29]湯がく
暑い夏は素麺を熱湯で湯がいて氷水なんかで冷やし、少し濃いめの麺つゆに生姜、刻み葱なんかを入れ、スルスル…と啜り食う・・これに限るな…と生屑は思った。思いたったら歯止めが効かないのが生屑の性格だ。国防軍事力などの多人数規模の意思ならともかく、生屑の場合は一人である。いつでも湯がける日はある訳だったが、彼は今をおいて他にない! とばかりに、熱湯で素麺を湯がき始めた。今、湯がくという行為に拘った訳である。
水が熱湯になり、その熱湯が泡だって沸騰すると、生屑は火を弱めた。そして徐に、準備しておいた素麺をパラパラ…と熱湯の中へ回し入れた。素麺の細い棒はグニャリ・・と曲がりながら熱湯の中へと沈んでいった。生屑は長箸の先で素麺を掻き混ぜながら、湯がき具合を推し量るかのように鍋の中をジィ~~っと見つめた。すると突然、不思議なことが起こった。キッチンに立つ生屑の周囲が俄かに漆黒の闇に閉ざされたのである。だが、沸騰する鍋だけは妙なことに鮮明に見えた。そして、鍋の中で苦しみもがく何人もの亡者の姿を生屑は見たのである。
「ギャ~~~!」
生屑は絶叫して意識が途絶えた。
「どうしたのよ?」
肩を揺り動かされ、生屑は目覚めた。テーブルに突っ伏した身体を起こすと、妻の富江が訝しげに生屑を見ていた。
「お鍋が沸騰していたから、火、止めたわよ…」
「ああ…」
素麺は、まだ湯がかれず、鍋の横にあった。
完




