『無菌の聖女』~「その触媒は不純物だ」と婚約破棄されたので、私を排除した神殿ごと浄化魔法を止めて去ります。なお、疫病が戻っても苦情は受け付けません~
「フィオナ、お前との婚約を破棄する」
神殿の大聖堂。ステンドグラスから差し込む光の下で、婚約者であるはずの神殿騎士団長シリルは、そう高らかに宣言した。
純白と金の礼装。自信に満ちた美貌。その隣には、薔薇色の巻き髪を揺らす新しい『聖女候補』メリダが、勝ち誇った笑みを浮かべて寄り添っている。
(ああ、来たか)
私は淡々と受け止めた。栗色の髪をきっちり結い上げ、簡素な聖女装束の袖口を無意識に整える。この癖は、前世からずっと抜けない。
「……そうですか。理由を伺っても?」
「お前の浄化は古臭く陰気だ」
シリルは私を指さし、嘲るように続けた。
「メリダの浄化は華やかで香しい。花の香りと虹色の光で聖域を満たす。それに比べてお前の浄化はどうだ? 無味無臭で、ただ空気がひやりと澄むだけ。薬臭くて陰気な触媒はもう不要だ」
メリダが扇の陰で笑う。
「わたくしの浄化をご覧になって? 花の香りと虹色の光。聖域とはこうあるべきですのよ」
薬臭くて、陰気。
(無菌室で不純物なのは、どっちだか)
私は内心でだけ、そっとツッコミを入れた。
そう――誰も知らない。この世界の『浄化魔法』の正体を。私が発する魔力が、大気中に目に見えぬ微粒子を展開し、疫病の原因たる瘴気を分解・無害化していることを。
この『聖域』が、前世の記憶を持つ私が無意識に再現した、巨大な無菌室であることを。
前世の私は、現代日本の無菌製剤室で働く製薬技術者だった。過労で倒れ、目覚めたらこの少女に転生していた。だから私だけが分かる。この消毒された、ひやりと澄んだ空気の正体を。
懐かしい。この『無菌室の香り』が。
「そうだ」
壇上の神官長も同調した。白い髭を震わせ、私を見下ろす。
「お前は聖女ではなく、ただの不純物混じりの触媒に過ぎん。出ていけ」
静まり返った大聖堂に、くすくすという嘲笑が広がる。
私は静かに頷いた。
「わかりました。では、私は去ります」
喚くつもりも、縋るつもりもない。だって――説明したところで、この人たちには一生分からないのだから。
メリダが、つまらなそうに唇を尖らせた。
「あら、喚きもしませんの? つまらない方」
「喚いたところで、あなた方には一生わからないことですから」
私は大聖堂の扉に手をかけた。振り返る。
「……ただ、一つだけ」
ざわめきが少し収まる。私は淡々と続けた。
「私の浄化は『祈り』ではありません。原理があります。私が抜ければ、聖域の空気は元に戻ります。念のため、備えを」
一瞬の沈黙。
そして――
「はははっ! 原理だと?」
シリルが腹を抱えて笑った。
「聖女の力は神から授かった奇跡だ。理屈で語れるものか。お前はやはり陰気なだけの女だな」
メリダも口元を扇で隠し、くすくすと笑う。
「かわいそうに。負け惜しみですわね」
(負け惜しみ、ね)
私は肩をすくめた。忠告はした。聞かないのは、彼らの自由だ。
無菌室の管理を三年やって学んだことがある。原理を理解しない人間に、いくら口で説明しても無駄なのだ。彼らが本当に理解するのは、いつだって『事故が起きた後』だけ。
「忠告はしました。聞かないのは、あなた方の自由です。……では、失礼します」
私は一礼し、大聖堂を後にした。背中に嘲笑を浴びながら、それでも足取りは軽かった。
むしろ――清々しかった。
(もう、崇められなくて済む。清々しいくらいだわ)
聖女、聖女と持ち上げられ、意味も分からず祈らされ、着飾らされ、婚約者を宛がわれ。全部、息苦しかった。
私はただ、正しく人を救える場所で生きたいだけなのに。
神殿の門を出る。振り返らない。
目指すは辺境。噂に聞く、疫病で寂れた療養村。
魔法に頼らず、私の知識が本当に人を救えるのか――試すには、ちょうどいい場所だった。
◆
辺境の療養村は、想像以上に酷い有様だった。
濁った井戸水。よどんだ空気。傷口を放置した患者。ハエのたかる炊事場。
(まず、ここからか)
私は袖をまくった。
「テオさん、と仰いましたね。この村で唯一の医者だと」
白い髭の小柄な老人が、訝しげに私を見た。療養村で五十年、薬草と経験だけで戦ってきた男だという。
「あんたに何ができる。聖女様が抜けたと噂の神殿からも見放された、この辺境だぞ」
「魔法は使いません。三つだけ、お願いがあります」
私は指を立てた。
「一、井戸の水は必ず煮沸してから使うこと。二、病人の部屋は一日三度換気すること。三、傷の手当ての前後は、煮沸した布で手を清めること」
テオ老医師は目を丸くした。
「それだけで……病が減ると?」
「減ります。原因は、目に見えない小さな『汚れ』です。それを口や傷から体に入れない。それが全てです」
半信半疑の村人たちを、私は根気強く指導した。水を煮る温度、煮る時間、布の干し方、便所の位置。地味な作業の連続だ。
だが十日後――村の死者はゼロになった。
新たな発症者も、ぱたりと止まった。
「先生……」
テオ老医師が、震える声で私の前に膝をついた。
「わしは五十年、原因も分からず祈るしかなかった……あんたは、なぜ病が起きるかを知っておる。弟子にしてくれ! この老いぼれを、あんたの弟子に!」
「頭を上げてください。崇められるのは、苦手なんです」
そう言った、その時だった。
村の入口に、巨大な影が立った。
身の丈六尺半を超える巨躯。首筋から覗く鱗状の痣。わずかに縦に裂けた瞳孔。
竜血の辺境伯、オルグレン・ヴァルド。この地を治める『竜血の猛将』だ。
村人たちが震え上がる中、その強面の男は――なぜか、羊皮紙と羽ペンを握りしめていた。
「フィオナ殿、と言ったか」
低い声。だが、その瞳には奇妙な熱があった。
「疫病の止まぬこの領で、ただ一つ病の消えた村があると聞いた。魔法ではないと。……原理を、聞かせてもらえるか」
強面の巨漢が、大きな体を丸めて羽ペンを構える。
(……メモを、取る気だ。この強面が)
この世界で初めて、私の話を『信仰』ではなく『技術』として聞こうとする人間が、目の前に現れた。
◆
オルグレンは、恐ろしく熱心な生徒だった。
「その煮沸の温度と時間、もう一度」
巨大な体を折り曲げ、羊皮紙にびっしりと文字を書き込んでいく。強面のくせに、字は驚くほど几帳面だった。
「沸騰させてから、そのまま数える間、火を落とさない。中途半端では意味がありません」
「換気は一日三度と言ったな。だが冬場、この地は雪深い。窓を開ければ病人が凍える。どうする」
「良い質問です」
私は少し、目を見張った。この世界の人間で、そこまで具体的に考える者は稀だ。
「部屋を二つ用意し、片方を換気する間、病人をもう片方へ移す。火桶で温めれば冷えも防げます」
「なるほど。では傷の手当てだが――」
質問は、日が暮れるまで続いた。
(……疲れない。むしろ、心地いい。これがしたかったんだ、私は)
前世でも、こうだった。優秀な同僚と、原理を突き詰める議論。答えのある問いを、正しく積み上げていく感覚。
やがて、村の井戸に新しい煮沸炉が完成した。オルグレンが自ら領の職人を呼び、設計図まで引いて作らせたものだ。
最初の湯が沸いた時――
その強面の辺境伯は、ふっと口の端を上げた。
子供のような、無防備な笑みだった。
「……成功、だな。フィオナ殿」
(うわ。笑うとそんな顔をするのか。ギャップが凄い)
私は思わず、視線を逸らした。
「オルグレン様。一つ、伺っても?」
「なんだ」
「なぜあなたは、私を『聖女』と呼ばないのですか。この地の者は皆、私を拝みたがるのに」
オルグレンは、羊皮紙から顔を上げた。
「お前がやっているのは奇跡ではない。理屈だ」
迷いのない声だった。
「祈れば救われるなら、俺の領で死んだ者たちは祈りが足りなかったのか。違うだろう。原因があり、対策がある。お前はそれを教えてくれた。……それは崇めるものではない。学ぶものだ」
私は、しばらく言葉が出なかった。
聖女でも、触媒でもなく。
一人の技術者として、正しく評価される。
それが、こんなにも――胸の奥を、静かに温かくするなんて。
「……ありがとうございます」
私は、ぽつりと呟いた。
その頃、遠く王都では。
派手な香りと虹色の光を撒き散らすメリダの浄化のもとで、静かに、確実に――病人が、増え始めていた。
◆
神殿は、華やかだった。
メリダが両手を掲げるたび、大聖堂に薔薇の香りが満ち、虹色の光が舞う。
「ご覧ください! これこそ聖女の浄化ですわ!」
信徒たちが歓声を上げる。
「見事だ、メリダ。あの陰気な女を追い出して正解だったな」
シリルは満足げに頷いた。
だが。
異変は、地下から始まった。
まず、神殿に仕える下働きの少年が高熱を出した。次に、炊事場の女が倒れた。花の香りが焚かれる聖域の、その隅の暗がりで。
「下働きの少年が高熱を? ……気のせいだ。聖女様の浄化が満ちているのだぞ」
神官長は取り合わなかった。だってメリダの浄化は、あんなにも華やかで、香しいのだから。
しかし――誰も気づいていなかった。
メリダの浄化には、瘴気を分解する『聖粒』が、一切生成されていなかったことを。
彼女の魔力が生むのは、香りと光だけ。それは瘴気を消すのではなく、ただ強い匂いで『覆い隠して』いただけ。
鼻が匂いに慣れれば、瘴気の存在すら分からなくなる。むしろ人々は油断し、換気も消毒も忘れ――疫病は、水面下で静かに、爆発的に広がっていった。
フィオナが去って一月。
都に、疫病が再燃した。
路地に病人が溢れ、鐘が絶え間なく死者を告げる。神殿に助けを求める人々が殺到する。
「聖女様! お救いください!」
メリダは、震えていた。
「な、なぜですの……わたくしの浄化はこんなにも美しいのに、なぜ病が止まりませんの!?」
彼女は必死に香りを撒き、光を舞わせた。だが病は止まらない。当然だ。最初から、彼女は何も浄化していなかったのだから。
シリルの顔から、血の気が引いた。
(まさか……あの女の言った、『備えを』とは……いや、まさか。あんな陰気な触媒の言葉が)
だが、疫病は止まらない。神官が倒れ、騎士が倒れ、神殿そのものが機能を失っていく。
「辺境に、疫病がぴたりと止まった村があると……そこへ行く。馬を引け!」
彼は、その村を目指した。
そこで待つものが何か、まだ知りもせずに。
◆
馬を駆り、辺境の村にたどり着いたシリルは――足を止めた。
村に、病人がいない。
それどころか、人々は健やかに働き、子供が笑い、炊事場からは湯気が上がっている。
そして、風が運んできた。
ひやりと澄んだ、薬品めいた清潔な空気。
(この、香りは……神殿で毎日嗅いでいた、あの……消毒された、静かな空気……!)
忘れていたはずの匂い。
シリルの膝が、震えた。
村の中央。井戸のそばで、栗色の髪をきっちり結い上げた女が、煮沸炉の温度を確かめていた。
白衣めいた簡素な装束。清潔に整えられた袖口。
「フィオナ……!」
彼女は顔を上げた。表情は、変わらない。淡々と、静かに。
「シリル団長。ずいぶん、やつれましたね」
「なぜだ……!」シリルは崩れるように地に膝をついた。「お前の魔法もなしに、なぜここだけ、病が止まっている……!」
フィオナは、炉から手を離し、静かに歩み寄った。
「魔法じゃありません。手を洗い、水を煮て、空気を澄ませる。それだけです」
「そんな、そんなことで……」
「私の浄化も、最初からこれと同じ原理でした。目に見えない小さな守り手を、空に満たしていただけ。あなた方が『陰気』と嘲った、無味無臭の空気。あれこそが、本物の浄化だったんです」
シリルの目が、大きく見開かれた。
「では……メリダの浄化は……」
「香りと光で、瘴気を『隠して』いただけ。消してなどいなかった。むしろ人々を油断させ、病を蔓延させた。……派手な香りは、腐臭を覆い隠す香水と同じですよ」
全てが、繋がった。
『薬臭くて陰気な触媒』と嘲ったもの。それこそが、都を守っていた唯一の盾だった。失って、初めて分かった。
「頼む……戻ってくれ! 神殿へ、都へ! このままでは国が滅ぶ……!」
シリルは地に額をつけ、赦しを乞うた。
だがフィオナは、振り向かなかった。
「戻りません」
静かな声。怒鳴りも、詰りもしない。ただ、透き通るような凄みがあった。
「そんな……!」
「私を不純物と呼んだ神殿に、もう用はありません」
彼女は炉のほうへ、踵を返す。
「……疫病が戻っても、苦情は受け付けません」
風が、ひやりと澄んだ空気を運んだ。
シリルは、その場に崩れ落ちたまま、動けなかった。
◆
シリルが去った翌朝。
村に、一台の質素な馬車が到着した。
降りてきたのは、理知的な眼鏡をかけた女性。感情を排した、事務的な佇まい。手には分厚い報告書を抱えている。
「フィオナ・アシュレイ殿。王宮文官、リーゼルと申します。疫病被害の統計を、全領地分、精査いたしました」
「統計を」
「収束したのは、ただ一地域。この村と、その周辺。神殿の『浄化』が及んだ都市部ほど、被害は拡大しています。数字は、正直です」
(信仰でも噂でもなく、数字で真実にたどり着いたのか。……好感が持てる)
私は、彼女に少しだけ好感を持った。
「わたくしは、あなたの力を『奇跡』とは考えておりません。再現可能な、技術だと考えています。現にこの村では、あなた不在でも者たちが病を防いでいる。……祈りには、それはできません」
傍らで、テオ老医師が誇らしげに頷いた。
「その通りだ。わしらが、先生から教わった通りにな」
オルグレンも腕を組み、静かに耳を傾けている。
「フィオナ殿」
リーゼルは、深く頭を下げた。
「疫病は、もはや神殿の手に負えません。どうか――国全体の『浄化網』の設計を。水源の管理、換気の基準、消毒の徹底。それを国家規模で構築できるのは、あなたしかいません。あなたにしかできない仕事です」
国家規模の、衛生革命。
私は、しばし空を見上げた。
ひやりと澄んだ、無菌室の香り。前世で毎日吸っていた、あの清潔な空気。
この世界の人々は、それを『陰気』と呼び、『薬臭い』と嘲った。
でも――もし、この香りが。この世界の、当たり前になったなら。
(もう誰も、原因も分からず祈るしかなかった、と泣かなくて済む)
目に見えない小さな守り手が、王都の隅々まで、辺境の村の井戸まで満ちたなら。
「オルグレン様」
私は、隣の巨漢を見上げた。
「国中を歩き回る、地味で膨大な仕事になります。煮沸の温度を、何千回も説明することになる。……付き合っていただけますか」
オルグレンは、羊皮紙と羽ペンを掲げた。
そして、ふっと口の端を上げた。あの、子供のような無防備な笑みで。
「望むところだ。フィオナ殿。――その一回目、今すぐ聞かせてくれ」
私は、思わず笑ってしまった。転生してから、初めての、心からの笑みだった。
「ふふ。……リーゼル殿。お引き受けします」
私は袖口を整え、まっすぐ前を向いた。
崇められる聖女は、もういらない。
これからは、この世界を静かに救う――ただ一人の、技術者として。
あの澄んだ無菌室の香りを、この世界の当たり前にするために。




