73]タイム・ラグ
ようやく夏の猛暑も遠退き、通勤途上で汗をふく回数が減った崎岡は、やれやれといった顔つきで目を閉じ、心地よく帰路の地下鉄に揺られていた。
『次は丸禿でございます。地下鉄 鬘線は乗換えとなります…』
車内アナウンスが流れ、ウトウトと眠っていた崎岡はハッ! と目覚めた。降りる駅だった。慌てて崎岡は席を立った。いつもは座れず、吊り革を片手に立つ・・というパターンだったが、どういう訳か今日は座れたのだ。それがよかったのか悪かったのか…結果、ウトウトする破目になったのである。乗降口まではそんなになかったから別に慌てなくてもよかったのだが、崎岡は慌てていた。
「あっ! すみません。ちょっと…」
人を掻き分け、すぐ乗降口の前まで来ると、やれやれと崎岡は思った。するとなぜか崎岡は眠くなってきた。あとはどうしたのか崎岡自身もよく覚えていなかったが、気づけば丸禿駅の構内ベンチでウトウトと眠っていたのである。こんなことは長い通勤生活で初めてのことで、崎岡は訳が分からなかった。しかも時間は地下鉄に乗る一時間前なのだ。一時間前といえば…崎岡は巡った。脳裡に浮かんだのは社内の自分の席だった。時間は退社直前である。そんな馬鹿なことはない…と崎岡は現実の今の状況を否定した。だが夢ではなく、人の動きもごく自然である。崎岡は少し時間を得した気分で帰路についた。その後、タイム・ラグの怪現象はなくその日は無事、終わった。
次の日の朝である。崎岡はいつものように通勤電車に揺られていた。幸か不幸か、朝はいつも込んでいて、崎岡がやれやれと安堵出来ることはなかったから、結果としてウトウトと眠気には襲われなかった。だがその日の崎岡は少し状況が違った。吊り革にぶら下がって揺れていると、睡魔に突然、襲われ、ウトウトしたのである。気づくと崎岡は会社のデスクに座り、ウトウトしていた。
「おいっ! 崎岡。帰るぞっ!」
隣の席の田山に肩を叩かれ、崎岡は目覚めたのだ。スマホで状況判断すれば、崎岡は前日の退社直前にいた。それは…地下鉄に座って揺られ、ウトウトと記憶が遠退いたあの時間へと繋がっていた。タイム・ラグがまた起きていた。
その日以降、怖ろしくなった崎岡は通勤方法をバスに切り替えた。植毛バスである。
完




