トーキョーヘイムのまどろみ
自分は勇者だ。勇者として生まれ、勇者として育てられ、自分でもそれに満足していた。つまり自分は正真正銘の勇者だった。「学院」での度重なる選抜、血反吐の出る訓練、わずらわしい人間関係、これらをくぐり抜け、見事に頭角を現し、晴れて主席を獲得、無事に叙勲――勇者に列せられる儀式のことだ――された。自慢でなく、事実なので言うが、自分は大陸じゅうから英傑が集まった「学院」の中でも剣術、呪文、頭脳ともに際立って優秀であり、世界で初めて「勇者」を賜った人間なのだ。学院生には七歳の神童から八十歳の老賢まで居たが、勇者は天才の世界である。才能を持った者だけが勇者になる。自分は才能があった。それだけのことだ。もちろん誇らしくはある。強大無比と言われる魔王をこの手で打ち果たす日を思うと、武者震いがした。
明日は自分の十五歳の誕生日。勇者として魔王征伐の旅に出る日であった。
だが、明日は来なかった。
いや、世界ごと歪曲された明日が来たのだ。喩えれば、[ハリウッド映画]の序曲が荘厳に始まるや、[ブラックメタル]のブラストに切り替わる感じであろうか……。意味が解らないだろう。自分もひどく妙だ。「意味が解らないけれど解る」感じなのだこの世界では……。まあ、聞いてほしい。この独白は、誰に言っているのでもない。他人は人間関係の調整のために話を装飾する事が多いから、探求的な会話には向かない。自分に起きたことを腑に落とすには、自分の中での対話が一番いい。明晰さも養える。
振り返ろう。いつもの夜のように城下のベッドに寝た自分は、異世界にて目覚めた。その異世界の名は、東京と言った。[漢字]で、[東京]と書く。
[東京]では珍しい大雪が積もり、一段落した深夜、自分は突然、[伏見神駅]のロータリーに出現していた。
自分は空から自分を見ていた。白い雪をキャンバスにして、白い髪の少女が、駱駝色のダッフルコートを着て、あおむけに倒れていた。
[電気]の血液が体を巡りだした[アンドロイド]のように、少女が目を開けた時、自分と少女の意識が同期した。その少女が自分だと分かったのだ。
[ロータリー]。
[見知らぬ木々や植え込み]。
[街灯や自動販売機]――。
魔王討伐の旅の幕開けに自分が見たのは、言語も文明も人種もすべて新奇である、異世界の景色だった。
だが、こうした変化に開いた口がふさがらないほど驚くこともなかった。むしろまぎれもなく現実に起こったことだと納得していた。というのは、自分がまるで夢の中で起きているかのように、目が覚めたからだ。
たとえば自分は、過去に見た夢の中では、未だ目にしたことがない魔王ニクラウスの城にも行ったことがあるし、そこが確かに魔王の城であると疑うこともなかった。夢とは、そういうものだが、それと似た現象が今も起きていた。つまり自分は[漢字]も[東京]も[アンドロイド]の概念も、知らないけれども知っていた。
一口に言えば[東京人の常識をインストールされて存在していた]。この言明も、意味が解らないが言っているそばから解るカタチなのである。不思議な感覚だ。肚で解っているものを、頭で理解し直す、という感じか。
だから自分はこれ以後、異世界の事象を[特殊カッコ]を付けて呼ぶ必要はもうないようだ。すでに自分の心身は、この世界で違和感なくふるまうには、意識して動けば綱渡りのように可能であるくらいの追従率になっていた。自分は完全にこの世界の一部と化しているのを直感したのだ。
いわば、そういうものだとこの世界を割り切るしかなく、しかも余程努力しなければ割り切るしかできないという状況なのだった。夢の中のように起きるとは、そういうものだ。
だから、男のはずの自分がこの世界では少女の姿をしていたのも、かなり閉口したけれども、腰を抜かすほどたまげたわけではなかった。なにしろ違和感を持てないから自分なのであり、この世界では「コレ」が自分なのだ。「コレ」について疑えることは、元の自分にも同様に疑えてしまうだろう。そしてそういう疑いはだいたい無意義なものである。今思っているのは、もともと一人称が「自分」だったから、「私」に変えなくて済んだな、ということくらいだ。
自分のもと居た世界、ああそう、奇縁にもトーキョーヘイムという呼び名なのだが、異世界が東京という派生的な名なのは、元の世界の名前からすれば、別に不思議なことではない。今の自分にとって、トーキョーヘイムは別世界ではなく、あくまで東京からの地続きと感じるが、東京の何処からトーキョーヘイムへの入り口を見付ければいいのかは分からない。そして今の心身が思うところでは、入り口は簡単に見付かりそうもない気がするのであった。だが、今まで知らなかった文字で突如「東京」と呼ぶのは、どうしても違和感がある。自分はこの世界のことを、特殊カッコは外すが、トーキョーと[カタカナ]で呼んでやることにする。それは異世界人のささやかな抵抗であり誇りでもある。
自分は立ち上がった。――さて、この世界を探索しなければなるまい。これでも勇者となるはずだった男だ。世界の風貌が変わったくらいで、がたがた抜かすタマではない。
ところで目覚めた時から気になっていたが、自分の背中に掛かっている白い長い物体、といっても剣に比べればものの数ではないが、これは何だろうか。もしかしてこの世界の剣なのだろうか?
自分は荷物を降ろし、ケースを開けてみた。
中は、からっぽだった。
いや――。
深夜の[ロータリー]は無人だった。[伏見神駅]という看板だけが光っている。売店にもシャッターが下りていて、さわさわ……と雪の降りる音だけがしている。
すると、シャッターの近くに、客が身だしなみを確認する場所なのか、歪んだ粗悪な鏡が嵌められていた。自分の姿をそこに映してみる。
うむ。なかなかの美貌ではないか。トーキョーヘイムでは、美少年こそが人間の至高の美とされていた。もっともトーキョーヘイムで勇者であった自分の位置付けからは、どんな絶世の美女をもってしても、釣り合わないだろう。だが、今は女が自分なのだ、これでよしとしなくてはならない。不都合も感じない。肉体のあちこちを撫でて確認してみたが、たしかに女であるようだ。再度、顔を見てみる。短髪ではないが、肩には達しないくらいの、白色の髪をしている。女にしては脂肪の少ない体躯は唇や顎のラインをより中性的に見せている。瞳は錫色であり、虹彩は黒色の放射状模様をもつ。[シック]な色合いと言うのだろう。派手すぎない趣向は自分の好みだ。……そんな具合に、この[インターフェイス]を品定めしていると、自分の肩口あたりに何かが浮かんでいるのが分かった。それが鏡に映り込んだからだ。
それは丸っこくて、可愛らしい人形だった。
デフォルメされた顔が描かれている。顔が全身であり、手足はない。目や口は点や曲線に切り出したフェルトで描かれており、髪の毛は白いフェルトで表現されている。側頭から白いフェルトの翼が生えており、ぷるぷると動いている。……もしかしてこのキャラクターは、デフォルメされた自分なのではなかろうか。
振り向くと、人形は目の前に浮いている。トーキョーの常識からすれば、フェルトの翼があるとはいえ、浮いているのは不可解だと言えた。自分は人形を指差し、ある呪文を唱えてみる。……何も起こらない。牛や馬くらいなら一瞬で灰になる呪文だったのだ。やはりトーキョーヘイムの魔法は東京では無意味だ。ならば浮遊呪文でもないだろう。なぜ浮いているのか。
「いきなり燃やそうとするとは、『勇者』はネジの外れた種族だなあコウテツ」
人形は、口をきいた。
「わたしはマスコットの『マスケ』なんだコウテツ。目覚めたばかりの君を助けるぞコウテツ。――ああ、君は喋る必要はないコウテツ。マスケは君にだけ見えるマスコットなんだコウテツ。念じれば会話は成立するぞコウテツ」
と言うので、
……語尾にコウテツと言うのは何の意味だ?
そう訊くと、
「マスコットは特徴的な語尾をもつものコウテツ。コウテツという概念は、それがこの世界で君に関わるからだコウテツ。そのうちわかるコウテツ」
……その語尾はさすがに[ウザい]だろう。
「そのうち慣れるコウテツ。全然別の世界観やインターフェイスにもすかさず慣れた君なら簡単だコウテツ」
……助ける? お前が、自分を……?
気付いたら、お前と呼んでいた。このマスコットは悪い意味でよそよそしさを感じない。喩えるなら、毎日顔を突き合わせて十時間も遊ぶことを惰性で十年も続けた隣の家の悪友、そんな関係に思えるのだ。トーキョーヘイムで自分にはそんな粗悪な仲間がいた記憶はなかったが、ひょっとしたら居たのか? 世界の遷移のショックで、記憶が損傷しているのだろうか。
……ただ助けるとしたら都合がいいな。お前に何のメリットがあるんだ?
「大ありだぞコウテツ。君は[勇者]なんだろうコウテツ。だからマスケは君にくっついて行くことにしたコウテツ。マスケは面白い見世物が大好物なんだコウテツ。そもそも面白い見世物がなかったら、何の為に生きているのか意味不明だぞコウテツ。この世界は刹那主義が極まって見世物の為に生きてる『サーカスの奴隷』みたいな馬鹿どもが溢れ返っているから都合がいいコウテツ。君が遷移したのは本当におめでたいコウテツ。このフォルムも君のマスコットだから合わせてみたコウテツ。勇者のまわりには楽しいことがたんまり起きるに決まっているから、期待しているぞコウテツ。そうそう、マスケが前の世界で何だったかとか、どうして君の身分を知っているのか等々、しちめんどうな疑問はパスさせて頂くコウテツ。マスケはこの世界で超越的な立場を与えられている唯一の存在で、唯一の存在が超越的なのは何も不思議ではないぞと、それだけ言っとくコウテツ。超越者である代わりに君に指南ができるんだぞコウテツ。ただし指南できるのは三回だけで、最初の一回は強制発動だから、実質二回コウテツ。よく考えて指南を使うがいいコウテツ」
……要は、とにかくコイツは存在し、どういう内容か分からないが「指南」とやらができる。自分に着くのは完全に趣味。理由は面白い見世物が見たいから。筋は通っている。
「ちなみにコウテツの繰り返しは仕様だから止められないコウテツ。マスケを嫌だと思うなら消えてもいいコウテツ。君が消えろと願えば、マスケはどこかに飛び去り、二度と現れないコウテツ。マスケを使うか、やめるか、君の自由だコウテツ。でも、初めて来る世界でマスコット無しの[冒険]をするのは、おすすめしないコウテツねえ。東京はトーキョーヘイムとは勝手が違うコウテツ」
……ふむ。こいつの言うことも確かに一理ある。「指南」をさせてみるのも悪くないかもしれない。いつでも追い払えるのだ。
自分はそう思い、このマスケを供につかせてやることにした。
……よし、分かった。ついて来い。ところでお前に根本的な質問だが、自分はどうしてこんなことになってしまったんだ?
「お、サンキューコウテツねえ。質問に対しては、分からないコウテツ。存在の位相がずれてこの世界に落ち込んだもようだコウテツ。こういう例はしばしばあるコウテツ。逆に東京からトーキョーヘイムや他の世界にズレ落ちる例も見られるぞコウテツ。だが、君に関しては、これは確かだぞ、つまり君は特別な物語の筋書きに抜擢されたんだコウテツ。超越的なマスケの嗅覚によれば、この世界の筋書きは、トーキョーヘイムのただ勇者になってただ魔王を倒すなんていうベーシックきわまりない筋とは比較にならないほど豊かで入り組んでいるコウテツ。逆に、君に訊きたいコウテツ。君はこの世界での冒険をやるかコウテツ?」
自分は答えを用意していたが、一旦留保して、別の質問を重ねた。つまり、
……見返りは、あるのか?
「冒険自体が見返りコウテツ。別の世界を見て来た体験は、トーキョーヘイムに還った時に計り知れない武器と財産になるはずコウテツ。しかもこの世界の先進度は向こうの比ではないようだコウテツ。この世界で問題解決力を養えば、向こうの魔王だろうが隠れボスだろうが、お茶の子さいさいコウテツ」
……「隠れボス」?
「こっちの話コウテツ」
……そうは言うけど、戻れる保障はあるのか?
「それはわからないコウテツ。でも恐らくは世界内の大イベントを落着させれば戻れるんじゃないかコウテツ。居る必要がなくなれば、世界とはオサラバになるものコウテツ」
……たしかに、それはそうかもな。
「どうなんだコウテツ? 君は、東京の冒険を完遂する勇気が――」
……愚問だな!
自分は挑発してくるマスケを、内心の答えで遮った。
……勇者たるもの、冒険と名のつくものに出張らないで、生きている意味がないだろう。まして自分は従来、魔王を倒すという冒険を最上にして至高のものと思って疑わなかったが、それを超える冒険があると聞いては、乗り込まないわけにはいかないな。すぐに冒険を始めさせてもらおうか!
「やるコウテツね? では早速始めるコウテツ。短い間だけどよろしくコウテツ!」
マスケも自分の内心に唱和し――自分達はトーキョーヘイムでのちょっとしたパーティー結成のような祝福感を味わった。この高揚は、こちらの世界でも変わらない。
改めて、このフシミガミ駅周辺を眺める。ふむ。こちらの世界もなかなか観るに堪えるものではないか。
大きい規模で為される土木工事の現場。この世界の魔術であろう、[電気]とかいう細緻な光の松明である[街灯]。どこを見ても何らかの人工的な構造物がある。遠くを見れば、エキセントリックでありつつ、普遍的なデザインも含む街が、闇の中に沈んでいた。およそこの世界で、人の手が入っていない所はないように思われた。非常に興味深い……。たしかに、わくわくしないわけではない。
雪に足跡を刻んで、歩き出す。
ロータリーを抜けると、三叉路があらわれる。右か、左か、真ん中か。最初の選択だ。どちらへ行くべきか。
と、背後から鄙びた歌声が聴こえてくる。見ると、椅子にもなっているロータリーの縁に、青年らしき人間が座り、楽器を持って歌っていた。あれは確か、[ギター]というのだ。駅で目覚めた時は、ロータリーの生垣の向こうになっていて、気付かなかったのだ。雪が音を消していたのもある。ちょうど街灯の陰に座っている青年は、全体に黒っぽいシルエットであり、あたかも人型のオルゴール箱のような趣だ。男は、自分が聴いたこともない音楽を歌っている。
「あれは弾き語りだなコウテツ」
……弾き、語り?
「君の世界でいう吟遊詩人のようなものコウテツ」
民謡という物だろうか、初めて聴く旋律だった。しかし、懐かしくてわびしげなその歌は、トーキョーに初めて来た自分の心細さを優しく包んでくれるかのようだ。自分は距離を開けてしばらく聴き入った。当たり前だが、言葉や文明は違っても、音楽の魅惑はどの世界でも共通のようだ。
それと、食物――匂い――も共通だ。
三叉路のたもと、ちょうど駅の隣の場所から、嗅いだこともない旨そうな匂いがした。
自分は、この身体がかなり空腹だと気付いた。すると猛烈に食欲を感じ始めた。何よりその店は、深夜だというのに煌々と輝き、強力に自分を引き付けてきた。……そうだ、このトーキョーは、光がいたる所にある世界のようだ。勇者はどんな物よりも光に引き寄せられてしまう生き物なのだ。
自分は、その店ののれんを手で分け、カラカラと引き戸を開けて入り、[カウンター席]に座った。カウンター席だけの店なのだ。あぁ、店内に充満する芳醇で渾然とした芳香……っ。自分はメニューを見てすかさずメニューを決め、カウンター越しの主人に――。
カウンター越しの主人。
すぐそこに人が居る。何も、間違いではない。この命題は真だ。[フラミンゴ]や[グリーンイグアナ]が服を着て接客をしているわけではない。珍しいことではない。「街に人が居る」というのは、とてつもなくありふれたこと。
――なのにこの身体は凍り付いたように声が出せなかった。
「どうした? 注文は?」
中年の主人は訝しげに言った。マスケを怪しんでいるのではないだろう。マスケは見えないはずだ。自分は詰問されたように、怯え、躊躇している。体内分泌やさまざまな感情が、嵐のように激しくなっている。顔面がとても熱く、汗は異様に冷たい。なんだこの人間は。どんな魔物よりも強大な邪気を感じる。心身が問答無用に萎縮してしまう。惑星並の大きさを誇った勇者の自負が、掌に載る小石のように萎む。
……自分は、ピンときた。マスケとは内心の通話をしただけだ。今の身体で声を出したこともなければ、変顔をしたこともなく、体操をしたこともない。この少女の心身が対人関係で通常にふるまえるかどうかを、確かめておくべきだった。完全に、自分の落ち度だ。普通は対人関係など問題ないと思うだろう。なんてことだ! だが自分の意思とは関わりなく、この心身は勝手に店主に怯え、自分が罪を犯したと自分に思い込ませて来る。この身体の脳がフリーズして真っ白になっているのを、自分は観察していた……!
少女の身体は、動くこともできず、表情も固まっている。どうやら少女の身体は、内面の動きや感情がいっさい表に出ない特徴がある。いや、出せないと言ったほうがいいほどだ。実際、この身体の中では、極限の緊張のあまり何もできないのに、今の表情は店主を冷ややかに見詰めて「何にも興味はない」という空気を醸していた。
おい、まずいぞ、この特徴は、対人関係で大いに支障がある! 落ち着け自分よ、いや自分は落ち着いてる、落ち着けこの身体。とにかく何かしなければならない。本当に喧嘩を売っているように思われてしまう……! [テンパった]あげく、自分が取った行動は、メニューを食券のように店主に渡すというものだった。一体何をしている?
しかもこの少女の表情は、さも当然と言わんばかりに、平然としたものなのだ。
「……リャーメン」
この世界で何とか喋った最初の一言を鮮やかに噛んだ。
「お、おう……」
店主はメニューを思案顔で受け取り、とりあえず調理台の上に載せた。
充分な麺とスープに満たされた丼が届いた。海産物の旨みに[たまり醤油]を合わせた、凝縮されていながら澄んだスープ。熱さと風味と喉越し。堪えられない。凝縮された味わいの中に、スキッとした[煮干]と[昆布]の風味が天高く昇る。客であるこの少女は、いっけん淡々と[ラーメン]を食べ、すすった。だが身体の中では、ラーメンの旨みを凌駕する対人拒否反応が荒れ狂っていた。人の居る空気感に圧迫されて埋まってしまいそうだ、勘定の時に人と話したくない、その緊張に果てしなく引き込まれてただ箸だけを上下させた。
弾き出されたような思いで外に出るが、この身体はマイペースで引き戸を閉め、雪の中を歩く。
ラーメン屋に入ったことで分かったことがある。この少女の身体は内心と言動が著しく乖離している。内心の動きと身体の動きがほとんど断絶している。そしてこの身体は、なぜかむやみに人間の居る空間を恐れる性質がある。それはどうやら器質的なもの、つまり磁石の同じ極が反発し合うようにそうなのだ。この機能はこの身体に根付いているようだ。向こうの世界では、ここまで対人関係に難儀する個体は少なかった。こちらではこういう個体もいて、自分がその個体に当たってしまったのだと、割り切るしかない。
空腹が満ちると、思考力も鋭さが取れて、身の回りのことくらいしか考えられなくなる。合わせて、トーキョーヘイムのイメージが鈍くなってきた。目覚めた時は地続きに感じられていた世界は、絵やデータのように非現実的になってくる。今は腹部に収まっているスープと麺の存在感のほうがずっと雄弁である。これは確かに夢や幻覚ではない……。少女の心身になじむほどに、トーキョーヘイムが遠くなる感覚がある。このインターフェイスの仕組みなのだろう。まずい傾向だ。そもそもこの少女の心身は何なのか。どうして自分がこれなのか。
「……どうしよう」
それだけ考えて出た言葉は、マイペースに静かに、この一言だけ。
意図の十分の一も言動に出ないもどかしさ。このインターフェイスは、内心を表に出すにあたって、宇宙の彼方にある中継基地でも介しているのか。
……まあいい。ひとまず保留だ。「人間は、今いる場所での使命を果たさなければ、次には進めない」ものだ。この少女に予め格納されていた処世訓によれば、そうだ。
だがこの処世訓は、現状にも確かに当てはまる。まして勇者は特にそうだ。逆説的だが、向こうに帰りたいならばなおさら、この世界で与えられたこの人間の人生を全うし、行動しなければならない。考えていても帰れない。
勇者とは「聖なる合理主義」を体得した者でもある。正しい物事への生来の直感。正しさへと進む飛び抜けた判断力。それを兼ね備える天才だけが勇者になれる可能性がある。そのくらいでなくては、世界最強の魔王を一人や数人で倒すという至難の事業は成し遂げられないのだ。
クスクスと笑いながら、マスケが言った。
「言い忘れたけど、このインターフェイスは対人過敏症だコウテツ。[スラング]では『コミュニケーション障害』と言われてるコウテツ」
――おいおい! そういうことは最初に言っとけよ。
「君は、勇者だろコウテツ? 『とにかくおもしろい冒険をしたい』と思うのは、勇者の本能だろコウテツ? 見知らぬ冒険に後先考えずに飛び込んで行く、それが勇者って人種じゃないかコウテツ? だから言わなかったんだぞコウテツ」
チッ。たしかにそうか。魔物の弱点や宝物のありかなどを事前に知らされたら、冒険も興醒めだ。だが、マスケへの信頼度は半分くらい下げておいたほうがよさそうだな。
「まぁ、面白い見世物だったコウテツよ。お礼というわけではないけど、三つの指南のうち最初の指南を使ってあげるぞコウテツ。最初の一回は指南の実演になっているから、強制発動されるコウテツ。つまり、駅前の三叉路の『真ん中』を、真っすぐ進むがいいぞコウテツ。君の旅路の拠点に案内してやるコウテツ」
「……一回目の、指南……」
少女の身体は、ぽそりと呟くくらいまでは、支障なくできるのだな。
マスケは三回しか指南しないと言った。そのうちの一回だから、重要なのだろう。確かに最初に指南があるのは王道とも言える。自分も三叉路を行くなら真ん中を行きたいと思っていたところだ。森閑とした住宅街へと、自分は「トーキョーの冒険」の一歩目を確かに記したのだった。
途中でマスケの指示どおりに何度か曲がり、十分ほど歩いているだろうか。
見知らぬ建物ばかりのうえに、暗がりでよく見えないが、たとえばいま見えている大きな建物は何だろうか。そういう内容を質問したつもりだが、
「……これは何」
と少女の肉体は呟く。端折りすぎである。
「ここは学校コウテツ。君と同じくらいの男女が通う『高校』だコウテツ。ちなみに君は十七歳で、本当は高校に通わなきゃならないけど、通わなくていいコウテツ」
通わなくていい? なぜだ?
「そのうちわかるコウテツ」
マスケは楽しげに言った。
トーキョーの季節は冬のようだ。この少女はコートを着て手袋を嵌めていたが、存外に寒いものだ。それは謎めいた世界に独り送られた心細さもあるのか。拠点に案内すると言ったが、本当にマスケの案内は正しいのか。言い募ろうとした時、
「着いたコウテツ」
高校とやらの向かい側にある、小さな[アパート]の前に、マスケは立ち止まった。
「ここの203号室が君の拠点になるコウテツ」
マスケは側面の階段をひとり飛んで行き、二階から自分を見る。
自分は、躊躇する。この身体は人間の居る空間に拒絶反応がある。しかも深夜にいきなり知らないアパートに入って行くとは難関だ。
そういえばマスケはどうしてここが拠点になると知っているのか。その情報が正しいとすれば、どこまで知っているのか。
それらは、裏を返せば、少女のアイデンティティに触れる。
少女はこのトーキョーで、一体何者なのか。
何を知っていて、何を知らないのか。
何を知っているべきなのか。
知っているべきなのに知らない情報が多いならば、致命的な欠損ともなる。
少女の記憶と情報を攫う時間がほしい。自分は、そう気付いた。
「何をくだらないこと考え込んでるコウテツ? 思索は勇者には似合わないぞコウテツ。大丈夫コウテツよ。ゲームでも拠点を出るまでは敵とエンカウントしないコウテツ。さ、勇気を出して、飛び込むコウテツよ」
「……[ゲーム]?」
「こっちの話コウテツよ。ちなみに、このトーキョーがゲームだとか、そういうベタな仕様ではないから、安心していいコウテツ」
「……[ベタ]?」
「こっちの世界の言葉コウテツよー」
マスケが自分よりも情報をたくさん知っているのは確かだ。おまけに勇気と言われると自分は奮い立ってしまう。ああ、わかった、行ってやろうじゃないか。自分の身体はガチガチに警戒し、内臓を丸ごと道路に吐き出しそうな緊張に縛られていた。だが自分は、岩に縄をつけて引っ張るような気分で、薄暗いアパートの二階に向かった。なあに、トーキョーヘイムでは、実際に岩を引っ張ったことがあるからな……。