紗糸
……
淀んでいる……
暗いというよりは黒い場所。
濃密、だがぼんやりもしている。ああ、これは僕の意識がぼんやりしているからかな。
意識が朧げだ。頭もあまり働いている感じがしない。これは夢だろうか?
それとも現?
何かの魔術なのだろうか?
……
…………ああ、集中力が足りないせいで危機感が湧かない。
『……』
ん? 誰?
『――――――』
何か……しゃべっているみたいだ。
でも聞こえない。
いや、理解できない。
声を出しているようだが、それは音にしか聞こえないのだ。
ごめんね。
『―――――――――』
悲しそうな声音になった。
なんとなくそう感じた。
僕は向こうのことを正確に理解できないが、向こうは僕の気持ちを正確に理解できるようだ。
もどかしい……とは思わないかな。これは意識がぼんやりしているせいもあるが、僕自身がそこまで関心を持っていないからかもしれない。
案外冷たい人間なのかもしれないなぁ……
なんて思って少し淀みにぼんやりしていると、目の前が急に白く眩み始める。
それは徐々に強くなっていき、視界がやがて真っ白に覆われた……
・・・
「……ん」
押野見はゆっくりと目を開ける。
ぼんやりとした視界にぼんやりと灰色が滲んでいる。
しばらくして映像が鮮明になり、それがコンクリートだということに気が付く。
「起こすまでもなかったようね」
眠気眼を擦りながら体を起こし、その声のした方を見る。
「……ん」
柳木は入口のドアに凭れながら、呆れたため息を吐き、あいさつ代わりに軽く手を上げる。
それに未だ覚醒しきっていない押野見は大きく欠伸をし、
「おはようモエモエ」
次の瞬間、顔を真っ赤にした柳木がものすごい速さで迫ってきて、
「ッ――――――――!!」
パシンッ! という音とともに彼の視界は90度回転して、枕に再びダイブした。
「……痛い」
「目覚ましよ。まったく、次呼んだら許さないから」
「叩かなくても……」
「先行ってるから、早く来てね」
そうツンと言い捨て、彼女は部屋を出ていく。
ようやく覚醒した押野見はため息を吐き、部屋を出る。
ドアを開けるとそこはいつもの畳のある部屋だった。
いつもの畳のある部屋だけだった。
「あれ?」
空間は伽藍としており、いつもより広く感じる。
柳木はそのまま入口の方へ行き、
「みんな先に行ったわ」
「え? どこに?」
そう問う押野見に彼女は少しだけ申し訳なさそうな顔をすると「向かいながら話すわ」と外に行ってしまう。
何が起こっているのか訳が分からない彼は、柳木に言われるがまま彼女の背中を追って外に出る。
入り組んだ裏路地を抜け、大通りに出る。そこはあの放課後、初めて押野見が人形に襲われたところだ。
だがそこでは今も普通に人々が行き交っており、まるで何事もなかったかのように日常が流れている。
「え……これ……」
その日常が逆にどうしようもなく異常に感じ、押野見は辺りを見ながら困惑する。しかし柳木は特に驚きもせず、
「これが私たちの相手にしている組織の大きさよ」
そうサラリと流し、足を進める。しかしその様子はいつもの彼女にしては少し落ち着きが無いように感じた。
そう、何か焦っている。
「ね、ねえ……そろそろ説明してほしいだけど……」
「そうね。簡単に言うと紗糸 編が単身で敵の本拠地に乗り込んでいったらしいの」
「え!?」
彼女は淡々と事実だけを話す。その声音に感情はなく、だからこそ押野見は焦りが大きさを感じた。
いや、この事実を聞けば十分に事態の深刻さが分かる。
あの人形使いのところへ単身で向かった? 実際に遭遇している彼はその無謀さがありありと分かってしまう。
「な、なんでそんなことを!?」
「それは……」
そこで柳木は言葉を濁す。
どうしてだろうか。そう思っていると彼女のポケットから無機質なコール音がなった。
彼女は取り出すと通話を押して耳に当てる。が、そのスマホは以前見た彼女のものとは違うような気がする。機種変更したのだろうか。こんな短期間に。
「……うん。分かった。ありがとう」
短い会話を済ませ、彼女はスマホをしまい、
「これは隅月のよ。私のは壊されたわ」
「え、誰に?」
「編よ」
「へ?」
訳が分からない。
なぜ紗糸は柳木のスマホを壊したのだろうか。
と、疑問を渦巻かせている押野見を見て柳木はため息を吐くと、
「とにかく詳しくは向かいながら話すわ。だから急いでついてきて」
そう言うと彼女は走り出す。いきなり走り出した彼女に慌てて押野見は追いかける。
いったい、何がどうなっているのだろうか。
・・・
柳木から事情を聴いた私は、
「分かった。こいつを頼む」
そう柳木に返し、簡単に応援を呼ばれないようにスマホを破壊した。
そして私は、ある場所に向っていた。
ここは町はずれの古い住宅が並ぶ場所。どれも昔ながらの瓦屋根に木の柱の大きな家ばかり。まるで時代劇のセットのようだ。
そんな中でもひと際大きな家がある。ここいらを支配している、いわゆる良家というやつだ。
高い塀で囲まれ、大きな門が聳えていて、相当の経済力がうかがえる。土地の税金は馬鹿にならないだろう。
だが今ここは売りに出されているのだ。理由は簡単。ここを納めていた人物もいなくなり、この土地の引き取り手になったやつが売りに出したのだ。
その引き取り手は最後にこう言い放った。
「こんな場所。二度と見たくない」
と。
しかし何の因果か。いや、これはきっとあの時から決まっていたのだろう。
私はまたここに戻ってきてしまった。
ここ、『紗糸家』に。
「……」
ため息も出ない。
開けっ放しにされた門を見て、私は覚悟を決める。
この奥には、いるのだ。
あいつが。
私の嫌な記憶の象徴が。
そして私は門をくぐる。
石のタイルを踏みながら、チラリと左右の庭を見てみる。
もとは庭師の人がきちんと手入れしていたのだが、今は放置されて雑草が伸び放題だ。まったく、雑草は本当にどこでも生えてくる。
家の玄関も開けっ放しにされていたのだろうか。湿気か雨風のせいか少し腐っている箇所があるようだ。もとは毎朝掃除をして綺麗になっていたのに。
そんな玄関を私は土足で上がる。
そこから左右に道が分かれているが、私は右に行き、目的の部屋を目指す。きっと、そこに彼女はいるのだから。
廊下、というより縁側だ。右手にはガラス戸があり、さっきの鬱蒼とした庭が見渡せる。左手には障子だ。ここは確か居間だったはず。この家は玄関から右が家族。左が客人をもてなす用になっている。
だから私は右の一番奥の部屋。母の部屋の方に行く。
縁側の突き当り。そこの左手にある障子に手を掛け、私は一拍置いてからその戸を開く。
そこには、
「……悪趣味だな」
大量の蜘蛛が蠢いていた。
種類は様々。
女郎蜘蛛、
黄金蜘蛛、
背赤苔蜘蛛、
草蜘蛛、
脚長蜘蛛、
蠅捕蜘蛛、
地蜘蛛、
脚高蜘蛛、……
よく見かける蜘蛛から見かけない蜘蛛まで種類は様々。そしてそれらがその部屋いっぱいに白い糸を張り巡らせ、巣を張れないモノは地面を動き回っている。
十畳ほどの部屋中を黒い点が蠢いていた。
「どう? すごいと思わない?」
そう、縁側の曲がり角から声が漂ってくる。
聞き覚えのある。忘れすはずのない声が。
視界の端の彼女が映る。が、私は彼女の方を見ないでもう一度言う。
「悪趣味だ」
「二回も言わないでよ」
そう彼女は少し寂しそうに眉をひそめただろう。
私は障子を開けっ放しにしたまま彼女の方を見る。
そして、
「よく戻ってこれたな。結」
それに彼女は静かに唄うように、
「ええ、遅くなりました。編姉さん」