49]惚(ほ)れた人魂(ひとだま)
江戸は中ごろのこと。三番町の裏長屋に簪職人の乙次という、それはそれは器量のよい若者が住んでいた。なかなかの働き者で、長屋のかかあ連中が、あんないい男とひと晩とか乙さんはそのうちお棚を持つに違いないよ・・などと噂するほどの人気者だった。簪は月に一度、小間物問屋の篠屋へ納める手はずになっていた。出来がよければ二両にも三両にもなろうかという仕事だったから、これはもう乙次の腕次第で、どうにでもなるという筋合いの稼ぎだった。
篠屋の主人、喜左衛門の娘でお沙代。この娘は三番小町と町内で噂されるそれはそれは見目麗しい娘だったが、これが、俄かの流行り病で、ポックリと身罷った。さあ、若い身空で死んだお沙代、この世に未練がたっぷりと残っているものだから、なかなか死出の旅へは出られなかった。そんなことで、喪が明けたあとも、篠屋を離れられず、家の内外を人魂となって上から眺める態でさ迷っていた。そこへ、出来上った簪を納めに現れた乙次とばったり出食わしたから、さあいけない。お沙代はすぐにあの世の者である我が身を忘れ、乙次に惚れてしまった。少し高い上を人魂で飛ぶお沙代からは見えても、乙次からはお沙代が見える訳もなく、別にどうということもなかった。すっかり惚の字のお沙代は、このままじゃ…さあどうしたものか…と考えた。そこへ、早く連れてこいとあの世の命を受けた風娑婆という遣いが篠屋へ現れた。だが、無理やりにも連れていこうとした風娑婆の念力をもってしても、お沙代の煩悩は断ち切れなかった。お沙代の方も乙次に絆されていたから、これこれこうです。なにかいい手立ては…と風娑婆に訊ねてみた。風娑婆は、これはいい! と思った。乙次との恋が実れば、この世の未練が断ち切れ、あの世へ連れていけるのでは・・と考えたのだ。風娑婆はお沙代に一枚のお札を与えた。このお札を持っているかぎり、生きた人間となれる有り難いお札だった。
お沙代は三番町の裏長屋へ人間の姿で現れた。そして二人はすぐ、恋に落ちた。そしてまあ…ああいうことやこういうことをして、そういうことになるというのは、惚れた者同士なら言わずと知れたことである。
そして月日は巡ったが、いっこうお沙代にこの世の未練が断てたとは思えず、風娑婆は弱り果てた。あの世からの催促が喧しく、仕方なく別の死んだ娘をお沙代と称して連れていった。惚れた人魂のお沙代がその先どうなったかまで私が知る由もない。ただ、ああいうことやこういうことをして、幸せに暮らしたのではないか…とは、思っている。
完




