最も自然なプロローグ
幸福だった、誰よりも。
これまで自分が息をしていることさえ、体を動かし、命というものを実践していることさえ忘れていた。それほど幸せだった。この世界で最も幸福な生き物のひとつだった。
それほど愛されていたんだ。何からも。六角形の部屋の中で常にまどろんでいた。そのゆりかごに包まれ、ひたすら愛を受け取り育っていた。そこには悩みも苦しみもなく、ただ世界というものを享受しつづける、ただひたすらな生があった。
だけどおれは――――
おれは、おれという自分自身を見つけた時、あのゆりかごからに出たんだ。だけど仕方ない。いや仕方ないというより、これこそ自然で幸せな姿なんだろう。誰かから糧をもらい、ただまどろみの中だけで過ごすなんてなんて現実味がなく、なんて不自然な形だろうか。それこそ誰かがいなければ成り立たない、夢だ。
なんて感慨にふけっていると、声をかけられた。
「やぁ、少年。どうしたメイドの尻を舐めまわすように視姦して。もよおしたかい?」
「時期を考えろ。今は発情期じゃない。」
「いやなにキミが万年発情する進化をしたのかと思ってね。そういうの大歓迎だからさ。」
こちらがため息ばかりつかされるこのやりとりも、ややマンネリ気味でだいたいおれが黙って終わる。
こいつがいなければ今のおれがいないのはわかりきったことだが、正直ウマが合うとは思えない。
「八郎くんも暇でしょ、当たり前だけどさ。ならまた散策に行こうよ。キミにはまだ知的欲求というものが乏しいと思うんだよね。それを目覚めさせたいしさ、僕みたいに。」
お前みたいになるのはごめんだ。そう答えたが、散策自体には賛成だった。これがおれたちの日課だ。今までこいつが言う、面白いとか考えさせられるとかいう感慨にふけることもあまりないが、他にすることもないので慣性で続けられてきた習慣だ。
もうしばらくになるか。こいつとの活動も。それはつまり、おれがおれとしての活動を始めたともいいかえられる時だ。
ミツバチのオスは、やることがない。働きバチと呼ばれるメイドは忙しく、中に外に動きまわるが、あれは全部メスだ。オスはただ巣の中でだらだらと過ごし、腹が減れば働きバチにミツをもらい、そして寝る。
そうおれたちは、やることを何も定められないまま、ただ生きるためだけに生まれてきた。
おれも生まれてから何も疑問を持たず、何をかんがえることもなく生活していた。けれでもある日気まぐれで巣の散歩をしているとき、奇妙な場面に出くわした。
オスとメスにはぱっと見で違いがある。オスはメスに比べて体が少し太く、目がでかい。その時そいつは明らかにオスなのに、ミツを持って働いていたのだ。
これはミツバチの習性なのだが、働きバチが外からミツを持て来ると、巣の中にいる貯蔵係に渡す。その際貯蔵係は持ってこられた膨大なミツのうち、糖度の高い甘いものから順に受け取っていき、糖度の低いミツを持ってきてしまった者は待たされる。そうして質の高いミツを効率的に貯蔵していく。いいシステムではあるが、この待たされているハチの中にそのオスはいたのだ。
今でも思う。なぜ声をかけてしまったのかと。何をやっているのだとそのオカマ野郎に声をかけると、そいつは大げさに驚き、そして感心したような顔つきになり、最後にはおれをほめたたえ始めた。
「いや、すごいよキミ。なに、疑問に思っちゃった? こいつおかしいぞって。素晴らしいよ! 奇跡だね! まさかこんなことになるなんてね。あるんだねこんなこと。」
おれは当然のことながらあっけにとられた。特にこのときのおれは完全温室育ちの世間しらずで、巣の中のやつともろくにコミュニケーションしたこともなかった。これは当然、やることもなくただ生きているだけのおれたちは考えたり動いたり、何か活動するということ自体がない。むしろ活発な性質にはならないよう進化してきたのかもしれない。
しばらくおれを褒め称えた後、ようやくおれが置いて行かれていることに気づいたらしく、おれに語り始めた。こいつ独特の長ったらしい話を要約すると、普通の他のオスバチたちは部屋からでることもめったにないし、たとえ出てきたとしてもオスバチが働いている状況をみても何も思わない。ただ漫然と状況を受け入れ続けるように出来ているかららしい。だからこそおれは特殊で特別な存在だという。
「キミには名前を付けてあげないとね。あ、ごめん、自己紹介がまだだったね。僕は蜂来ハジメっていうんだ。もちろん自分で勝手につけた名前だけどね。誰もそんなのつけてくれないからさ。へ? 名前、しらない?」
おれはしらなかった、というか名前なんて習慣がおれたちにあるわけがない。あとで聞けばこいつだって人間からその概念を拝借してきただけだ。そこからはまた蜂来の名前についての講釈がはじまり、素直なおれは全部はいはいと聞いていたが、全く名前をつけるという意味を理解することはできなかった。
「ま、そうだね。言うだけより実践だよね、キミもそのうちわかるさ、名前をもつということの意味を。僕だって最初は半ば以上かっこつけでやってみたんだけど、これが思いのほかよくてね。そのときいくつか考えた名前のひとつをキミにあげるよ。」
そう言ってこいつはガリガリと巣を削り出した。そこには奇妙な跡が残った。文字だ、と蜂来は説明した。これは『ほうらいはじめ』と読むのだと言った。その下にまた文字を彫り始め、蜂谷八郎と彫った。そもそも文字とは何でどんな意味があるのか尋ねると、それにも奴は嬉々として講釈した。説明が好きらしい。
「そしてそう、キミの名前は蜂谷八郎くんに決定だ。ハチらしさが前面に出てていい名だ。それにここは日本だから、漢字もセットで覚えてくれたまえよ。」
誇らしげに語る奴を見ながら、おれはこの複雑な記号を覚えることはなかろうと確信していた。
それからというもの、おれの巣で寝るだけの生活が変わった。蜂来に連れまわされ、疲れるということを覚えた。さらに巣という集団の中で、名前で呼ばれ特別扱いを受けていくことで、おれに個というものが芽生えることになった。
何も考えることなく、ただ生をまっとうしていたあの時。還れるのなら間違いなく還りたいという気持ちがある。
だが意味を問おうとしたあの時、おれは変わった。おれは意味を考えるようになってしまった。おれの生きる意味を。おれの意味を。
もう戻ることはできない。
これから語るのは、自然でありたいと願う不自然な自然界の物語だ。