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「…葉山さん」
「ん…?」
長かった授業も終わり、帰る支度をしていると、不意に後ろから声をかけられた。
「少し時間いいかな?話したいことがあるんだ」
振り返った私にそう尋ねるのは、クラスメイトの榊原くんだった。
「あー…」
私もそこまで鈍感ではない。これでも何度か告白されるという貴重な体験をしている人間だ。
世の中には不思議なことがたくさん溢れているからな。私のような者が告白されるというのも恐らくそのせいだろう。
だから、彼の話したいということが、その手のものであることはなんとなく予想がつく。
しかし、いくら予想がつくと言っても、話を聞くことすら断るのは難しいのだ。
「…わかった」
「よかった。じゃあついてきてもらえるかな?」
「ああ…」
彼の後ろをついて行き、辿り着いたのは、美術室だった。今日は部活動が行われていないため、誰もいない教室はとても静かだ。
早く教室に戻らなければ、史狼が迎えに来てしまう。申し訳ないが、手短に済ませてもらおう。
「それで話とは何だろうか?」
私はさっそく話を切り出してもらうため、そう聞いた。
「…うん。もう気づいてるかもしれないんだけど、葉山さんのことが好きなんだ。よければ付き合ってほしいと思ってる」
やはり予想した通りの話であった。気持ちはありがたいが、それに対する返事は決まっている。
「申し訳ないが……」
「あ、待って!返事の前に聞きたいことがあるんだ。葉山さんは藤城のことをどう思ってる…?」
彼は私のとても簡潔で、しかし、明確な理由の台詞を遮り、そう尋ねてきた。
史狼をどう思っているか?
それはもちろん、撫で回したくなるほど可愛いと思っているし、少しのわがままならつい許してしまう程度には大切だ。
しかし、なぜそんなことを聞いてくるんだろうか?
疑問に思っていることが、私の表情から読み取れたのか、彼は続けて言った。
「葉山さんが藤城をその…飼ってるとかいう噂を聞いたんだ。俺にはそれがどういうことなのかわからなくて……」
ふむ…。確かに最初は私も意味がわからなかったな。
しかし、今はわかってもらえなくても構わないというのが正直な気持ちだ。史狼は私に飼ってもらいたくて、私も史狼を飼ってあげたい。お互いがそう思っているのだから、理解されなくても問題はない。
「…2人の関係を追及したいわけじゃない。葉山さんの気持ちを知りたいんだ。葉山さんはあいつのことをどう思ってるの?」
むっ…どう思っているかと聞かれてもな。私は史狼の飼い主だ。だからもちろん一緒にいる。そして、史狼を大切に思っている。
史狼の存在は、着実に私の中で大きくなっている。いつも当たり前のように一緒にいる史狼が、いなくなることなど考えたことはない。
「史狼は…とても大切だ。どうして大切なのか、考えたことはない。しかし、私は飼うと決めた時に思ったんだ」
私はあの時のことを思い出す。
きっと誰でもよかったわけではない。私はあの時、あの瞬間、感じてしまったのだ。
瞳の奥に寂しさを隠している彼を、ただ…私の手で……
「…幸せにしたい、そう思ったんだ」
史狼をどう思っているかと聞かれ、私に答えられるのはそれだけだ。好きとか嫌いとか、そういう感情はよくわからない。
けれど、それだけは確かなのだ。
自分の中で納得の行く答えを得られた嬉しさに、私は思わず、ふっ…と笑ってしまう。
「……っ!」
そんな私を、彼は少し驚いたように見つめた。
「なんか…それって……」
「……?」
そしてどこか悔しそうな表情で口を開いた。
「ただ好きっていうより、たち悪いよ…」
「ん…?そうなのか?」
「そうだよ。所詮、人間なんて自分勝手な生き物だから…。なんとも思ってないやつを、幸せにしたいなんて思わない」
「ふむ…」
よく意味がわかっていない私の様子に、彼は深い溜め息をついた。
「振られることがわかってるから、返事は遠慮しとく」
「そ、そうか」
「うん。あ、話を聞かせてもらったお礼に、1つだけ忠告してあげる」
彼はそう言って、少しだけ意地悪そうに笑った。
「幸せにしたいと思う相手は、きっと心が無意識に求めている人だよ。その人のために何かをしたいって気持ちこそ、その人を好きだって証拠だと思う」
彼の言っていることを理解するのに、少し時間がかかった。
「…好き?私は史狼のことが…好きだということなのか…?」
「そういうこと。実際、俺も葉山さんのことが好きだから、そう思ってた」
「……」
それが、ただ犬のようで可愛くて好きなのとは、違うということだろう。
彼が私を好きな気持ちと同じで、私も史狼のことをその…そういう意味で好きということなのか?
「……っ」
その意味を理解した瞬間、私の顔は、ぽっと赤くなってしまった。
あまりにも明らかな私の変化を見て、彼は一瞬だけ悲しそうな顔をしたが、それを誤魔化すように笑った。
「まあ、だから…そういう相手がいるなら、しっかり捕まえとかないと。逃げられても知らないよ?」
「……!」
逃げられるという言葉に、私はマロンが家から逃げ、ずっと探し回った時のことを思い出した。
あんな思いはもうしたくない。その相手が史狼だとしても同じことだ。
何とかしなければ…と考えていると、突然ドタドタと大きな足跡が聞こえてきた。
「……?」
その足音は、私たちのいる美術室の前で急に止まったかと思うと、今度は勢いよく扉が開かれた。
「残念だけど、時間切れみたいだ…」
彼は驚いた様子もなく、苦笑すると、扉の方に視線を向けた。
彼につられるようにして、私も後ろを振り返ろうとした瞬間……
「わあ…!」
後ろから伸びてきた腕に腰を抱き寄せられ、私の体は暖かいものに包み込まれた。
お腹に回された逞しい腕、背中から伝わる温もり、抱き締める力強さ。それはよく身に覚えがあるものだった。
「…びっくりするだろう、史狼」
私の体を包み込む正体は、大きくて可愛い史狼だった。
荒い息が首筋にかかり、どれだけ急いで駆け付けてくれたのかがわかる。
「悠…」
「なんだ?」
「どうして教室にいねぇんだ。めちゃくちゃ探したっつーの…」
いつもと少し口調の違う史狼に、私は思わず笑みをもらした。
史狼は気づいていないが、焦った時や照れている時、普段の話し方に戻っているのだ。
それが本当の話し方なのだから仕方ないのに、ガキみたいだと思われたくないようで、なるべく気をつけているそうだ。
「そうか…。心配をかけて悪かったな、史狼 」
史狼は無言で抱き締める腕にさらに力を込めた。
それが史狼の気にしていないという気持ちの表れのようで、私もそれに応えるように史狼の腕をぽんぽんと叩いた。