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76]あの手この手

 夏が終わろうとしていた。川久保はこの夏の始めからダンス教室へ通い始めていた。玄関で靴をき、腕を見ると、まだ十分に時間はあった。あと少ししてから行くか…と川久保は玄関の戸を開けようとして思いとどまった。いやいやいや、そうはこないだろう、やつは…と川久保は考えた。おそらく相手の滝口はその裏をかいて20分前にはやってくるに違いなかった。現に、前回はその読みをしなかったばかりに10分遅れて先を越されたのだ。二度のてつは踏みたくなかった。まあ、そうなったからといって、指導する美咲先生の気持がどうこう変わるものではない。断然、美男子の俺の方が有利なはずだが、さて、どうしたものか…と川久保は北叟笑ほくそえみながら玄関であの手この手と巡った。

「お父さん、どうかしたの?」

 娘の怜奈が玄関に立ち続ける川久保をいぶかしげに見て言った。

「いや、べつに…」

 決まりが悪く、川久保は出るつもりなく家を出た。まあいい、あの手この手は次にしよう…と川久保はダンス教室へ向かった。

 その頃、ライバルの滝口もあの手この手と策を練っていた。前回は先を越して、一番でレッスンを受けたのだ。よし! 今日は一歩進んで、このあと、お茶でもどうですか? と言ってみるか…と巡った。腕を見ると前回より10分ばかり家を出遅れていた。いけない! と滝口はダンス教室へ急いだ。

 川久保がダンス教室へ着くと、案に相違して滝口はまだ来ていなかった。川久保は先にレッスンの受付を済ませた。しばらくして、滝口が息を切らせてやってきた。川久保は、滝口にしたり顔をした。

 二人がレッスンを待っていると、一人の年老いた掃除婦が入ってきた。

「あんたら、ここで何してるの?」

「えっ? なにって…ダンスですが」「ええ…」

 川久保が言い、滝口が続いた。

「ダンスって? この貸しビルで?」

 掃除婦は不思議そうに首をかしげた。

「貸しビル?」

「そうだよ。以前は確かダンス教室やってたようだけどね。今は入室待ちさ。あんたら勝手に入っちゃ困るね。私が怒られる…」

 家政婦はブツブツと愚痴った。

「そんな馬鹿な! これからレッスン受けるんですよ、私達。ねえ」

「ええ…」

 川久保が滝口の顔をうかがい、滝口はうなずいた。

「なに言ってるの。教室は3年前に閉鎖されたよ。美人の先生が事故死してからね…」

 川久保と滝口の顔が一瞬にして蒼白くなった。二人のあの手この手は相手が幽霊だけに通用しなかった。 


                   完

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