空に落ちる
最初に感じたのは澄み切った空気の匂い。優しい日差しを感じながら、体をすり抜けていく少し冷たい透明な風を吸い込む。
ややあって自分が目を閉じていることに気が付いた。重く感じる瞼を押し上げる。焦点の合わない瞳を何とかしようと、ぱちぱちと瞬きをする。柔らかく澄んだ空にピントが合う。ぼんやりと空を眺めていると、あることに気が付いた。空の一部が僅かに色が濃い。いや、色が変わっているというよりは空の向こうの巨大な何かの影が、空に映っている。
相変わらず体の後ろから前へと空気が流れていく。浮かんでいるような不思議な感覚に疑問をいだき、辺りを見回してみる。後ろを振り返るとはるか後方、つまりは下に地面。どうやら自分は現在、地面を遠く離れ上空にいるようだった。浮かんでいるのではなく、落ちている。気づいたところでなすすべもなく落下していく。たまに振り返ってみてみても、あまりの高度に現実感も恐怖もなく、透明な世界をただ後ろへと落下していく。どれくらいたっただろう。あの上空の影が空の色に紛れてしまってから久しく、だが突如としてその体は水へと吸い込まれた。意外なほど静かに。揺らめく水面のフィルターをかけた空はそれでも美しく、きらきらと波と泡が揺れた。泡。そうだ、自分の吐き出した息が細かく泡になっているが、それももうすぐ、終わる?
もしかしたらまずい状況かもしれない、と気づいたところで、海中から大きな何かの流れに乗って今度は上に運ばれていく。そして再び日の目を見ることになった。
体を起こしてあたりを見回す。薄青色の空をジグザグに切り取るように乱立するのは半透明の巨大な結晶で構成された構造物。その内の一つ、たった今水中からせり出した結晶の上に打ち上げられたようだ。自分の置かれている状態が理解できず、何となくまた空を見上げる。さっきと変わらず、淡い色の空に、細切れの薄雲が緩やかに流れていた。
突然、静かな空を黒い影が切り裂いた。
ガリガリガリ、バチバチバチ、その巨体の端は空気に拒絶されるように破綻をまき散らしている。溶けたような下半身と、上体からは歪に膨らんだ腕のようなものが突きでていて、その腕が、何かに向かって振り下ろされる。その腕の大きさからしてみれば不自然なほどに小さい音と揺れ。地面に叩きつけられた腕からはじき出されるように、小さな影が飛び出した。
飛びすざり、巨大な影から距離をとった小さな方の影の、ブーツが不思議な結晶で構成された地面をしっかりととらえ、その速度を殺す。まとめた髪がその速度に振り回されて生きているかのように流れる。
手足から淡い光をまき散らし、その残光を残しながら小さな影は駆ける。巨体の周囲を素早く動き回りながら、時折より強い燐光を発しての突き蹴り、どうやら攻撃を試みているようだ。しかし幾度繰り返そうとも、巨体には少しも応えていないように見えた。ほんの僅かずつ輝きは失われていく。
そして、巨体のあちこちから繰りだされる、無造作な衝撃の一つが、ついに小さな影のブーツをとらえた。すぐさま殴り飛ばそうとしたのだろう、だがその腕にはもうさっきほどの燐光は宿っていない。引き離そうとしても質量の感じられない霧のように足にまとわりついたまま。チッ、と舌打ちが聞こえてきたような気がした。あのままでは振りほどけない。ザザッ、黒い霧に覆われた部分が、まるでその存在と拒否しあっているかのように「分解」されていく。
自分にはどうしようもない、けれど、思わず一歩踏み出す。手を伸ばす。
その時。
繋がった。その距離を越えて、彼女と。
その瞳に、色が映る。薄くて青い、遥かな空の色。その色に従って、意識は拡大する。
風が流れた。
自失は一瞬。どうすればいいか。二人分の意識は理解している。すぐに腰を落とし拳をぐっと握り、目の前に迫る巨体を殴り飛ばす。空を切り取ったような明るい燐光が風となり、まとわりつく影を散らした。
彼女が化け物を吹き飛ばした衝撃が遠くにいる自分の所にまで伝わってくる。顔を覆い、なんとか飛ばされないようにこらえる。化け物から遠く離れた場所にいる「自分」と、対峙する「彼女」。意識はただ一つ。だが同時にそこここにある。彼女の体は止まらない。鋭い蹴りが、半分ほど消し飛んだ巨大な影を追撃し、もはや切り裂く。風をまとった四肢が奔る度に影はその存在を減らしていく。そして、いかほどもしないうちに消滅した。彼女が纏う風の残滓のみを残して。
影が完全に消え去ったことを確認したのか、彼女は構えを解いた。彼女が静止すると同時に繋がりはほどけ、同時に纏う風もふっと空気に溶けていく。
激しい動きと風で乱れた長い前髪から、瞳が見えた。深い、黒にも近い青。そこまで認識して、ようやくその人物がこちらに振り向いたことに思い当たった。戦いの余波か、いつのまにか強くなった風に服と髪を揺らし、こちらを見据えるその瞳は、確かに、覚えがあった。
そうだ、確かにこんなことが、前にも。ふっと浮かんだ景色。背景こそ違えど、確かに彼女だ。
彼女が黙ったまま、こちらに向かって一歩踏み出した、その時。
目線が下がる。いや、違う、落ちている?
青い目が、驚きに見開かれる。体は重力につかまり、落ちていく暗闇へ。意識はそこで途切れた。




