44]泣き虫
残暑が厳しいある日の午後、上松は課の出張で、とある大都市へ来ていた。大都市といえど、通り沿いに植えられた並木には多くの蝉が密集し、喧しいくらいに鳴いていた。上松は小さい頃から泣き虫だった。それは大人になった今もなおっていなかった。この鳴く音を聞くと、泣き虫の上松にはなぜか堪えられなかった。
「おはようございます。閉蓋商事の上松です…」
「ああ、お初にお目にかかります。割鍋物産の小山です…」
初対面の二人は名刺交換を終え、さっそく仕事の打ち合わせに入った。話は割合、早く纏まり、あとは当然、招いた側の親睦を兼ねた接待となる。その前に、招いた側の小山は、自分の心証をよくしようと、上松に内輪話を始めた。
「実は私、家内に先立たれましてね。今は独り暮らしをしておるんですよ…」
「そうでしたか。ぅぅぅ…」
こんな話を聞かされれば、上松はもう駄目だった。ぅぅぅ…と、泣き始めた涙は止めどなく上松の頬を伝い落ちた。小山はなにか悪いことでも言ったか? と自分の失言を思ったが、話し始めだったから、さしてそうとも思えなかった。涙を拭う上松のハンカチは、もう絞れるほどになっていた。
「あの…これ、よかったら」
小山は自分のハンカチを上松にさし出そうとした。そのときだった。小山の目に、はっきりと上松の肩を這うイモ虫の影が見えたのである。その影が泣き虫だと小山に分かったのには理由があった。上松が涙をハンカチで拭いたとき、影は空中にフワリと浮かんでスゥ~っと消え、上松が泣き始めると、また空中から影の姿を現し、肩にフワリと舞い降りると這ったからだ。竹下はそら怖ろしくなった。どうもその影の姿は上松と他の課員には見えていないようだった。こんな気味悪い男を接待するのか…と思っただけで、小山の心は萎えた。そんな心を悟られまいと、小山がトイレへ向かったときである。
『ははは…そんなに落ち込まずに』
通路を歩く小山に上から声がし、小山が顔を上げると、そこには泣き虫の影が浮かんでいた。泣き虫は空中にフワリと浮かんで現れるイモ虫の妖怪なのである。
「上松さんが、かわいそうでしょ。離れてやりなさいよ」
泣き虫は小山の肩にフワリと舞い降りると、肩を這い始めた。
『いや実は悪いから、そろそろ、そうしようと思ってたんだよ』
「…」
その後、上松は泣かなくなった。だがどういう訳か、それ以降、彼の話は浮くようになった。
完




