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「今日もいい子にしてるんだぞ?」
「わふっ」
「…よし」
愛犬のマロンが肯定するように鳴いたのを確認すると、私は部屋を出て玄関へと向かう。
「…じゃあ行ってきます」
お見送りをしてくれるマロンに向かって、いつものように挨拶をする。
私が玄関の扉を開けると、マロンの「くーん…」と悲しそうな鳴き声が聞こえたが、心を鬼にしてそのまま外に出た。
「うっ…すまない」
何度経験しようともこれには慣れない。
学校に行くためとはいえ、マロンのあの鳴き声は私にとってあまりにも辛いのだ!
両親や兄弟はそんな私の様子に、またか…と呆れ気味だが仕方ないだろう。
「今日も早く帰らなければ……」
そんな決意をして家を出た私の前には、きりっと鋭いはずの目を柔らかく細めた史狼がいた。
「…悠、おはよう」
史狼は家の前で、忠犬のように私が出てくるのを待っていた。
「おはよう、史狼。待たせてしまって悪いな」
私が史狼の飼い主になってから、毎朝一緒に登校するようになった。
史狼はわざわざ迎えに来てくれ、主人としてはなんだか申し訳ない。学校で待てをさせたいとも考えたのだが、なかなか上手くいかない。
さらに「これは大事な朝の散歩だ」と言い張り、絶対に引いてくれないのだ。ペットに負担をかけてしまうなんて、飼い主として不甲斐ない。
やはり厳しく言い聞かせなければ、史狼のためにもよくないと、少しばかりきつく言ってもみた。すると、寂しそうな顔で「散歩してくれないのか?俺は楽しみにしてたのに…」と言われしまう。
その後は想像の通りだと思うが、そんな顔を見てしまえばそれ以上、私は何も言えなくなってしまうのだ。
史狼は的確に私の弱点を突いてくる。なんとなく主導権を握られているように感じるのは気のせいだろうか?
史狼は私といる時は、不思議といつも上機嫌だ。
「…史狼」
「なんだ?」
「散歩は楽しいか?」
「ああ、楽しいに決まってるだろ?」
「そうか…」
学校に行く道のため、散歩コースはいつも同じになってしまう。飽きたり、つまらなくなってしまってはいけないと思うのだが、史狼に不満そうな様子は見られない。
「…俺は悠と一緒にいられるだけで楽しいからな」
史狼はそう言って、私と繋いでいる手を一度ちらっと見てから、とても満足そうに微笑んだ。
「……」
その笑顔が本当に幸せそうで、私はなんとも言えない気持ちになった。
私は、史狼に飼ってほしいと言われた時のことを思い出す。きっとあの時、史狼は何かを求めていたはずだ。
しかし、それがなんであったのか、私には今もわからない。
なあ…史狼、私は上手くやれているか?飼い主になることで、史狼の求めていた何かを、私は満たしてあげられているか?
私は声にならない疑問を抱きながら、リード代わりに繋がれた手をただ見つめた。
学校に着いて史狼とわかれた後、私は自分の教室へ向かう。
「はるちゃん…!」
そんな私を出迎えてくれたのは、ふわふわの茶色い髪を揺らして駆け寄る友人だった。
「ちょっと!はるちゃん!!一体いつまであいつと一緒にいるわけ!?」
不機嫌そうな顔で私を問いつめるのは、中学生の頃からの友人である芹沢 櫻だ。
「いつまでという期限はないぞ…?飼うと決めたのは私だからな。途中で放り出すなど、言語道断だ」
「は、はるちゃん!それじゃあずーとあいつといるってこと!?そんなの私は反対!絶対だめ!!」
平均より身長の低い私だが、それよりももっと小さい櫻は、飛び跳ねんばかりの勢いで、私に突っ掛かってくる。
その姿はもはや、きゃんきゃんと暴れまわる子犬にしか見えない。
史狼がスリムで利口なドーベルマンなら、櫻は愛らしく活発なポメラニアンだな。
「まあ、落ち着くんだ」
ひとしきりそんな櫻の様子を堪能した私は、宥めるようにやっと声をかけた。
「落ち着けるわけないでしょ、はるちゃんのバカ!あんな狂犬飼っちゃうなんて!!」
「史狼は狂犬なんかではないぞ?確かに少しばかりやんちゃではあるが、可愛いものだ」
「な、何であいつを庇うのよ…!はるちゃんを心配して言ってるのに!!」
櫻が心配するようなことは何もないのだが、史狼と一緒に登校してからというもの、櫻はなぜか不満そうだ 。
「はるちゃんのバカ!バカ!バカ!バカー!!」
バカをこうも連呼されるとは……。滅多に経験しないことだと思っていたが、現実は厳しいようだな。
「ふぅ…」
私は思わず溜め息をついてしまう。
確かに怒って文句を言う櫻は非常に可愛いが、その忠告を聞き入れるつもりはないので、対応に困ってしまう。
「…櫻」
「なによ」
櫻は恨めしそうな目で私を見上げてくる。
「私が史狼を飼ったからといって、櫻との関係が変わるわけではないだろう?私にとって櫻は大切な友人だ。だからこそ、櫻には史狼のことも認めてほしいと思っている」
そして、ゆくゆくは2人にも仲良くなってもらおう。そうすれば、ポメラニアンとドーベルマンが戯れる、なんとも堪らない光景を見ることができるからな!
櫻は「うっ…」と言葉につまったようだが、すぐに気を取り直すと、「はるちゃんの卑怯者…!」と叫んで教室を飛び出してどこかに行ってしまった。
まあ、これは櫻の癖のようなもので、よくあることだ。私が止める間もなく、走り去ってしまう。
自慢ではないが私は足が遅い。無謀な追いかけっこはしない主義だ。よって、期待している櫻には悪いが、遊んであげることはできないのだ。すまない。
「あの2人またやってるよー」
「よく飽きないね…」
「本当に。櫻も諦めればいいのに」
「だよねー。悠に簡単に言いくるめられちゃうんだから」
他の友人たちがそんな会話をしていることも知らず、私は目線の遠くにいる櫻の背に向かって、小さく手を振った。