58]消えた山葵(わさび)
暑い昼どきの日本家屋である。裁判官の春日は久しぶりにとれた休暇で妻の美希と故郷へ帰省していた。蝉がミ~ンミンミンミン…と喧しく鳴く中、春日は鄙びた縁側廊下に腰を下ろし、冷えたザル蕎麦をスルスル…と口へ運んだ。少し前に打ち水をしたせいか、熱気は随分と和らぎ、幾らか冷風さえも頬を撫でる。麺つゆも申し分ない味で、トッピングで入れた刻み葱も新鮮で文句がない。なんといっても畑で今朝、収穫したものだから、それも当然だった。ここに山葵でもあれば…と春日が思ったとき、ないはずの山葵が一本、廊下に現れた。そんな馬鹿な話はない! とニタリと哂えたが、もう一度、見た廊下には確かにないはずの山葵が一本、横たわっていた。市販のチューブなら買い置きが冷蔵庫に入っていたから、誰ぞ家の者が…と思えるのだが、モノは生山葵である。擦り下ろす根の部分だけで、さすがに茎や葉はなかったものの、本物の山葵であることに変わりがなかった。春日が不思議なのは、廊下板の上に置かれている・・という事実だった。誰も置くはずがない…と思う以前に、座ったとき廊下には何も置かれていなかった・・という残像が春日の脳裡にあった。忽然と現われる訳がない以上、誰が置いたのか? という推測は否定される。この発想は司法的な発想によるものだ。だが、よ~く考えれば、どうでもいい話ではある。自分は山葵が麺つゆに入っていれば、より一層、味わい深く蕎麦を食べられるのだが…と思ったに過ぎない。そこへ、この山葵だ。春日は廊下板に置かれたその一本の山葵を手にしてみた。やはり本物の山葵だった。ザル蕎麦はまだ半分以上、残っている。こうして本物の山葵がある以上、擦り下ろして食べない手はない…と春日は台所へ下ろし金を取りに行こうと立った。そのとき目眩がし、春日の意識は遠退いた。
気づけば、春日は縁側前の居間で昼寝をしていた。ふと、廊下を見ると、一本の山葵が・・ということはなく、辛口の美希が立っていた。
完




