれは「物語」とは全く対照的なもので、醜く、鈍重で、無意味なものだろうから。……もちろんこれは、裸の私が思うことだ。いつもの私はヒロインの上気と侵攻心と信仰心によって心地良く麻痺しているから、死は私をいちばん綺麗に飾り立てるドレスだと、これまた本心から言う。
ヒロインの人生には、もう一つ、特権がある。それが、現在の私――つまり「悲劇」を味わい続けられることだ。
「物語」の喝采と騒擾と溢れる光の幕あい、舞台袖に引き上げて休息を取っている時、私は「悲劇」を鑑賞している。舞台で繰り広げられる物語の熱狂を、物語内の誰よりも圧倒的に醒めた眼で観るのだ。すると自分は「物語」の中心から、「悲劇」の演者へと替わる。私を追い立て、「物語」を終焉に追いやるあの「死」すらも、美しい物として観るのだ。
「悲劇」の中で観られた物は、枯れゆく花のように「はかないもの」として、時間の流れから切り取られ、目の前に幽霊のように浮かぶ。「はかないもの」は美しい。夕焼けや、消えゆく熾火や、融けゆく銀嶺が美しいように。身近なものだってそう。伏見神駅の周辺の人の流れも、あと二十分もすれば途絶え、別の場所のように静かになる。「きょうの最終電車」は、きょうの一本を最後に、二度と走らない。大学にしてもそうだ。同じ場所に見えても、学生は卒業し、出て行く。
世界中がそうなのだ……。
物音が聴こえた。入り口の方からした。二人の人物の足音らしい。ふむ、どういうわけだろうか。私の見通しによれば、菱澤は居ないのだから一人のはずだったが。警邏の警察官か、工事関係者でも来たか。
「……アーツリン」
有希・ハイデルベルクが来た。外の銀色の明かりに輪郭が照らされていた。顎から首にかけての肌が死者のように艶かしい。
有希の隣には、知らない美男子が居る。この男子は、観たところ、レコニングマンのようだ。有希の知り合いか。有希が自ら接触を図ったのか。成長したものだな。私はコンクリートの地面にだらりと寝ていて、トンネルの内壁に頭だけ預け、観ている。私の場所から五メートルも進むと、沈黙した掘削機械が視界を塞いでいる。そこでトンネルは行き止まりである。予算の関係や、地元の反対運動で、どのくらい工事が中断しているのかも知らない。工事が再開したら困るだろうか。全くそんな事はない。闇に覆われている場所は何処にだってある。
「ああ、そうよ、ヴィヴィアン。あなたと言葉を交わすこともそう。とてもはかないわ。なぜなら明日は、あなたとは今日のように言葉を交わすことは二度とないのだもの。――全ては、はかない。世界ははかなさの極致のものでできていて、そうでないものはない。悲劇的だわ。とても美しい」
「……アーツリン」
有希は、抑揚のない呟きで私を呼んだ。
およそ東京の人間とは思えない白い髪。髪束ごとの曲線もまとまりも素晴らしい。小ぶりでやや華奢な均整のとれた肢体。物憂げで理知的な瞳。同じ地面に居るのに、一人だけ雪を戴いた山頂から観下ろすように孤高な佇まいをしている。
しかし私は彼女が知られぬ労を払っているのを知っている。私と同じような者に眼を観合った瞬間に気付かないとすれば、それは菱澤と呼ぶしかない。私の悲劇の気分が、人には易々とは理解されないように、有希が味わっている対人拒否の恐怖や、内心で言葉を積んでいる苦労も、なかなか知られない。だから私は初回にアパートで聴き取りをして、有希の内面を確信した時に言ったのだ。
「あなたとは仲良くできそうかな」って。
有希には同族の祝を憶える。共感されない苦労を内側に持たない奴など、人間だろうがレコニングマンだろうが魅力的じゃない。とはいえ、私と有希では根本のものが違う。有希の本体は、光。勇者を出自とする彼女は、屈折しない、後退しない、闇に染め抜かれない、魂の芯から恐怖することもない。それは有希の性質が勇者だからだ。勇者はどんな世界でも、どんなに闇へと振れても、必ず光に復帰する。
ただし、この東京は有希の前世と比べて、おそらく闇が濃密。だから有希といえども一時的に闇に囚われる事がある。私は恐れた。勇者が徒に闇と戯れて、人生の大半を闇の中で過ごしたり、ひいては自分の本質が闇であるという勘違いをしてしまわないかと。その進み方は、勇者には明らかに誤り。人生の時間の無駄だ。やはり自分は勇者だったのに! と死ぬ寸前で気付くような不幸だけは、避けてもらわないと困る。
最大の危機は、菱澤の死のときだった。この世界初心者の有希には、いきなり人の死に見舞われると、限度を越えて闇に包まれてしまい、勇者にもかかわらず自分が闇の属性であると勘違いしてしまう恐れがあった。ゆえに、私は「デウス・エクス・マキナ」のように、少しだけ手助けをした。私は闇を浴びることには慣れている。なぜなら私にとっての闇は、有希にとっての光と同じような物なのだから。つまり、私は菱澤の死のケガレを、有希の分も自分の身に浴びることで、有希が闇に一滴でも汚されるのを回避した。それで有希は無駄な回り道をせず、この世界での人生を、快適にプレイできる。
とはいえ、私も二倍近い闇を浴びたので、今回は多少重い。ましてや親しい人間の死で、闇の純度もなかなか濃い。デーツやチョコレートを適量喰えば旨いけれども、倍量喰ったらもたれてしまう。今回の闇は、解消するまでに時間を喰う見通しだった。闇の大半が引き、表面にたなびいているくらいになってから、有希が来るものと見込んでいたが、もう到着してしまった。
有希とは少し接触を濃密に持ちすぎたかもしれない。《創舎》にまで連れて行ってしまったしな。知らず知らず、私が引き連れていた闇が、有希の表面に伝播していた可能性はある。その翳りは、勇者の性質に影響するものではない。むしろ互いの個性として、互いを際立たせてくれる衣装のようなものだ。まあ、今来られても問題ない……。菱澤のケガレは、既に私が呑み尽くした後だ。有希には伝染しない。
しかし今の局面が、闇がそこそこ濃厚に残っている事で、有希には私の別の面を観せることになるだろう。つまり私の属性を。悲劇に親しんでいる私を観て、有希は私のことを自分と反対の属性だと思うかもしれない。闇の属性だと。
「そうね、ヴィヴィアン。私は今、闇が極まっているの。だから、こういう局面だから伝えられる事を言っておきたい。それは普段は表立っては言わない、とても昏い事実」
まったく、冗談ではない。闇の属性などと、そんなつまらないものに、私が止まっていられるものか。光の人々と同じかそれ以上に大量に群れ集う闇の者になど。
私の真の属性は――。
「この世界では、全てのものははかないわ……。あらゆるものごとが、悲劇の素材になる。悲劇を私に観せてくれる。本当に、はかない。でも、だからこそ、私の『物語』には何の意味があるのでしょうね。同じ筋書きを生きるのは私でなくても構わない。そもそもこの筋書きである必要さえも無い。驚くべき事ではないかしら? どんなにいかれた人間であっても、私の容貌や小説や事業について、地球の公転や、以前オリオン座にあったベテルギウスと同じくらいの事実の重みをもっては、感じはしないでしょう。ところで地球も、宇宙でさえも、意味があるものと本当に言う事ができるのかしらね? 地球なんて、ただの青いボールのような星が宇宙に浮いているだけよ。それにどんな重大な意味があって? もちろん地球に住んでいる私達には、地球はそれなりに重大だとしてもね。そういうわけで、ヴィヴィアン、何かを遂げたからといって、命を懸けたからといって、私の一生には何の意味も無い。これまでも、これ以後も、無い。その事実は、ねえ、私を心の髄から震え上がらせるわ、ヴィヴィアン。私は物語以上の宝物を持っていない。けれどその物語は、怖ろしい虚無と空疎に囲まれている……。私の全宇宙が、私の物語が、無意味な灰色の空間の中に浮かんでいる……! 私は戦慄し、慄然とする。その事実が、私をますます物語に駆り立てる。私は物語しか、知らないのだから。宇宙や地球と同じく私も、空疎な空間の中に浮かんだ無意味な一個の物体。無意味であっても、物体からは逃げられないのよ」
そう……。安定も、普遍性も、永遠性もいっさい無い。世界にはそれでなければいけない必然性が、一切無い。なにしろ地球がポッカンと爆発しただけで、この地面のいっときの安定性さえ、消え去ってしまうのだ。驚異的な事ではなかろうか。もちろん圧倒的にだんとつに価値があると私が認める「物語」にしてさえ、徹底的に空虚な意味しか無いのだ。それどころか「私」にだって当然、意味はない。《徹底的な無意味》……! 無意味なグロイ物事が溢れ、ひしめいているだけなのだ。この、物理的世界は。
こうして、私は有希に一つの景観を伝えた。
それは「物語」や「悲劇」が度を越すと、私をたびたび襲うもの。濃密になりすぎて、もはや「物語」でもないもの。「悲劇」でもないもの。無の観念に覆われた世界であった。物語慣れしている私にとっても、最近の活動はひそかに濃密であったのだ。同じレコニングマンである有希との顛末は濃密な物語であったし、菱澤が居なくなった顛末は濃密な悲劇であった。それゆえ突き抜けて、《無》が現れた……。
「……自分は、言っていることが、よく、わからない」
有希はおずおずと、隣の男子と手をつないだ。だが自分には分かる。これは有希の意志による動作だ。この世のものははかない。すぐに移ろってしまうな。
「……それが、申し訳ないと思う。自分がまだまだだと……。自分に対して、とても悔しい。アーツリンとは、魂で通じ合ってると、思っている。でもやはり、自分は、普段からアーツリンと同じ気持ちを経験していない。特別な時しかわからない。もっとわかったら、今も、アーツリンの力になってあげられるのに」
自分は驚きで目が離せなかった。訥々とだが、ひとつづきの内容を、有希が喋っている。それは有希の内面を推測すれば物凄い労力だ。今の有希は、とても美しい。自分に内容を伝えようという意志が、なにより美しい。
「……意味ということが何なのか、自分は解らない。アーツリンは意味の意味を解っているのに、『意味が無い』と言ってそう。だから、とても、始末が悪い気がする……。でも、魅力的。あなたが纏っている、陰翳の濃密さ。初めて会った時から、印象的。魔王の闇とも、ちがう。それは自分には無いものだから。けれど自分は、『あなたに意味を教えたい』。今の自分は、解ってないけれど、きっと教えられると判ってきたから……。あなたや魔王と、接しているうちに、判ってきたから。『次は行動で示せ』と、あなたは教えてくれた。緊急避難の時……。自分も、そう思う。勇者の時から、自分は、行動で示す。だから、こうする」
有希は男子から手を解き、胸の前でギュッと手を握る。赤面と逡巡。瞳がまん丸に見えるまで目を開け、至極レアな表情。一言でいって、愛くるしい。
有希は、口づけを、して来た。
光が私に流れ込んで来る。圧倒的な光。そう言い表すだけで充分だろう。照らしたものを光にするからだ。空気の形をした、私にのしかかる憂鬱は、パッと消えていき、あたたかい光になった。速やかに闇に幕が引かれたのだ。もう少しかかる予定だったが……身体に力が戻って来る。
「……一緒に、居るから」
有希は私に体を預けて来た。私も有希を抱きしめてあげた。
「ありがとう。わかった」
そう答えた。闇から掬える仕組みは簡単だ。それは同情……。一点のムギ球のような光で充分なのだ。勇者が最も得意とする能力は、天性の共感なのだ。いや、正直なところ、勇者とはいえここまでの光の強さを持っているとは、予想以上だった。極上の優れた素質だ。菱澤の闇を躱してやった甲斐もあった。私は判断を誤らない冷醒さを自負しているが、私ほどには闇への解剖を積んでいない多くの人々は、闇に落ち込んだ隙に邪悪に付け込まれる。詐欺師や強盗が繰り出す贋物の同情に縋ってしまうことがある。溺れる人間は藁を掴む。ムギ球を装着した殺人マシーンにだって飛び付きかねない。
「あなたはこれからも、人々を掬うのよ。ヴィヴィアン」
「……わからないけど、わかった」
有希は私の胸に縋って、くぐもった声で言った。どういう顔をしているのだろう。観てみたいが……またの機会にしようか。物語には先がある。
「早とちりさんね、あなたは……。私はまだ、喋り終えてなかった。そう、《無》に襲われた私は、絶句して、震え上がる……。震え上がるほどに感動してしまうのよ。私と何の関係もない無意味な景色が私の前に広がっている鎮けさにね。その景色は何という醒めた美しさなのでしょう。それは、時には悲劇を、時には物語を、煮詰めて蒸留した一滴。どこまでも鎮まり返っているデッサン。私は世界の化石を観る。無意味な重力からも物体からも色彩からも解き放たれた、鎮かなデッサンを。それはいつでも美しい……。美しさだけは私のものなのだから」
私は淡々と言って、立ち上がった。明るかろうが、激しかろうが、きょうのように暗かろうが、世界は世界だ。いつもと何も変わらない。恒に同じ姿で在る。それだけのことだ。
私は有希の手を軽く握った。有希は微笑した。有希にしては最大級の表現じゃあないか。
「そうね……この世界の繰り事だとわかっていても、私を支援してくれている人々、共同体、世界には、恩返しをしたいと素直に思うわ。なぜなら私もあなた達も同じもの。あの忌まわしい繰り事によって操られているに過ぎないのだもの。無意味な繰り事の中で、踊り、あがき、死んでいく。あの最も美しい悲劇が、私たちの数だけ、ちりばめられている。この繰り事の舞台の内側でね。この世界で一緒に生きましょう。死んでゆくまで! 今夜はお酒を振舞うわ。せっかく迎えに来てくれたのだからね。ただのお酒じゃないわよ。先日の果実から造った酒が完成したの。奥行きがあり繊細で静謐な酔いを提供するわ。ヴィヴィアン、あなたには、果実をジュースにした物をね」
私は素直でないセリフを吐いた。有希によれば私は「陰翳」ある者なのだから、期待通りに演舞するとしましょうか。我ながら、まっすぐ過ぎて反吐が出るものね……。
「しかり、無などは理性の誤謬から生じる迷妄だ。無などは無い」
その時、今まで黙っていた男子が口を開いた。私達に喋らせておけば早く場面が終わるだろうと見込んで黙っていたとすれば、理知的な男かもしれない。口調を除けばだが。
「ところで、その方、かなりの記憶を喪失したと見える。その方が冥府にて毎日のように生成していた無は、こちらの世界には持ち込めぬ事になっておる。……その方、アルラウネの族長にして冥界の女王、ペルセポネではないか?」
男はメガネを外してみせ、力強くも繊細な美しい顔を披露した。
「想い出したか? 我だ、顕界の魔王ニクラウスぞ。斯様な所で旧知のそなたに会おうとはな! これも奇縁よの……。我らも旧交を温めようではないか」
と言って手を差し出した男は、ばつの悪い顔で二人の女子を見回す。
「ああ、ペルセポネ、あれはだな……。勘違いするな。我も勇者などとは手を繋ぎたくはないのだが、我と因業な縁で結ばれているゆえに、こやつは我と接触せねば本来の明晰さを取り戻せないようなのだ。その方と万全の状態で喋りたいと、電車を降りた後で言われてな……。魔王への勇者のたっての頼みとなれば、貸しを作らぬわけにはいくまい?」
「……殖悪アントン。ペルセポネって、誰?」
「我のみを追い求めていた貴様は分かるまい。このほう、ペルセポネは、我と並び立つ偉大な魔王の一人。トーキョーヘイムの世界には、三つの階層がある。我が支配していたのは地上を含む一階層に過ぎん。彼女は下層なる冥界を支配する女王にして、植物界を束ねるアルラウネ種族の女王も兼ねる類稀なる才知の持ち主。我は冥界とは和議を結んでおり、友好関係にあった。[ゲーム]で言うなら[隠しボス]や[エクストラ・ステージ]だな。ところで、その名はやめてもらおうか」
「……魔王に会った時の感じは、アーツリンには無い」
「貴様は知らない魔王がペルセポネなのだ。当然であろう」
青年はメガネを装着。自信満々にこちらを見る。
有希も私を見ている。
さて、どういう反応を返すか、私は瞬時に考える。……ふむ。
「《あの頃》の記憶は、生憎と喪失していてね。向こうでの私は、なかなかの切れ者だったようね。思い出せないけれど気に入ったわ。君の記憶はこれからの私の手掛かりになるかもしれない。よろしくお願いするわ。私の旧い盟友で同輩の魔王殿」
私が答えると青年はノリノリで握手してきた。
「……えぇと……。トーキョーヘイム出身……。三人?」
「ヴィヴィアン、気にしないでいいのよ。私達の事は、知る時が来たら知るのだから」
私は出自を曖昧にした。そのほうが、いいだろう。私も二人と同じように、東京での事実などは重視しない。私にとってよい物語になるか。指針はそれだけだ。青年は確かにレコニングマンであり、私達が関わり合うのは悪い事ではない。その事は今言ってもよい。
私はトンネルの床に置かれている、持ち手付きの真鍮の水筒を手に持った。少し前に有希に与えた物だ。今は特製のフルーツジュースが入っている。この飲み物は良い場所や良いひとびとと飲むほどに良い酔いを堪能させる。率直に言えば人間社会に流通するいかなる飲み物とも違う。いわば、レコニングマン向きの製法と原料で作ってある。私を含めて製法を知る者は多い。有希もそのうち自然と知るだろう。
私達は菱澤のアパートには向かわず、伏見神駅から数百メートル離れた所にある、もう一つの伏見神駅に向かった。
こちらの駅を通っている古い鉄道に乗ると、ある特徴的な街に行けるのだ。茴香宿よりも大きい街だが、宿袋に比べて廃墟のように古い街。伽藍堂大学に通う生活をしていれば、こちらの伏見神駅も鉄道も、まず使いはしない。宴となれば学校周辺でやるのは定番だが、しかし私の考えでは、今日は定番の流れではないから場所をずらすべきだった。
昔の貨物線を転用した、大きな箱のような鉄道にしこたま揺られていると、目的の駅に着く。この駅は繁華街の中心にあり、電車を降りて出たデッキからすかさず繁華街が始まる。駅を出るともう明るい。街の明かりの全てが文明の明かりだ。明るい看板、明るい文字、明るい壁面、明るい建物。
明るい居酒屋のナナメ上には明るいタイ料理店。横には中国料理。下にはコーヒーショップや、カレーショップ。一つの建物が明かりと店で溢れ出しそうになっている。
太い街路樹の影は黒い鼓動を通して活動力を街に送る血管のようである。
スクランブル交差点。人間の往復は引きも切らない。文明が吐瀉した明かりが一層凝縮され、ちりばめられている。
一艘の舟で水路を漕ぐように、私達は進む。夢のように幻影的でありながら、ライトで照らされた臓腑のように、どぎつい。
「美しいわね……。私は美しいものに目がない。いったい美しいものを観る以外に眼球が必要かしらね」
どこまでも鎮かな私の心の鏡面に、世界という模様が映っている。
今のような局面は、私にもともと備わった異能を使うに相応しいだろう。その異能を使い、以前に有希を《創舎》に連れて行ったことがある。
「……あ……」
有希は街に戸惑いながらも、気遣わしげな目を、私に向けて来た。――これはどうやら、気付かれたようだな。
有希や青年が居ることだし、また、案内してやるか。
この後、《創舎》にて、宴を催した。
有希はサークルに入ることになり、新しい仲間達と打ち解け合っていった。それは有希が無表情ながらも同じテーブルを囲み続けた事から解った。今夜は有希の新しい門出となるだろう。