71]私が幽霊
そろそろ秋だな…と考えていた潮貝の考えは甘かった。8月半ばが過ぎたというのに、また猛暑が復活していた。潮貝としては、もう勘弁してくれよっ! といった心境だった。
暗くなると当然、熱帯夜が襲ってきた。暑がりの潮貝はクーラーに扇風機、団扇すべてを作動させて見えない敵を迎え撃とうとしていた。夕食は湯がいた素麺をサッパリ味の冷えた出汁で食べ、まあなんとか済ませた。食べている間は暑さを忘れられるのが、不思議といえば不思議に思えた。さて、食器を洗おうか…と食べ終えた潮貝が和室の畳を立ったときだった。
『ご精がでますね…』
声はしたが、姿が見えない。はて? 気のせいか…と潮貝は思いながら食器をキッチンの洗い場へ持っていこうとした。
『いやいや、ご苦労さまです…』
また声がした。潮貝は危うく手に持った食器を落としそうになりドキッ! とした。潮貝は辺りを瞬間見回し、次の瞬間には、そんな自分が馬鹿らしく思えた。一人住む家に声がする訳がなかった。がしかし、潮貝は口を開いていた。
「誰!」
返事は、すぐになかった。なんだ…と、蛇口を捻ったのと同時だった。
『幽霊です…』
声がした。そして少し間合いをおいて、また声が続いた。潮貝は勢いよく出る水の蛇口を閉めた。
『私が幽霊です』
声ばかりで、やはり誰もいない。潮貝は実感が湧かず、怖くもなんともなかった。だいたい幽霊の相場は、怖い姿でおどろおどろしく出るとしたものだ…と潮貝は思った。それに潮貝には、幽霊に出られるような恨みを買った覚えもなかった。
「なんなんですかっ!」
『私が幽霊です。ただそれを言いたかっただけです…』
「なぜ私なんですか?」
『あなたが言いやすかった。ただ、それだけです…』
「なぜ?」
『私はまだ幽霊になりきれない亡者なんです。それで今、あの世で修業をしているんです』
「ほう、そうなんだ…。誰でも幽霊になれるというものでもないんですね?」
いつの間にか、潮貝は幽霊風の霊と会話をしていた。
『そうなんです。認定されないと駄目なんです』
「あなた、見えてませんよ」
『はあ…まだまだなんです。それじゃ、お邪魔しました』
なんなんだよ、人騒がせなっ! と、潮貝は怖さを感じるより腹立たしかった。
食器を洗い終えて和室へ戻ると、畳の一部が微妙に湿っぽく濡れていた。もう一歩だ、頑張れっ! と潮貝は応援していた。
完




