30]掠(かす)める
鍋穴は早朝から家の外掃除をしていた。猛暑の夏だから、さすがに9時を過ぎてからは気が進まなくなる。ムッとする暑気が、やる気を削ぐからだ。その辺りの要領は心得ている鍋穴だから、早朝、スクッ! と起き上がると、バタバタと玄関を飛び出て家の表掃除をし始めた。猛暑の熱気が鎮まる僅かな時間帯、それが5~7時の頃だというお盆に参る和尚さんの悟りのような境地で、鍋穴が掃き始めたそのときだった。鍋穴の額を一瞬、何かが掠めた。なんだっ! と少し腹立たしく感じながら鍋穴が手で拭い取ると、ただの蜘蛛の巣の糸だった。そのとき、鍋穴は妙だなあ…と思った。毎朝、この時間帯に掃除をしている鍋穴だったが、こんなことは初めてだったからだ。だいたい、表玄関の入口は蜘蛛が巣を張る場ではない。怪しい…と首を傾げながら、ふたたび鍋穴は掃き始めた。すると今度は、頭頂部を掠めてミ、ミ~ン! と蝉が飛び去った。蝉だとは、その一瞬の鳴き声で分かった。どうも、よく掠めるなあ…と思いながら鍋穴は掃除を終え、外の洗い場で手を洗おうと蛇口を捻ったとき、雨蛙がピョン! と跳んで、腕を掠めた。度々(たびたび)、掠められ、なんなんだっ! と少し鍋穴は怖くなった。外に出ることを妨害しよう…というのか? なぜなんだ? と鍋穴は思った。
その日の朝、家の前の道路で大事故が発生したのを鍋穴が知ったのは、昼が過ぎた頃だった。
「なんでも、何人かお亡くなりになったようですよ…」
事情を知るご近所の水漏が鍋穴に言った。
「そうでしたか…」
鍋穴は、虫が掠めた意味を知った。
完




