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「そういえば、悠にもう言ったかしら?」
「…んー?」
私の楽しみである、マロンとのごろごろタイムを堪能していると、いつもより機嫌のよさそうな母が話し掛けてきた。
「申し訳ないが…母上、その話は10分後に聞かせてもらおう」
私は寝転がったまま、顔だけを母の方を向けて言った。
「…今は貴重な癒しの時間だからな」
この時間だけは誰にも邪魔をしてほしくない。それはもちろん家族だって例外ではないのだ。
服従のポーズのように仰向けに寝転がっているマロンは非常に可愛い。私はそんなマロンの横に寝転び、ふかふかと柔らかいお腹の毛を撫でる。
「ふふっ…」
この無防備な格好と気持ちよさそうに目を細めるところが堪らないのだ。
「なにが母上よ。ふざけてばっかりいないで、今聞きなさい。ほら起きて」
私が一心不乱にマロンと戯れていると、急にお尻に衝撃が走った。
「うっ…地味に痛い…」
衝撃の理由は、怒った母にお尻を蹴られたからのようだ。私を叩き起こしてでも、今すぐに話を聞かせたいらしい。なんて乱暴な人間なんだ。
「はあ、仕方ないわね…」
お尻の痛みに悶え、なかなか起き上がらない私を見て、母は最終手段に出た。
「マローン!おやつあげるからいらっしゃい」
母は素直に言うことを聞くマロンに目を付け、マロンを餌で釣り、私をマロンで釣る作戦のようだ。我が母ながら侮れない。
「おいで、マロン」
「わふっ」
マロンは簡単におやつに釣られ、体をひょいっと起こすと、母のもとへ行ってしまった。
「マロン…私は悲しい」
尻尾を振って離れていくマロンを見つめ、ごろごろタイムを諦めた私はやっと起き上がった。そして、おやつに負けたことを悲しみながらも、母の話を聞くために椅子に腰掛けた。
「それで話とは?」
「そうそう。間宮さん家の裕紀くん、覚えてるでしょ?」
「裕紀くん…確かに覚えてはいるが…」
「その裕紀くんがね、この間からこっちに帰ってきてるのよ。夏休みにはまだ少し早いけど、もう就職先も決まって、大学も暇らしくてね」
「ふむ…」
私はマロンの頭を撫でながら、母の話を聞いている振りをする。
「昨日わざわざお土産を持って、家に挨拶に来てくれたのよ?相変わらず、男前でお母さん見惚れちゃったわ」
母の機嫌がよさそうだったのは、気のせいではなかったようだ。
母は昔から彼のことをとても気に入っていた。家の兄と交換してほしいぐらいだと、本気とも思える冗談をよく言っていた。
「…それで?」
「その時に裕紀くんに悠はいないのかって聞かれたんだけど、まだ帰ってないことを伝えたらすごく残念そうでね。今度、悠のほうから会いに行ってあげたらどうかしら?きっと裕紀くん、喜ぶわよ」
母はそう言ってにこにこと笑う。
きっと純粋にそう思っていて悪気もないのだろう。しかし私は正直、彼に会いたいとは思わない。
「挨拶に来たついでに聞いただけだと思う」
「そんなことないわよ。悠と裕紀くん、昔は仲良かったじゃない」
「そうか…?」
「まあ、惚けちゃってー」
確かにそうだったかもしれない。
けれどそれは昔の話だ。彼が県外の大学に行くと聞いた時、私はなぜかほっとしたのだ。
ああ、これで怯えなくて済むのだと。
私には彼の優しそうな瞳が時折、獲物を狙うような鋭い瞳に見えていた。そしてその瞳は、ただじっと私を見つめてくるのだ。
その突き刺すような熱っぽい視線に、私は気付かない振りをした。決して目を合わせることもしなかった。
「私よりも兄に会いたいだろう。裕紀くんとは同級生だったんだから」
「冷たいわね、あんたって子は」
「私は動物以外には基本的に無関心だからな」
「ああ、それもそうだったわね」
私の反応に呆れ気味で笑っている母を残し、私はマロンを連れてリビングを出ると、自分の部屋へと向かった。
「ふぅ…」
なんだか疲れてしまったな。マロンとの癒しタイムがいつもより、少なかったせいだろうか。
私がベッドに横になると、マロンがすかさずベッドに上がってきた。さっきは簡単におやつに釣られて、私から離れていってしまったのに、現金なものだ。
私の横に満足気に寝転んでいるマロンを見て、思わず笑ってしまう。
そして、私は母との会話のことを思い出した。
母は彼を男前で誠実な青年だと評価し、とても好意的に思っている。だから彼が久しぶりに帰ってきたことも、素直に嬉しかったのだろう。
しかし、私はいつからか彼のことを苦手に思うようになってしまったのだ。
彼と2人でいることはもちろん、兄や姉など他の誰かが一緒にいても、苦手だという気持ちは消えなかった。
それを誰かに言ったことはない。なぜかと理由を聞かれても、それに答えられなかったからだ。
彼は私にとても優しくしてくれ、何か非があったわけでもない。そして、社交的でもあったため、周りからの評判もよく、余計に彼を嫌う理由が見付からなかった。
けれど、彼の私を見つめる目が恐ろしかったのだ。それは言い様もない漠然とした恐怖だった。
……いつか私は彼に傷付けられるのではないか。
いや、私だけではない。私の周りの人、私の大切なものにまで、それが及ぶのではないかという不安を感じていた。
だから私は、少しずつ彼と距離を置くことにした。家族に不審がられないよう、注意を払いながらも、私はできる限り彼を避けた。
そうしているうちに、彼は高校を卒業し、大学の進学と共に家を出て行ったのだ。
彼が去っていったことで、私は自分が感じた恐怖は、ただの勘違いだったのだろうと思うようになった。
しかし、再び彼に会うことで、またあの恐怖を感じるのではないか。勘違いだったと忘れたはずのものが、本当は勘違いではなかったのではないか。私はそんな風に考えてしまって仕方ないのだ。
「しかし、なぜ今頃に帰ってきたのだろう…」
私が気になっている理由にはそれもある。大学に進んでから、私が知っている限りでは、今まで帰ってきた様子はなかった。少なくとも私の家に挨拶に来たことは過去にない。
彼が突然帰ってきたという事実に、私はただ困惑するしかなかった。
「まあ、何が起きたというわけではないからな。あまり気にしていても仕方がないか」
私はこれ以上深く考えてしまわないためにも、いつもより早く眠りについた。
私を見つめる熱い視線も、私が感じた得たいの知れない恐怖も、全てが私の気のせいであればいい、そう思いながら……。