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19]濡れ仙人

 今から何年か前の暑い夏の話である。私は村伝いの帰り道を歩いていた。あたりは鬱蒼うっそうと茂る樹林帯である。蝉しぐれがやかましいほど耳に聞こえた。身体をやさず家を出たのがわざわいしてか、汗びっしょりだった。当然、タオルと水が入ったペットボトルは持参していたが、すでにタオルはビショビショで、水は半分以上、減っていた。まあ、愚痴を言っても仕方がない…と、私は無言で歩き続けていた。そして、少し休もうと歩みを止め、道伝いにあった窪地くぼちの草の上へ腰を下ろした。そのときだった。

『あの、もうし…』

 遠慮ぎみに私へ語りかける誰かの小声がした。私は、誰だろう? とあたりを見回した。だが、誰の姿もなく、私は気のせいだろう…と腰を上げた。そして、数歩歩きだしたときだった。

『あの…もうし…』

 今度は、やや大きめの声が私の耳にはっきりと聞こえた。声は私の背後でしているようだった。振り向くと、数m先の道に、一人の白衣しろぎぬの着物をまとった仙人風の老人が、びっしょりと濡れそぼり、杖をついて立っていた。

「はい…なにか?」

 私は恐る恐る返事をしていた。

『申し訳なき話じゃが、なにか着がえは持っておられぬかのう?』

「いえ…あいにく」

 私は無意識でそう返していた。

『さようか…ならば仕方がない。手間をかけ申した。お行きめされよ』

 冷たく響くその声は、この世の者とは思えず、私は軽くその老人に一礼すると、そそくさとその場を立ち去った。十数歩歩いたところで、私にこの老人は? という妙な好奇心が起こり、ふたたび振り向いていた。そのとき、老人の姿は忽然こつぜんと消えていた。今までこんな出来事に遭遇そうぐうしたことがなかったから、私は平常心を失ってしまった。気味悪くなり、早足で五分ばかり歩いた。そして、ようやく樹林帯を抜けようとしたとき、先ほどの老人が今度は前方に立っているのが見えた。私は思わずギクッ! と驚いた。私より先回りした老人・・まさに仙人だっ! と私は瞬間、思った。というのも、樹林帯の一本道に脇道はなく、私の前へ出られることは、まず不可能だったからである。私はふるえながらも歩を止めず、少しずつ老人へと近づいていった。そして、目と鼻の先まで近づいたとき、老人の冷たく響く声が、ふたたびした。

『このお近くの方ならば、ご自宅にお寄りしてもよろしゅうござろうか?』

「えっ? あ、はい…」

 確かに私の家は樹林帯を抜け出ると、すぐそこにあった。断る理由が見つからなかった。私は思わずうなずいていた。私が歩き始めると、老人は消えることなくついてきた。

 のちになって分かったことだが、その老人は、やはり仙人だった。だが、仙人というには余りにドジという他はない粗忽そこつな仙人だった。雲間くもまから足をすべらせ、樹林帯にある池へ落ちたのだと言った。濡れぎぬは移動が自在に出来ても、天上にはもどれないのだと、私は仙人から初めて聞かされた。人の世界は濡れ衣を着て苦労する者が多いんですよと言うと、濡れ仙人は、『ほほほ…そうじゃろう』と笑った。そんなうそのような本当の話が、今から何年か前の暑い夏にあった。  


                   完

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