ナウマンゾウ
ある日、住宅街を歩いていると、妙な気配を曲がり角の向こうに感じた。大きな何かがいるような物音。静かだけど、圧力があるような雰囲気。そして、歩みを進めてみると、なんとそこにはゾウが一頭いたのだった。ゾウにしてはそれほど大きくはないが、それでもそれはなかなかの迫力で、更には毛が生えていた。温かそうな、毛がふさふさと。
そのゾウはなんだか、疲れているようで、その場に呆然と立ち尽くして動かなかった。僕は思わず目を合わせてしまったのだけど、その目は何かを恨むように、うつろに僕を覗き込んでいた。
僕はそのまま知らない振りをして通り過ぎようとしたのだけど、そのうつろな目の印象がどうしても振り払えなくて、思わず彼にこう話しかけてしまったのだった。
「そんな場所にいたら危ないよ」
もし車なんかが来たら、きっと彼が道を塞いでしまう。それだけで済めばまだ良いのだけど、もしかしたら、車と彼がぶつかってしまう可能性だってある。だから、何処か違う場所へ行った方が良いと、僕は彼に優しく忠告をしたつもりだったのだ。ところが、彼はそれを聞くと、怒り始めてしまった。
「じゃあ、一体僕は、何処に行けば良いっていうのですか?」
それは溜まりに溜まった憤懣が、吹き出し口を求めて吐き出されたような声だった。
「僕に行き場所になんて、何処にもないのです!」
彼は言いながら涙を溢していた。
尋常じゃない彼の様子に、僕は少し慌てたのだけど、どうやら暴れだすとか、僕を攻撃するだとかいった感じはなさそうだったので、僕は彼を宥めながらこう尋ねたのだ。
「ごめん。何か気を悪くさせてしまったようで。僕には君を傷つけるつもりなんてなかったんだよ。でも、僕は君の事情を知らないからさ。どうか何があったのか、君の事情を教えてくれないか?」
すると、彼は自分の身の上を話し始めたのだった。世にも悲しいナウマンゾウの、その半生の物語を。
ナウマンゾウは、元は人間だった。それがある朝に起きてみると、その身がナウマンゾウに変わっていたのだ。彼は困ったが、一応それでも登校した。その当時、彼は学生だったのだ。教室に入ると、奇異な目で見られた。当然だろう。「白い犬になったお父さんなら知っているが、人間がゾウになるなんて話はまるで聞いた事がない」。そんな台詞を、級友達から投げかけられる。彼の担任は新任の女性教師だったが、その彼女は「教師生活始まって以来の試練! これは私に対する挑戦ね。まさか、生徒がゾウになるなんて! なんとか、乗り越えてみせるわ!」などと息巻いていたが、数日後には諦めていた。
「やっぱり、学校を辞めた方が良いと思うの」
ナウマンゾウはゾウだから、当然勉強も困難だった。ノートも取れないし、教科書も異常に読み難い。しかも場所を取るし、その獣臭には苦情が殺到した。とてもじゃないが、学業が続けられるような状況ではなかったのだ。それで彼は、保護を受けようと役所に申請を出した。まずは、障害者年金の。しかしその申請は通らなかった。
「うつ病は、障害者として扱えますが、ナウマンゾウは扱えません。そんな法律はないのですよ」
それが役所の人間の言い分。それなら仕方がないと、ナウマンゾウは今度は生活保護を申請した。しかし、それも断られる。
「今は財政が厳しくてですね。そんなに簡単に、お金を支給する訳にはいきません。まずは、努力をしてください」
それでナウマンゾウは働き始めた。特別に役所に仕事を紹介してもらったのだ。しかし、これも上手くいかなかった。力仕事なら何とかなるだろうと、土木関係の仕事に就いたのだが、人間用の道具や仕様に、ゾウの彼が合うはずもなく、結局荷物運びくらいしかできなくて、早々に解雇されてしまったのだ。この世間は、ゾウに優しくはできていない。
それで彼は今度こそと思って、生活保護を申請したのだが、それでもそれは通らなかった。どうしてなのか、と食い下がると、役人は言い難そうにしながらこう言った。
「ゾウにお金は出ないのです」
その言葉を聞くと、ナウマンゾウはショックのあまり自失となった。そして、どうすれば良いのかも分からずに、こうして街を彷徨っていたのだ。
「僕に居場所はないのです」
ナウマンゾウは泣いていた。目から涙を溢しながら。
僕はそれを聞きながら、どうする事もできないでいた。僕に居場所はないのです。その言葉に、微かな共感を覚えながら、それでもそれをどうする事もできないでいた。僕も同じだなんて台詞は、このナウマンゾウには失礼過ぎるから、言えやしない。
でも、と少しだけその時僕は思っていた。遅かれ早かれ、多くの人が彼と同じになる未来を、僕は少しだけ予感してもいるのだけど。
――明日は、自分がナウマンゾウ。






