魔王降誕
見知らぬ部屋で目覚めた。
体を起こし、下を見渡すと、菱澤の部屋だった。自分は、ロフトで寝ていた。
だが、何だ、この違和感は……。すぐに気付いた。ロフトの天窓や部屋の窓から、外の光が入っていた。一日じゅう真夜中の暗さだった部屋ではない。遮光する仕掛けが取り外されていた。
見違えたのは、部屋の内装。本棚はそのままだが、本は一冊も無かった。座卓も、テレビも、ゲーム機も無かった。部屋が異様に綺麗になっているじゃないか。
自分はどうして寝ていたのだったか……。確か、菱澤が体調不良になり、少女の心身が耐えられなくなったので、マスケと爛花が「緊急避難」とかいう措置を行ったのだ。
「寝坊か鋼鉄? 早く出ないと二限めに遅れるぞ鋼鉄」
マスケが頭上にふわふわ浮いている。
そう言われても情報を整理しないと話にならない。また身辺が飛んでいる気がする。爛花も居ない……。これが「緊急避難」の効果か?
「……あなたは『緊急避難』で、自分に何をしたの?」
「妙な夢でも見たのか鋼鉄? それとも君は『緊急避難』を知ってるのか鋼鉄?」
マスケは訊いて来る。するとマスケは知らないのか。どういうことなのだ?
「わたしは『指南』で君に要請されれば、『緊急避難』という札を切ることが、確かにある鋼鉄よ。しかしこの札はできれば切りたくないものなんだ鋼鉄」
「……なぜ?」
「切ったかどうか分からなくなる札だから鋼鉄。緊急避難をとることによって、さまざまな現象にひずみが生じる鋼鉄。ある場面を無理矢理脱出する措置だから、その場面の記憶も失う鋼鉄。経験が混乱する鋼鉄」
「……指南は、あと何回残っているの?」
「それはもちろん二回……およ、一回しか無い鋼鉄ねぇ。わたしが間違うはずない鋼鉄……。もしかして君、マスケに緊急避難を切らせたのか鋼鉄ぅぅ!?」
マスケは狼狽している。間違いない。「緊急避難」は切られた。そして自分はそれを意識している……。前にトンネルを潜った時も、似た状態になった。しかし自分は落ち着いていた。勇者は二度も狼狽えない。
自分は、ふらつく頭と体を動かし、ロフトを降りていく。マスケが背中でうるさく言っているが無視だ。このマスコットは何も知っていない。
CDのラックにはメタルCDが大量に残っている。なぜなのか、妙に懐かしい。菱澤のメタルCDコレクションは一通り鑑賞させてもらった。『ПдЯКmooЯ』以外にも自分の存在の根っこを揺さぶられる楽団がたくさんあった。この世界の音楽ではメタルが最も自分の感性にフィットする。
自分の楽器ケースも残っていた。中にはベースが入っていた。
お菓子が常備されていた棚には、爛花用の乾燥デーツがあったが、スナック菓子もカップラーメンも無くなっていた。菱澤の物はほとんど取り払われていた。住んでいた形跡が無くなっている。
座卓が無くなった代わり、質素な机が一つ置かれてあり、そこには[社会学部]で使う書類や教科書類が並べられている。見たところ、これは、自分の物だろうか……。
机の引き出しには一通の茶封筒が入っていた。
封筒を手に取り、中の紙片を抜き出して見た。紙片には古めかしく神秘的な文字が細かに記されていた。誰の筆跡だろうか。その時……後ろからガツンと喰らったように気分が変わった。今ちょうど眠気が覚めたか、この封筒が何かの仕掛けだったのか……。とにかく、寝ていた間の記憶が流砂のように消えて行くのを、[リアルタイム]に感じた。起きた時のことを思い出そうとすると、その記憶がある脳の部分にすっぽりとスポンジが嵌められたかのように、自分から一番縁遠いものに思えた。ふわふわ漂っていた状況が、一瞬で定まった。そうだ、自分は寝呆けていた。身辺が飛んでいるって……? それは気のせいだ。最初から、これだ。この封筒に書いてある通りだ。つまり――。
『今日は四月二十二日。大学では講義も始まって暫く経つ。自分は大学の空気にも慣れてきた。菱澤はしばらく前に死んだ。諸々の事務仕事や、菱澤の遺品の整理を、紫羅爛花が全部やった。菱澤は遺言を残していた。それが自分が手に持っているこの紙片だ。自身の死後、二人を部屋に住まわせて欲しい。紙片にはそう記されていた。自分が大学を卒業するまでの間が、期限とされていた。爛花は菱澤の両親と協議の場を持った。菱澤の生前、両親に爛花の高評は伝えられていた。菱澤が遺言で爛花への助力を願うのは自然であったし、爛花の[社会的地位]も両親に信用されないわけがなかった。むしろ両親は爛花のような有名な人間がここに住む必要はないと言ったほどだったが、爛花は菱澤の遺志を受け入れることにした。それは明らかに、トーキョーの仕組みを理解していない自分の為でもあった。自分はとても助かった。このまま部屋に住み続けられるのは願ってもなかった。爛花は家賃を自身が払うと言ったが、菱澤の両親は出させて欲しいと言って聞かなかった。こうして自分達は、昔の菱澤の部屋に、二人で住んでいる……』
――今が具体的にそうした状況であることを、瞬時に理解した。
自分もマスケのように急激に記憶を失いつつあった。
「緊急避難」の作用は、当事者の記憶にも及ぶのか!
この世界からみれば、自分は完全に夢から覚めた。つまり、次に覚めた時に夢だということにされる、新しい夢に突入したようだ。どうやら世界とはそういう性質であるらしい。つまり、「夢だと言い切れない状態の継続」……。
今回の変化は、トーキョーヘイムからトーキョーに来た時と並んで、劇的に思われた。同じトーキョーの中に居るのに、記憶の一貫性が完全に寸断されてしまった。しかし何かの影響で、寸断された実感がほとんど無かった。ふと何かを表す四文字くらいの言葉を自分が知っている気がしたが、それは完全に気のせいだった……。
しばらく前に桜を観た記憶があった。夜のキャンパスで爛花と観たのだ。春が一年くらい明けていない気がした。長居する陽気のせいで寝呆けたに違いない。自分は初めからこうだった。少し前から爛花との二人暮らしを始めている。問題は何も無い……。
とはいえ妙なのは、菱澤の死の場面はどうしても思い出せなかったし、爛花とこの部屋で生活している実感もまるで無かった。
初めて泊まる[ホテル]の部屋みたいだ……。
*
あのフロアに来ていた。
……またここに、来られたのだな。
地上から見上げると、黒い巨岩の要塞のような建物。その建物の最上階。
ぐるりと囲まれたガラス張りが特徴的なフロアだ。眼下にはトーキョーの遠景が展開している。この景色を入試の日の朝も観た。今日は講義があり、このフロアに居る。景色はあの時より美しく感じる。
[社会学部]では初年度から演習の時間がある。いわゆる[ゼミ]というもので、本格的にゼミに入り研究を始めるのは三年生からになるが、一年生にも二週に一度、演習の教室に行き、聴講する時間があるのだ。社会学では実践的な研究をするために、早いうちから研究の空気に触れておく狙いがあるらしい。いわばサークルの仮入会のようなもので、さまざまな研究室に行き、自身に合った研究室を決めることができる。自分が初回に行くことになったのは、この最上階で行われているゼミだった。内容は知らないが、立地がいい。
景色を観るだけのフロアではない。研究向きの資料が集められた[読書室]があり、ここでゼミが行われている。時間がきて[読書室]に入ると、一目では見渡せないほど広い。清新な建物の空気と古い蔵書の香りが混ざって何とも言えない。ゼミの行われる場所は透明なパーティションで蔵書スペースから仕切られ、一つの部屋になっており、騒音に気が配られている。
部屋には真新しい長テーブルがロの字に並べられ、そこに[教授]から一年生までが入り乱れて座った。既に慣れた様子で会話に興じているのは、三年生以上なのだろう。だが、自分は研究室の紹介や講義の内容も頭に入らず、ある男子学生に釘付けとなってしまった。それは既に研究室に所属している四年生だった。そしてその学生も自分が気付く前からこちらを射竦めるように眺めていたのだ。
黒の革パンツに黒のインナー、黒の革ジャケット、黒のネックレス、黒のスカーフ、黒い瞳に黒い髪、黒の拍車付きブーツ。対照的に、大理石のような白すぎる繊細な肌。その男はどう見ても美形だった。造形や頭身の全てが、怪物じみた美形であって、幾何学世界の造形が命を吹き込まれたかのようだった。自分は、息を呑んだ。男を観て、脳を鋭く刺された感覚を覚えた。だが不快ではなかった。むしろ、落ち着くような……。もちろん初めて見た男だが、どこかで観た感覚に陥ったのだ。
男の両隣は美人な女子学生達がずらりと占めていた。しかも強権的に侍らせているのでもなく、女子達みずから男の近くを争っているのは明白だった。対面に居るその男を、自分が見ているだけで、女子の凶暴な視線が嵐のように叩き付けられる……。自身の自己紹介の番が来て、男は立ち上がり、自分を観て述べた。
「やあ、みんな! 社会学原論研究室へようこそ! 僕は四年の殖悪・〝ニクラウス〟・アントン。中学までインドネシアで学び、高校時代をギリシアで過ごした経歴を持っている。僕は留学生なんだ。よろしくな☆」
さわやかで、普通の挨拶だった。
こいつは、魔王だ。
「アントンくーん、またね~」
「またねー☆」
「また来週ね~!」
「ハイハーイ☆」
[アントン]と名乗った四年の男は、女子たちに丁寧に答えて、見送ってやっている。立ち姿は長身、態度は明るく開放的。どう低く見積もっても[イケメン]と言って間違いない。
騒がしい黄色の声たちを詰め込んだ[エレベーター]が閉まる……。静寂が戻ったのが分かった。
「さて……そこに居るんだろ? ハイデルベルク有希ちゃん、だっけ」
心臓がドキリとするが、さすがだなとも思う。忘れかけていたこの緊張感を想い出させる相手は、一人しか居ない。自分は半階層下の階段の陰から、様子をうかがっていた。こういう場所に隠れるのは勇者の習性のようなものだ。しかし、見付かってしまった以上、出て行くことにした。
細い階段の上には[アントン]が居た。RPGのようなシチュエーションと言える。
「居残っているってことは、君も僕のファンかな?」
[アントン]は人懐こい笑顔で訊く。
「……だとしたら、どう」
「すまないけれど、僕には彼女は居ないんだ。なぜかというと、好きになってくれる全員が、僕の彼女だからね。これは僕には当たり前なんだけど、ニホンでは珍しいらしい。しかし僕はみんなが大切だ。一人なんか選べない。全員を選ぶよ。ハイデルベルクちゃんもなるかい? 僕の彼女に」
話に乗る形で探りを入れたが、尻尾を出す様子はない。だが、誤魔化されない。自分はこの男の正体を知っている。ということは向こうも知っているということだ。何よりこの男は確かに自分を挑発するように名乗ったのだ、〝ニクラウス〟と。こいつとの間には、言葉は要らない。
「……いつまで芝居を続けるの」
「ほう? 我にそれを言うのか? 表情に出さぬばかりか、性別まで偽装して我の前に現れた貴様がな」
[アントン]は調子をがらりと変え、低く艶のある声で言った。やはり本性を出してきた。
「女子の容姿で油断を誘い、我を殺すつもりであったか。残念だが我は外見などに囚われはせぬ。舐められたものだな」
「……それは、心外」
自分の場合、気付いたら少女の心身だったのだ。昔の自分なら既に階段を駆け上り一発かましていても不思議はない。心身か変われば行動のバリエーションも変わるのだ。
「だが、世界をまたいでまで、我のもとに現れようとはな。勇者は余程我に執心とみえる。――ならば来るがいい!」
魔王はエレベーターを呼び、乗り込んだ。
「さあ、どうした勇者よ。我が怖いか?」
「……そんなこと、ない」
自分は躊躇なく乗り込んだ。……つもりだったが、初対面の[イケメン]の情報処理に肉体が戸惑ったか、ドアの下で立ち止まってしまった。ドアが閉まる、魔王が舌打ちをして、自分の腕を引く。間一髪で中に入り、ドアが閉まった。魔王は自分を突き放すようにして、エレベーター内で距離をとる。
「あざとい真似をするな。油断を誘っても無駄だと言ったろう」
「……そういうわけでは……」
自分は魔王に背を向け、エレベーターの壁を向いて立つ。自分の手を見詰めている。今のは……。明らかに世界が変わった。これは……。悪い空気ではない。
初めて[メタル]を聴いた時や、《創舎》に入った時に感じた、あの特有の研ぎ澄まされた感覚。いや、あれ以上だった。自分の潜在力が、かつてなく高まっていた。今の自分は、知覚が研ぎ澄まされ、景色の中のあらゆる物事が、一瞬で手に取るように判った。
注意を向けないでも、背後にある物の色や動きさえ認識できた。角のように無造作にセットされた魔王の髪の具合や、自分への扱いを決めかねて困惑げな半眼で魔王が見ていることまで判った。魔王との接触によって、勇者時代の能力が最高に引き出されていた!
だがこの明瞭な状態は、急にすぼんでいった。たちまち少女の身体感覚しかない、通常状態に戻った。どうやら、魔王に触れられていなければ特別なエネルギーの流入は断たれてしまうらしい……。ある意味、自分と魔王は、トーキョーの中で最も強い絆で結ばれた二人と言える。接触によって特別な効果が現れるのは、理屈には合っている。だが、なんて因業な仕組みになっているのか……。
しかし、初めて魔王と対峙するのが、別世界のエレベーターの中だったとはな。
魔王はエレベーターで一階に降りると、建物の巨大な岩窟を長々と歩かせ、とある[ラウンジ]に自分を連れて来た。この場所は入試の朝に通ったことがある。広いラウンジだが、全体に暗く、電灯もない。やさぐれた学生のグループや、謎めいたサークルの学生たちが、適度に距離をあけて座っている。何だろう、今はこの空間に落ち着きを感じてしまう。ラウンジの隅には「軽食販売所」があった。前はアコーディオンカーテンで閉ざされていた店。きょうは営業している。
「何か喰らうか、勇者よ?」
「……自分はいい」
魔王は棚を物色するが、借りを作るのはもってのほかだ。相手が相手だけに、リラックスして会食ともいかない。
自分達は片隅のテーブルに、面と向かって座った。大きな窓の曇り空がしらじらと、ラウンジの灰色を固定している。
対峙すると解る。間違いない。姿こそ人間化しているが、魔王ニクラウスである。トーキョーヘイムでの宿敵、いや、トーキョーヘイムでの自分の全てだったと言ってもいい。この胸の高鳴りと感慨は、懐かしさだろうか。いや、それだけでは表現できない雰囲気に包まれた。一本の痛覚神経の紐でどこまでも結ばれているような、決して切れない間柄。どちらかを滅ぼさねば切れない宿縁。どこまでも熱く、それでいて冷え切っている空気が、この場には降りて来ていた。
「ふむ、このジャリッとした砂糖とニュルッとした油脂の粗悪な咀嚼感……。トーキョーヘイムの『アフェマラ』を思わせる味だ」
魔王はバター状のペーストが塗りつけられたパンを開封し、かぶりついた。
アフェマラは、魔女が調合する秘薬だ。「慈愛の薬」とも言われ、僅かな上級魔女しか作れないが、落ち着きと勇敢さと幸福を与えてくれる素晴らしい薬だといわれる。
「……人間の薬を嗜むの?」
「愚かな事を。我に薬など全く無用。なぜなら我は、あらゆる薬や術を施した人間どもを軽く凌駕する知恵と力によって、常に充たされている。それが魔王なのだからな。下等動物である人間どもは、盛んに薬を飲んでは我に挑んで来たわ。全て屠ってやったがな! ……だが、ここでは我も『魔王常時結界』を持たぬ」
魔王はモシャリと、パンを食べちぎった。
「……いつから、こっちに居るの?」
「貴様は東京へ来るのが遅いな。遅すぎたわ。いつまで向こうで道草を食んでいたのだ? 我はこちらの時空で一年前には既に目を醒ましておったわ」
自分とは大きなズレがあった。魔王は既にトーキョーで一年も過ごしたのか。爛花も自分より前にトーキョーに来ていたようだ。レコニングマンが目を醒ます時点はランダムなのか。魔王もレコニンングマンなのか?
「貴様も名前を自分で決めたのか?」
「……名前?」
「そうだ。こちらの世界でまずやらされる事は、名前決めであろう。覚えてはおらぬのか?」
名前決め? そんな「イベント」があるのか? 自分の名前は、閃きで決めたものだ。渾名は爛花が付けてくれた。魔王は、違うのか?
「……自分は、知らない」
「とぼけなくともよい。我の名前を憐れんでいるのだろう? 貴様に同情されても気色悪いだけだ……。いや、だが……本当に知らぬのか?」
魔王は何かを勝手に思い込んでいるようだ。
ある出来事について、魔王は語り始めた。
いつも通り魔王城にて、三十日に一度の眠りについた魔王は、いつもの眠りと違う妙な光景に遭遇した。
眠りの中で気付くと、まず[選択場面]があった。そこは一面の暗い世界で、白い文字が浮かんでいる。見たことのない文字であった。どうやら文字を選んで並べねばならないようだと魔王は気付いた。とにかく文字列を決めねば、その場面から脱けられず、先へ進めない状態だった。進めなくてはしょうがない。適当に文字を選んだ。選んだ後で別のに変えたくなった字もあったが、操作法もいまいち分からず、変えられない。まあいいか。どうせ知らない文字だ。意味も分からないのだ。やがて文字列が決まった。
「なにぶん夢心地だったのでな。適当に入力したら訂正できなくなったのだ」
「……それが、『殖悪アントン』という名前だった?」
「……」
魔王は憮然として鼻息を吹き出した。自身の名前とは認めていないのがありありだ。自己紹介で〝ニクラウス〟のミドルネームを挟んだのは、せめてもの抵抗なのだろう。だが気にしすぎじゃないか? 自分だってトーキョーの流儀からして珍しい部類だぞ。
しかし興味深いな。自分の場合、魔王のようなイベントは無かった。このトーキョー世界には、立ち入り方がいろいろあるのだな。
さて魔王は、その時は何を決めていたのかも知らなかったが、文字列が決まった時、それが「名前であること」が判明した。「名前」が決まり、そしてそれが自身であることが判明した。それは妙な感覚だったという。名前をつけた視点と、名前をつけられた側にあった「何物か」が、いわば合体した感覚だった。
合体後、「何物か」が膨大な情報であることが分かってきた。自身の心や肉体……。トーキョーという世界……。
「そして我は目覚めたのだ。我は目を開けた瞬間に絶望したわ。自身の絶望的な状況をあまりに正確に理解したゆえに、涙や感情の乱れすらも無かったほどであったわ。我は、ある町の駅前で起きた……。目覚めた時にはしばし、以前の知力が残っておった。したがって我は、この我ができることを一瞬で全て脳裏に列挙してみた。するとあまりの少なさに絶句するほかなかった。分かるか勇者よ? それは人間が、三十日で交尾し産卵し死亡する虫の行動を見る時の気持ちにも似ていた。――こればかりの動きで、世界に対して何を為せよう? わが好みの世界に完膚なきまでに作り変える事はおろか、手っ取り早く一度征服し尽くす事さえできぬ! だがやがて夢のように、以前の我は嘘で、今の驚くべき愚鈍さが当たり前なのだという妄念に憑かれ始めた……。忌々しいことだ」
魔王はパンの包みをボール状にしてゴミ箱に放り投げ、手製の葉巻らしき物に火をつけて吸った。とても旨そうに深く吐く。本当に旨いのだろう。どことなくいい匂いの煙だ。
魔王は舌打ちし、煙と一緒に言葉をくゆり出す。
「人間の中に封ぜられて目覚めた我は、あまりに多くのものを失ったのだ。全能さ。魔術の力。数千年にも及んでいたはずの寿命。あらゆる物体を破壊し、あらゆる攻撃に破壊されぬ肉体。強大さ。知性。人望と世界掌握能。もっとも片鱗くらいは残っておるようだがな。ゴミを投げればほとんどゴミ箱に入るしな」
「……それ、関係ある?」
「我は多くの物を手に入れた……。かつての我が吹けば折れる肉体。絶えず移ろい、注意を引き付けられ、僅かの刻も静止せぬ薄弱な精神。何より、以前の我から見れば、まるで夢の中の我が観る夢の中の我のごとくにうすぼんやりした貧弱惰弱な知力。以前の我ならば、世界について、あるいは自身や他者について、たちどころに把握し、また配下に教授することができた。だがこの肉体となった我は、著しい認識の制限を掛けられていることは間違いない。更に言えば……」
説明の途中で、小さな蛾が魔王の近くを飛んだ。
「わぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
ふいを襲われた魔王は飛び跳ねた。勢いで後ろにひっくり返った。怪我は無いようだ。
「くそったれ……! こんな……こんな虫ごときに……ッ!!」
魔王は蛾を追い回し、殴ったり踏み付けて殺そうとする。だが本気になるほどに、軽い蛾はふらりふらりとかわし、高くに昇ってしまった。魔王が蛾と本気で格闘する図。ひたすらシュールだ。
「……ハァ」
溜め息が出る。どうも、気が抜けるな。
魔王に虫よばわりされる奴といえば、それなりに名を上げて、魔王のもとに辿り着いた達人であったものだが。
周囲の注目を集める中、魔王は何事もないふりをして座る。
「……この肉体の遺伝子ないし記憶には、虫によって生存の危機に陥った経験があるらしい。虫への反射に脆弱な個体なのだ」
魔王は対虫関係。
自分は対人関係。
どっちもどっちだな。
「……あなたも、気付いたら、その体に?」
「然りよ。外見的特徴は、人間にしてはまあ魔王に相応しいな。虫に弱いのは困るが、女になってしまった貴様を見たら、溜飲も下がったわ。ハハハ」
魔王は笑った。こいつ、カラカラと……。笑顔にも[イケメン]の補正が掛かるので、この男の仕草には女子がクラリと来るのだろう。もっとも、『魔王常時結界』の[チート]ぶりに比べれば、それこそ虫のようにかわいい補正と言えたが。
「だが、我は一つの力を手に入れた……。貴様にそれを観せてやろう」
「まあ、その前にしばし待て。どうやら時間が来た。我はバイトせねばならぬ。わが城を巡る覚悟があるなら、ついて来るがいい」
と言って魔王は構内を出た。自分はついて行った。
魔王と馴れ合う気持ちは全く無い。しかし奇妙なことだが、何も知らないこのトーキョーでは、魔王と行動していると一種の安定感がある。トーキョーではどの道を歩けばいいかは知らないが、魔王と居る間は正しい方角が保証される感覚があった。
「……バイトを、しているの?」
「向こうでの我のように、人間の憎しみと絶望をすすり、生きて来たとでも思うたか?」
だがおそらく自分の安堵感は一種の錯覚だろう。つまり、このトーキョーでも敵対一色で魔王と関わることは、正しい方角ではないのだろう。それは魔王の変貌ぶりからも明らかだ。
トーキョーヘイムで、自分は魔王と出会うことはなかった。討伐に出発してもいなかったし、魔王は世界の最奥で待ち受ける。とはいえトーキョーヘイムでの魔王は今よりも峻烈なキャラクターであったことは間違いない。……もっともそれは魔王も自分に対して感じているかもしれない。
道すがら、自分達は身の上を語り合った。今度は自分の変化を打ち明けた。さっき魔王の話を聞いたから、こちらも言わなくては対等ではない。
「成程。つまらぬな」
「……つまらない?」
「貴様が、ではない。この世界がだ。体力の惰弱な少女の器に貴様を移すくらいのこと、この世界ならば造作もない。予測の範囲を出ぬわ。せっかくの少女への変移も、内側が小憎らしい勇者の小僧では、全く興醒めよな。そういえば、貴様が仲間に迎え入れた女商人が居たであろう。あやつだったら妾にしてやっても良かったのう」
魔王と歩くと、道行く女のほとんどは足を止めて振り返る。だが、魔界的に容色美麗な男の口から出るセリフがこれである。爛花はトーキョーには魔王が居ると言った。この男が魔王だというのか?
「……妙。あなたがトーキョーの魔王という感じは全然しない」
「何だ、貴様……。東京に魔王が居ると……。いや、我を魔王だと思っているのか?」
魔王は妙なものを見る目で言うのだった。
「……違うの?」
自分が知る魔王は一人しか居ない。お前のことだ。そうではないのか?
「当たり前であろう。だが、成程……まだ、知らぬのか。無理もない。こちらに来たばかり、まして勇者ごときの知力ではの」
魔王は鼻で嗤う。
「……どういうこと」
「よいか勇者よ。我は目覚めた時、この世界を征服せねばならぬと本能によって思った。むろん魔王の本能だ。征服せねばならない……。だがすぐに『無理』と警告が響いた。カラダが、景色が、物体が、この世界のおよそあらゆるものが『征服は不可能』と警告を発してきた。ごく必然的な演算の結果であった。我も知力の欠片は残っていたのでな。つまり、この世界に堕とされた我は、魔王の力の全てを剥ぎ取られておった。勇者が将来使い得た最強の破邪呪文でさえ、この世界が我にした仕事の0.01%も為すことはできまいというほどにな」
魔王は、神妙につぶやく。この男は、仲間の商人の事といい、魔王城の中に居るはずなのに、トーキョーヘイムの全部を知っているような言明をたまにする。
「勇者よ、貴様に問おう。魔王とは一体何者であるか知っておるか」
「……なぜ、あなたがその質問?」
馬鹿げていると思った。本人が魔王のことを質問するなんて。
魔王が何者かなんて、分かり切っている。
「……倒されるべき存在。世界の悪の根源」
「ふ、愚かよな。否、疎かと言うべきか……。貴様は真実から疎遠すぎるぞ」
魔王は大学近くの建物に入り、ブーツを響かせ、地階へと下りて行った。
黄ばんだ照明の、暗いフロアに、赤いのれんのラーメン屋があった。コの字のカウンターのみの殺伐とした造り。『六臂神』のような特筆する処は無かった。
「わが部屋のひとつへようこそ、勇者よ。まずは食券を買え」
魔王は[バックヤード]に引っ込み、着替えに入った。こいつ……。話の流れ的に帰れないようにさせて、金を出させるように仕向けやがったな。
自分はカウンターの根元に座った。他の客はスーツ姿の中年男性ひとりだった。自分の位置からは禿頭の上半分だけが見える。
魔王は黒い半袖のTシャツに着替えていた。単に重ね着を脱いだようにしか見えない。魔王は親方の指示を受け、てきぱき働く。ラーメンが運ばれて来た。魔王のラーメン。毒は入れられていないか。一口すするが、旨いわけではないな、至って普通の味だ。
「魔王は誰かがやらねばならなかった。ある意味、あの世界では、魔王は勇者と同等に望まれていたのだ。人々の意識や祈りの膨大な集合が、それを願った。それゆえ、世界の支柱の一本として、魔王は存在せねばならなかった。もちろん、魔王である為には、並外れて強大で、超越的でなければならぬ。我こそはそれができた唯一の者であった。それゆえ、魔王となった。しかし、勘違いするな。我は世界が望んだからといって、むざむざ魔王となってやったわけではない。もともと、人間界に用意された器では、我には小さすぎたのでな。雑穀の一粒のごとき人間。人間の単なるまとめ役である国王。そして人間正義の頂点の勇者ですら、我は満足できん。世界を背景から支える魔王の型枠にして初めて、我の器は窮屈さを感ぜずにいられたのだ。我は歓んで魔王を引き受けた。それを忘れるな」
魔王が唱えた説は、驚くべきものだった。世界が魔王を望むなんて、たちの悪い冗談である。感情では拒絶している。以前の自分なら、絶対に却下しただろう。しかし、自分の中では、客観的に捉える部分が存在した。これはRPGをやった経験が大きいのだろう。
トーキョーヘイム――魔王が存在し、倒されるべき者として君臨する世界しか、自分は知らなかった。その世界観の中では、たしかに、魔王を世界が要請していたと言ってもいいのではないか。勇者と魔王は、世界に通った一本の骨であり、その両極なのでは……。
……ならば、勇者とは?
勇者とは何者か?
自然と、思ってしまう。ぼんやりと空中を見詰める自分に、魔王は揶揄を投げた。
「おいおい、それを訊くのか、ヴィヴィアン? ――本当に貴様は勇者らしいな」
こういう時に出任せが当たるから、魔王は、油断ならない。もっともこの男、隠しているだけで、読心など魔術の一端を確かにトーキョーに持ち越しているのかもしれないが。
ん、そういえば……。一口目は普通と思われた魔王のラーメンだが、細麺はいつまでもコシを保ち、スープは花山椒の香りの奥で、濃厚な胡麻の香りがする……。そこで、気付いた。自分はラーメンの食券を買ったが、魔王が出して来たのは「隠れ看板メニュー」、胡麻担々麺であった。この味なら、まあ、なかなか……。
その後、自分達はカウンター越しに語り合った。情報交換もあったし、感情を共有できる話もあった。世界をまたいで積もる話は尽きなかった。
「我は、甘かった。この世界をみよ。この世界の悪の、あまりのおびただしさについて、侮っていた。我はこの世界を怯懦するぞ! 勇者よッ!」
魔王は、トーキョーのおぞましさについて、繰り返し力説した。醜悪なものに魔王が怯えるなんて、ジョークかと思うったが、どうも本気らしいのだ。魔王は業務をこなしながら、メンマを噛み砕き、チャーシューを喰い千切った。アルバイトが引ける時間も近いが、客は殆ど来ない。魔王はビールを開栓し、ラッパ飲みした。顔色は変わらない。
「我もトーキョーヘイムでは魔界を統べる者であったが、この東京は規模も激しさも比べものにならぬ。こんな地獄のような世界では、あまりに生き辛い。そうは思わぬか勇者よ? 貴様は東京の悪の量に、押し潰されぬのか? この東京では、才ある若者がしばしば潰されると言うが、全く無理からぬ話よ。マジやべえよ……。この東京って……」
「……考えすぎだよ」
自分は、そう言うしかなかった。魔王は落ち込みすぎて、自信を喪失している。
トーキョーヘイムでの魔王の悪逆の限りは、まさに人々を怯えさせた。文化が違うから比較はできないが、「春を八つ裂きにして」冬が半年続くようにしたり、ある国の谷川を全て温泉にしたり、魔物の弱点を発見した学者から言葉を取り上げて音楽しか演奏できないようにしたり、一方で魔物には亜空間で脳を共有させ共通の言語を与えて緊密な理解を可能とし、宝石ではなくありふれた金属からなる「金貨」を強制して貧富の差を生み出し、幻覚作用のある魔界の野草を人間界に蔓延らせ人間が労働できないようにさせて物の流通を激減させるなど、この男は向こうで世界的な災いを次々に惹き起こして来た。いま魔王がトーキョーに怯えているのなら、因業な話といえる。
魔王はこのトーキョーに疲弊している。ビールの効き目もあるかもしれないが、傍目にも[アイデンティティ]がグラついている。魔王は嘆いている。このおぞましい世でどう生きればいいのか……。
しかし、トーキョーについて自分の印象は異なる。
「……別に、普通だと思う」
それが率直な感想だ。たしかに、トーキョーに突然送り込まれた謎はあるし、実に煩雑な世界である面もあるが、魔王がいうように悲嘆に溢れた世界という印象はない。
自分達のトーキョーへの印象は全く違う。
どちらの印象が標準的なのか、判定は難しいが、少女の身体が対人拒否の特性を持っているように、魔王の身体はトーキョーを拒絶する特性を持ってしまったのかもしれない。
思うに、魔王は魔にフォーカスする性質の者だ。世界が変わっても自然と、醜悪な面、暗い面、闇の深い面に、目が行ってしまうのだろう。しかし今は力を失い、醜悪な物共を征服し、配下に置くことも望めない。だから恐怖させられるばかりとなる。このトーキョーでは、見ようと思えば、魔なるものがおびただしい……。そうした構造のようだ。少しだけ、魔王を労いたい気持ちになった。口には出さないけども。
*
魔王は[アルバイト]を終えると大学に戻って来た。歩くと分かるが、大学からアルバイト先までは近い。[下宿]も近くにあるという。あたかも大学一帯を「魔王城」に見立てたかのようである。構内にいくつもある門のうち、初めて来る門前で、自分は待たされた。大学も広いのだな……。道路を一本隔てると、[ラテン語]が記された巨大な建造物がある。訪れたことはないが、あれは[図書館]のはずだ。
「待たせたな勇者よ。下宿に物を取りに行ったのでな」
すぐに魔王が現れた。もう下宿に戻って来たのか? 本当に近いな。
「ふむ、今宵はひときわ醜悪な月ではないか。観よ。不具合な成長をした腐った『プレニ』の色をした月が昇っておるわ。魔界を思わせなくはないが、もはや我には遠い事」
魔王は上空を指した。「プレニ」とはトーキョーヘイムの果物だ。腐ると独特な色……そうだな、使い込んだ十円玉のような色になる。
魔王は背中に担いだギターケースを降ろした。自らも門のそばに腰を下ろす。
「共奏でもするか? もっとも、貴様が『冗談じゃない』と答えるのを承知しておるから、そう問うたのだがな。貴様の背のそれも楽器であろう。中身は何だ? だが我とて貴様と共奏など、魔王の力の返還をぶら下げられようとご免だ。魔王は勇者ではない」
魔王はファスナーを開け、[アコースティックギター]を出した。
何を始めるのだ。ここで弾こうというのか?
「我はどこまでも独演。協演する楽しみなど惰弱な烏合の戯言。独りで充分にして至高」
「……協調できないだけでは?」
「ふふふ……。ならば聴くのだな。我が演舞を。勇者よ、我はこの世界にて多くを失ったが、一つの力を得た。この世界の醜悪さを、いかにすれば解決できるであろうか……? まがりなりに我が出した答えがこれだ。しかと観届けよ!」
魔王はギターをつまびいた。歌を歌った。
それは[冷えたサンマ]についての曲であった。下宿でサンマを焼いて食べようとした時に、バイトのヘルプが入り、出なければならなくなった。その時に一瞬で、この曲ができたという。魔王はラーメン屋へ走りながら閃いた……。そうだ、今まで東京の醜悪さに圧迫されているばかりだったが、歌にして吐き出せばよいのだ、さすれば我もこの東京で、霊妙なテンポで生きていけるに違いない……と。そして、この展開を東京が予見していたかのように、魔王が目覚めたさい、その肉体にはアコースティックギターを美しく弾く力が備わっていたという。
ああ、ちくしょう。帰って来て卓上にあった。冷えたサンマとべちゃっと沁みた大根おろし。一緒に食べる、地獄のおぞましさ。サンマはただの冷たい棒、大根おろしは生臭い水。なぜ、喰わなきゃ生きられない?(こんなものを!) Oh、Oh、サンマに、申し訳が立たないッ! 焼かれて、醤油をかけられ、冷たくなって呪われる……!
魔王の歌は、一言でいって、よかった。
まず自作曲がすばらしかった。哀愁が漲り、ロマン的で、クラシカルでさえある。そんな極限的に美しいメロディの上に、日常のつまらないやるせない歌詞が乗って来るので、どちらにも集中できない。いや、ちがう、むしろ分裂的にどちらにも集中させられてしまう。漲る調和が全体の緊張を保っているのだ。音楽の美と日常の些事、対極の二つが奇跡的に融合し、見たこともない綺麗なものを描き出してみせた。冷えたサンマは熱々で蘇り、生き生きと空を舞ったのだ。
魔王の歌声の才能も音楽を更に押し上げた。天へと駆け抜ける珠玉の高音。しっとりと渋味と叙情を歌い上げる中音域。熟練のメタルシンガーにも比肩している。
ギターの腕、というか、奏で方も実にたしかだ。間奏で十六分の速弾きソロをした時、四音ずつのアルペジオがまとまりを連ねて駆け上がるさまは、問答無用でしびれが来た。そしてソロが次の小節の最高の一音をぴぃんとつまびいた時、自分は悲しくも何ともなかったのに、自動的に涙がこぼれたのだ。何かとてつもない大呪文でも達成されたように感じてしまった。だが、大げさではない。これは魔王がトーキョーヘイムから手放さずに持ってきた異能の残滓だろう。たしかに魔王には、独演が向いている。独りで世界を作って、世界へ、引き込める。何だっていうんだ。題材はサンマのくせに。
「ふむ、こんなところか。どうだ勇者。率直に絶賛してよいぞ」
「……際立って不快というわけでもなかった」
自分は無表情で批評し、疎らな拍手を送った。
もちろん最大限の感動の表現だった。
そのとき、歌を終えた魔王の前に、金貨が落ちているのに気付いた。誰が置いていったのだろうか。拾い上げてみると、ニホンの貨幣ではなかった。だが、記憶のどこかにある。何処で観たのだったか……。
「……なるほど」
視線を上げて、自分は納得した。門の中の建物、大学の構内が、別の様式の物に変わっていたのだ。
美しさを全方位に放射する質感・色彩・全体的調和。それは《創舎》の特徴に他ならなかった。いつのまにか《創舎》へのゲートが開いていた。魔王の異能的音楽の効果なのだろう。まだ本人は気付いていない様子だが。
爛花は言っていた。《創舎》には自力で来られるようになると。
……こういう事なのか。
自分は金貨を、魔王に渡した。
「……持っておくといい」
「何だこの金貨は? 貴様の物か?」
「……落ちていた。お守りになる、かもしれない」
「東京の金ではないな。チッ、使えぬ。だが、偶然落ちていたのか。見えはせぬが、我の頭上なる星を示す輝きやもしれぬな。どことなくトーキョーヘイムの金貨を思わせよる」
魔王は金貨を掴み、空を見る。
星空の綺麗さはトーキョーヘイムには及ぶべくもない。
「ふっ、よもや我が、この世界では金稼ぎに身をやつそうとは。向こうで金貨を創設した報いかもしれんな。だが全てはよい想い出だ。何処へ行けども変わらぬ人間の愚かしささえもな……。魔王ともあろう者が、『どうやって生きたら』などと真剣に悩む柄ではない。魔王とはある程度喜劇的な[キャラ]でなければな。自ら魔王を名乗る滑稽者なのだからな。我は東京世界の尖った刃先で、均衡をとって生きておるよ……。決して今は悪くない。貴様も墜ちて来て、からかいがいも増えた。勇者よ、貴様はどうだ?」
その時、女子のグループが通り掛かった。
「あ~! アントン君~! 残ってたの? 七限終わったら一緒にゴハン行かない~?」
「ハイハーイ☆ ありがとー。今日は帰るところなんだ。今度ぜひ行こうよ☆」
魔王は女子たちをやりすごし……女子たちは門に入って行く。《創舎》は大学の風景に戻っていた。女子たちは去り際に自分に稲妻のような睨みをくれていった。身体は反射で硬直した。表面には出ない。面倒臭いな。ああいう「同性」は。
「『……魔王は自分の演奏を聴きに来る』」
自分は、勝手に、妙なセリフを口にしていた。喋っている時は、不思議とも思わないし、なぜ未来を織り込んでいるのかも疑わない。魔王の異能のためか、《創舎》の残り香に背を押されたのか。だが不思議とこの未来は訪れるだろうと思った……。
「ほう、貴様が演奏するのか。簡単に予想できるな。貴様のことだ、お仲間と仲良く奏で合うお遊戯を見せるのだろう? 我の暇を潰させるものであることを切に願っておるよ」
魔王はギターを片付け、下宿に帰って行った。