序章 -みちる日常/転生-
長い序章きでごめんなさい(笑)
午前6時30分。
目覚まし時計が、三度目の情け容赦ないアラームを鳴り響かせた。
渡辺みちる、二十五歳。
彼女は片目だけをどうにか開け、自室の天井にあるうっすらとしたシミを見つめた。
「……あと五分」
自分のついた嘘を本気で信じているかのような、堂々としたドヤ顔の寝言を呟き、最悪な一日が幕を開けた。
五分後、彼女は洗面所にゾンビのように立っていた。
十分後、鏡の前でボサボサの髪と格闘していた。
午前六時三十分の渡辺みちるには、まだ微かな夢も、希望も、最低限の尊厳もあった。
しかし、六時四十三分には、そのすべてがインスタントコーヒーの苦味と、
「今日もまた満員電車で圧死しかける」という切実な現実へと綺麗に塗り替えられていた。
キッチンのテーブルに不格好に座り、パサパサの食パンを一切れかじりながらスマートフォンを確認する。
ブラウザを開いたみちるは、もはや宗教的な帰依に近い習慣と化している、あるお気に入りのサイトへアクセスした。
『魔戦の世界』。
彼女が人生の半分を捧げてもいいと本気で思っている、重厚長大(そして精神的にえぐられる)なファンタジーゲームについて語り合う、コアなファン向けの掲示板だ。
新しいスレッドがいくつか立っている。
みちるは半ば無意識に画面をスクロールしていたが、ある一文で親指がピタリと止まった。
『結局のところ、紫織ってそこまで魅力的なキャラじゃないよな。ただのツンデレの亜種だろ』
みちるはパンをかじるのをやめた。
もう一度読む。
一回。
二回。
三回。
「……は?」
喉から絞り出すような声が出た。
投稿を開く。
投稿者によれば、作中のヒロインの一人である牧野紫織は、あまりにも残酷かつ傲慢な指揮官であり、その人気はキャラクターの厚みよりも、ただビジュアルが良いというだけで支えられているにすぎないらしい。
おまけに恋愛ルートも似たような展開の繰り返しで、主人公との関係性も、頭の悪い原作者の妄想の産物にすぎないのだと、長々と書き連ねてあった。
みちるは最後まで画面をスクロールし、冷めたパンをそっと皿に戻した。
そして、肺の空気をすべて入れ替えるような、深くて重い溜息を吐き出す。
「……こいつ、まさか目ん玉と脳みそをどっかに置いて初見プレイしたの?」
怒りに任せて反論を打ち込む。
――『ふざけんな、彼女のバックボーンをどこまで読み込んでんだよ!』
消す。
――『お前のような浅い人間には紫織の良さは一生分からない』
また消す。
我を忘れて打ち込んでは消しを繰り返し、三度目にしてようやく、彼女は理性と熱量を兼ね備えた長文の反論を叩き上げた。
紫織の歪んだ心理描写。
冷酷な軍人という立場が、彼女の「誰も信用できない」という致命的なパーソナリティに与えた逃れられない影響。
幼少期に受けたトラウマの呪縛。
第三章の詰みかけの戦局で見せた、あの苦渋に満ちた判断の数々。
そして、個別ルート「正反対の目的」の終盤、薄暗い庭園でふと見せた、あまりにも脆すぎる本音のシーン。
あれは単なるファンタジーのイベントなどではない。
ビジュアルノベルという媒体において、人間の「弱さと意地」を描ききった最高峰のマスターピースなのだと。
送信。
画面の隅にある時計に目をやる。
午前六時五十一分。
「やっべええええええっ!」
椅子をひっくり返しそうになる勢いで跳び上がった。
スマートフォンをバッグに放り込む。
食パンは半分残ったまま。
マグカップのコーヒーは、一口もつけられないまますっかり冷めきっていた。
そして、みちるは現実という名の戦場へ飛び出した。
その日、朝の自室の天井を目にするのが、人生で最後になるとも知らずに。
***
午前7時38分。
満員電車は、地獄の圧縮機そのものだった。
みちるは頭上の吊り革に片手でしがみつき、自分のバッグを胴体に必死に押しつけながら、窓の外を流れる灰色のビル群をうつろな目で眺めていた。
ポケットの中で、スマートフォンがブルッと震えた。
例の掲示板からの通知だった。
『さすがに一つのキャラクターに個人的な感情移入しすぎじゃない? こわいんだが』
みちるは静かに目を閉じ、そして心の中で毒づいた。
「……会社に着いたら、そいつの昼休みの椅子に画びょうでも仕込んでやりたい」
もちろん、実際にそんなことをする度胸などない。
みちるは生粋の平和主義者だった。
クローゼットの奥底に、誰にも言えない百合系エロゲームをひっそりと二十三本も隠し持ち、架空の冷酷指揮官の名台詞を脳内でスラスラと暗唱できるほど愛を拗らせていながら、実在すらしないキャラクターの名誉を守るために、朝の貴重な八分間をドブに捨てるような、正真正銘の平和主義者なのだ。
……うん、きっとそうだ。
ガタンゴトンと、電車が濁った音を立てて停車する。
みちるは波に押されるように乗客の群れに混じってホームへとはき出された。
会社は駅から歩いて十分の場所にある。
見慣れたガラス張りのビル、ため息をつきながら自動ドアをくぐり、タイムカードを切る。
午前八時十二分、仕事の地獄が口を開ける。
午前九時四十分、朝食のパンを食べ損ねた胃の痛みに気づく。
午前十一時十五分、老害上司から「これ急ぎでよろしくね」と追加のゴミ仕事を押しつけられる。
午後零時三十数分、冷めた弁当をかき込みながら、片手でスマホの攻略サイトを眺めて現実逃避。
午後一時七分、再び終わらないデスマーチへ。
午後三時五十二分、気づけば三時間近くPCのモニターを凝視したまま時間が飛んでいた。
午後五時四十一分、定時?なにそれ美味しいの?状態に突入。
午後七時八分、今日何度目か分からない乾いた溜息。
午後八時二十六分、長時間のデスクワークで背中と腰の境界線が消滅し始める。
そして、午後九時十三分。
恋人の井宮啓介から、優しいトーンのメッセージが届いた。
『啓介:今日も遅くなりそう?』
『みちる:たぶん。ごめんね、先に寝てていいよ』
『啓介:大丈夫だよ。何か温かいものでも買って帰ろうか?』
『みちる:気持ちだけで十分。帰ったら泥のように眠るから何もしないで』
『啓介:いつもそればっかりじゃん』
みちるは、疲れた顔のまま、ほんの少しだけ口元を緩ませた。
『みちる:分かってるって。……愛してるよ。またあとでね』
スマートフォンを放り出すように机の端へ置く。
数秒間、すっかりスリープ状態になった黒いパソコンの画面に、自分の疲労しきった顔がぼんやりと映り込んでいた。
家に帰りたい。
熱いお風呂に肩まで浸かりたい。
ふかふかのベッドにダイブしたい。
そして――『マセカイ』を起動して、画面の向こうの紫織に会いたい。
最初から最後までストーリーを追う必要なんてない。
ただ、一つのシーンだけでいい。
たとえば、薄暗い指揮官室でのあのやり取り。
章の間中ずっと部下たちを冷徹に威圧し、誰も寄せ付けなかった紫織が、ふと執務机の書類から目を離し、主人公に「……お前、ちゃんと夕食は食べたのか」と、不器用に、まるで面倒くさそうに尋ねる、あのワンシーン。
本当に、ほんの些細な会話だ。
多くのプレイヤーはストーリーのテンポが落ちると言って飛ばしてしまうような、短いイベント。
それでも、みちるはあの瞬間がたまらなく好きだった。
彼女の鎧がほんの少しだけ剥がれる、その温度が好きだった。
「……あと、もう少しだけだから」
彼女は乾いた唇を引き結び、再び地獄のキーボード叩き作業へと戻っていった。
***
午後11時48分。
PC画面のデジタル時計が、血走った目で働くみちるを冷たく嘲笑っているように見えた。
やっとの思いで最後のデータ送信を完了させ、ファイルが正常にアップロードされたのを確認する。
ついでにスマホを確認すると、昼間に書き込んだ掲示板のスレッドからまだ通知が来ていた。
誰かが彼女の長文反論に対して、さらに紫織の粗探しをするような挑発的な画像を貼り付けているらしい。
みちるは画面をスワイプして、その通知を消した。
もういい。
今の彼女には、他人の空リプにブチ切れる気力すら残っていなかった。
午前零時十七分、やっとの思いで残務を片付け、会社を出る。
午前零時三十四分、最寄りの駅から夜風に吹かれながら歩く。
夜風は突き刺さるように冷たかった。
途中のコンビニで買った缶コーヒーのアルミの表面に、街灯の黄色い光がぼんやりと歪んで映る。
電車の接続は最悪で、乗り換えにも盛大に失敗し、いつもの倍の時間がかかったような気がする重い足取りを引きずりながら、彼女はやっとの思いで自宅のドアの前にたどり着いた。
鍵を開け、暗い部屋に足を踏み入れたとき、時刻はすでに午前二時二十分を回っていた。
「……もう、人生の残りHPがゼロなんですけど」
あまりにも実感がこもった自分の声に、みちるは思わず乾いた笑いを漏らした。
部屋の中は静まり返っていた。
同棲している啓介は、明日も早い仕事のためにとっくに深い眠りについているだろう。
一応、帰宅したことを知らせる短いスタンプだけを送り、そのまま音を立てないように洗面所へ向かった。
長めのシャワーを浴びる。
熱いお湯が、ガチガチに凝り固まった肩や首筋の筋肉を少しずつほぐしていく。
風呂から上がり、部屋着のゆったりしたスウェットに滑り込み、適当にタオルで髪の水気を拭き取る。
洗面台の鏡に映っていたのは、目の下にクマを飼い、魂の抜けかけた二十五歳の社畜女だった。
自分の時間をすべて会社に吸い取られ、
優しくしてくれる恋人がいて、
他人から見れば「ごく普通の、平和な日常」を送っている。
それでも。
みちるには、今日という日をどうにかこうにか生き延びるための「理由」があった。
自分だけの、誰にも邪魔されない聖域。
午前二時四十七分。
彼女は疲れた足取りで自室のクローゼットの前に歩み寄り、その扉をそっと開けた。
いくつかの冬服や、もう着なくなった服の奥。
そのさらに一番奥、誰にも触れられないように綺麗に整頓された一角に、彼女の「宝物」が鎮座していた。
全部で、二十三本。
すべて、百合をテーマにしたエロゲーム、あるいはそれに準ずるノベルゲームだった。
発売当時に泣きながら買った古い限定版もあれば、のちにPCのデジタル版を買ったあとでも、「愛着とパッケージの質感」を手放したくなくてわざわざ実物を本棚に並べているものもある。
一度きりのクリアで満足した作品もあれば、特定のセリフを空でスラスラ言えるほど何周も狂ったように遊び込んだ作品もあった。
そのコレクションの、一番真ん中。
最も神聖な場所に、『マセカイ』のパッケージは置いてあった。
彼女が、現実のあらゆる理不尽に耐え抜くための支え。
みちるは両手でその箱をそっと取り出し、親指でパッケージの表面を愛おしそうになぞった。
そこには、相変わらず険しく、誰をも寄せ付けない冷徹な目を向けた牧野紫織が、漆黒の軍服姿で描き出されていた。
その瞳は、まるで画面のこちら側にいるみちるのプライベートのダメっぷりをすべてお見通しであるかのように、冷たく、それでいてどこか鋭く彼女を見据えている。
「……紫織」
会社の人間や、上司や、恋人の前で見せるのとはまったく違う、完全に気を許しきった、どこか子供っぽい笑みがみちるの顔に浮かんだ。
「やっと、会えたね」
彼女は箱をベッドの上に大切に置き、その隣にへたり込むように腰を下ろした。
『マセカイ』は、膨大なテキスト量と、容赦のない戦略性を要求される戦闘パート、そしてプレイヤーの精神を抉るような無数のバッドエンド分岐を備えた、化け物みたいなゲームだった。
みちるは、当時攻略難度が高すぎてネットで炎上した最難関ルートを含め、その大半のエンディングを自分の手で踏破していた。
それでも、一番好きなのはやっぱり紫織の個別ルートだった。
彼女は傲慢で、頑固で、冷酷で、他人の善意を微塵も信じようとせず、時にはどうしようもなく面倒くさい、めんどくさい女だった。
けれど、その鉄壁の鎧の裏側には、底知れない優しさと、幼い頃に負った拭えないトラウマからくる痛々しいまでの脆さが隠されていることを、みちるは知っていた。
みちるは、そんな彼女の不器用な生き様のすべてが、愛おしくてたまらなかった。
……少なくとも、画面の向こうの彼女の痛みくらいは、自分ならすべて理解してあげられると、そう信じたかった。
「今日は……少しだけでもいいから、一緒にいてよね」
イラストのなかの紫織に向かって、みちるは誰もいない部屋で小さくそう約束した。
時計の針は、午前二時五十一分を指している。
手際よくゲーム機を配線し、電源を入れる。
数秒のロードのあと、おなじみの重厚なタイトルBGMが部屋の空気を震わせた。
ふう、とみちるは長く息を吐き、肩の力を抜いた。
ほんの数分だけでもいい。
会社も、納期という名の魔物も、未読のメッセージも、満員電車の息苦しさも、すべて忘れられる。
この狭い部屋の、この画面のなかには、あの世界だけがある。
物語だけがある。
そして――紫織だけが、そこにいる。
***
午前三時七分。
みちるは、ゲームのプロローグ部分までデータを進めていた。
物語の本当の序盤、すべての運命が狂い出す直前のシーンの一つだ。
本来の主人公である名もなき士官候補生は、軍の殺風景な医務室のベッドで目を覚ます。
自分がなぜこんなところに運び込まれたのかも分からないまま、頭痛と混乱の中で上体を起こすのだ。
その静まり返ったベッドの傍らに、腕を組んでただ立っているのが――牧野紫織だった。
何年も前、初めてこのオープニングを見たとき、みちるは彼女の圧倒的な立ち姿に心を撃ち抜かれた。
紫織は笑わない。
無駄な慰めの言葉もかけない。
ただ、何を考えているのか底の知れない冷たい瞳で主人公を見下ろし、低い声でこう告げるのだ。
「――ようやく、目を覚ましたか」
そこから、すべてが始まった。
みちるはベッドの上で片手枕をしながら、懐かしい画面に視線を投げた。
「ああ、このシーン……本当すこ」
細かいディテールまで脳に焼き付いている。
医務室の天井でチカチカと瞬く、無機質な白い照明。
遠くの廊下から微かに聞こえる、医療機器の規則正しい電子音。
背中にピシッと手を回したまま微動だにしない、紫織の完璧すぎる姿勢。
主人公が起き上がろうともがいたとき、彼女の黒髪の隙間から覗く耳のライン、そして視線がほんのわずかに動くそのモーションの作り込み。
何もかもが、あの頃の記憶のままだった。
午前三十二分。みちるは一度区切りのいいところでデータをセーブした。
三時十五分、せっかくなので昔のクリア後セーブデータを開き、お気に入りのイベントシーンだけをもう一度見返した。
三時十八分、これ以上やると明日の仕事でガチで死ぬと判断し、名残惜しくもゲームの電源を切った。
目がシパシパする。
頭の芯が、鉛を詰めたように重い。
寝なければ。
本気で、もう寝なければやばい。
だけど、その前に。
「……散らかったやつだけ、片づけてから寝ようっと」
これ以上部屋を荒らすと、同居人である啓介に小言を言われる。
みちるはよいしょと重い体を起こし、先ほど引っ張り出した『マセカイ』の重厚な特装版の箱を、クローゼットの元の場所へと押し込んだ。
それから、その手前に適当に放り出していた他のゲームたちも、崩れないように順番を整えながら、再び暗い棚のなかに収めていく。
午前三時十九分。
クローゼットの折り戸に手をかけ、ゆっくりと閉める。
その瞬間。
足元に積み上げられていた古いゲームの束から、一冊の薄いアートブックが滑り落ち、斜めに傾いた。
「ん……?」
もう一度、戸を開ける。
手を伸ばし、傾いた箱と本を元の位置に直そうとした。
その、指先が触れた瞬間。
足元から、世界の色がスッと消え去った。
「――え?」
声にならない声が漏れた。
頭の中で警告音が鳴る暇すらなかった。
急に、両膝からすべての力がスポッと抜けた。
バランスを崩した身体がフローリングの床に崩れ落ち、収納棚の隙間からこぼれ落ちた無数のゲームパッケージが、まるで雪崩のように部屋中にガシャリと音を立てて散らばった。
音は、一瞬だった。
そして、そのあとに訪れたのは、あまりにも重たくて、気味の悪いほどの静寂。
床に転がったデジタル時計の文字盤だけが、冷たく、変わらずに時間を刻み続けていた。
午前三時二十分。
みちるは、二度と起き上がらなかった。
***
啓介は、胸の奥を引っかかれるような、妙な胸騒ぎで目を覚ました。
なぜこの時間に目が覚めたのか、自分でもまったく分からなかった。
夜中に何か重いものが倒れるような鈍い音を聞いた気がしたし、あるいは単に、嫌な予感だけが脳を覚醒させたのかもしれない。
隣のベッドに手を伸ばす。
冷たい。
誰もいなかった。
「……みちる?」
寝ぼけた声で名前を呼ぶが、返事はない。
啓介は上体を起こし、目をゴシゴシと擦りながら、枕元のスマートフォンを確認した。
深夜に彼女から送られてきた、あの短いメッセージが画面に残っている。
『帰ったら泥のように眠るから何もしないで』
朝になったら、「お疲れ様」とでも返事をしよう。
そう考えていた記憶はある。
しかし、家の中がまるで人の気配のしない廃墟のように静まり返っていることが、どうしようもなく気にかかった。
もしかすると、また徹夜の仕事のせいでリビングのソファで力尽きて寝ているのではないか。
そう思い、彼はベッドから這い出た。
暗い廊下を歩く。
彼女の部屋の扉は、わずかに開いていた。
「みちる、こんなところで寝たら風邪ひくよ……って、まだ起きてるの?」
声をかけながら、扉をそっと押し開ける。
そして――足が、その場で凍りついた。
一瞬、目の前で起きている光景の意味が、頭のなかで全く処理できなかった。
みちるが、開け放たれたクローゼットの前に、まるで糸の切れた人形のように突っ伏すように倒れていた。
床には、見たこともないような大量のゲームの箱や、キャラクターがプリントされたパッケージが、文字通り部屋中を埋め尽くすように散らばっている。
「みちる……っ!?」
啓介の血管から一気に眠気が吹き飛んだ。
彼は叫びながら駆け寄り、その場に膝をついた。
「おい、みちる! どうしたんだよ、おいっ!」
肩を掴んで揺さぶる。
だが、返事はない。
彼女の体温はすでにどこか頼りなく、ぐったりとしていた。
何が起きたのか分からない。
頭が真っ白になり、手がどうしようもなく震えた。
自分のスマホを取り出し、必死の思いで救急ダイヤルを叩こうとするが、指が滑って画面すらまともに押せない。
自分が何を話しているのか、自分の声なのに他人のもののように聞こえた。
その、恐怖に満ちた視線の端に、床に散らばった無数のコレクションが映り込んだ。
二十三本。
数えきれないほどの、ゲームの箱。
そのほとんどが、啓介が今まで一度も見たことのないタイトルだった。
パッケージに描かれているのは、見知らぬ軍服を着た男や女だったり、あるいは美少女同士が手を取り合って微笑んでいるイラストだったりした。
どれもこれも、彼女が普段の生活で見せる趣味とはまったくかけ離れた、ディープで、オタク染みたものばかりだった。
彼女は、こんなものを隠し持っていたのか。
自分と同棲し、毎日他愛のない愚痴を言い合っていた彼女の裏側に、こんなにも深い、自分すら知らない世界が存在していたなんて。
彼女の倒れているすぐ脇の床に、箱の隙間から落ちたらしい、小さな紙切れが一枚落ちていた。
どこかのメモ用紙をちぎったものだろうか。
それとも、何かの特典についていたカードだろうか。
震える手でそれを拾い上げると、そこには、ぐちゃぐちゃと乱れた文字で、たった一言だけこう書かれていた。
――『ありがとう、紫織様』
啓介はそれを一度読んだ。
意味が分からず、もう一度、声に出さずに読んだ。
「……なんだよ、これ……」
掠れた声が、自分の喉から漏れた。
彼は、再び目の前で動かない恋人の顔を見つめた。
日々の仕事の愚痴をこぼし、朝食のパンも食べ損ね、夜遅くに「愛してる」とメッセージをくれ、休日には疲れ果てて一歩も動けなくなるような、どこにでもいる普通の女の子。
自分は、彼女のすべてを知っているつもりでいたのに。
「……みちる、おい……冗談だろ……?」
その紙切れが一体何に向けられた告白なのか、あるいは彼女が誰にも見られたくなかった最後の秘密だったのか。
もう、本人に直接尋ねる術は、どこにも残されていなかった。
静まり返った部屋のなか、見知らぬゲームのパッケージの山に囲まれながら、啓介は、一晩で消化するにはあまりにも重すぎる絶望のなかに立ち尽くしていた。
***
みちるが最初に意識を取り戻したのは、脳の奥を直接叩くような、遠くの電子音だった。
次に、耳慣れない、しかしどこか冷ややかな女性の声が聞こえた。
「……意識レベルの回復を確認。……おい、聞こえているか?」
まぶたが、鉛のように重い。
みちるは必死に力を込め、その重いカーテンを押し開けようとした。
視界に飛び込んできたのは、目が眩むような純白の光だった。
あまりにも白すぎる。
寝不足の朝、自分の部屋の薄汚れた天井を見上げるのとはまったく違う、どこか人工的で無機質な光景。
しかし、そこにある天井は、彼女の知っているどの部屋のものとも違っていた。
天井に埋め込まれた、継ぎ目のないフラットな照明パネル。
その脇を走る、無機質な金属製の配管。
そして、窓を覆う、淡い灰色で統一された遮光カーテン。
鼻腔を突く匂いも、まったく異なっていた。
いつもの自分の部屋の、少しホコリっぽい匂いではない。
それは、徹底的に消毒された病院の匂いであり、微かに薬品の混じった、冷たい空気だった。
みちるはわずかに眉をひそめ、乾いた唇を動かした。
「……ここ、は……」
掠れた、自分でも驚くほどか細い声だった。
腕を動かそうとシーツに手をかけた瞬間、ざらついた布の感触が皮膚に伝わってきた。
自分はベッドに寝かされている。
いや、ベッドというよりは――もっと簡易的な、薄いマットの敷かれたストレッチャーだ。
心臓の鼓動が、一気に跳ね上がった。
「いったい、何が……起きたの……?」
「まだ無理に起き上がるな。脳に負荷がかかっている」
声は、すぐ右側から降ってきた。
みちるは恐怖に逆らうように、ゆっくりと、首をその方向へと向けた。
そして――次の瞬間、彼女は呼吸をするのを完全に忘れた。
ストレッチャーのすぐ傍らに、一人の女性が直立していた。
黒く艶やかな長髪。
身にまとっているのは、紛うことなき、あの漆黒の軍服だった。
手のにはめられた、黒い革の手袋。
そして、すべてを値踏みするかのような、底冷えのする冷たい瞳が、じっとこちらを見据えていた。
姿勢は背筋が凍るほど美しく、表情は能面のように厳しい。
みちるは、その顔を知っていた。
その声のトーンも、骨の髄まで知っていた。
制服の襟元にある、わずかに掠れた小さな傷跡の形まで知っていた――通常版のパッケージイラストでは絶対に確認できず、限定版に付属する高解像度の設定資料集でしかお目にかかれない、マニアックな描き込みだ。
まさか。
そんな、バカな話があるわけがない。
女性はわずかに顎を引くと、冷ややかに首を傾げた。
「――ようやく、目を覚ましたか」
みちるの体中の血液が、一瞬にして逆流した。
同じ台詞。
同じ声の調子。
同じシチュエーション。
ここは、どこをどう見てもプロローグだ。
『マセカイ』の、オープニングそのもの。
本来の主人公である名もなき士官候補生が軍の医務室で目覚め、現場の全権を握る冷酷な指揮官と初めて遭遇する、あの運命のファーストコンタクト。
牧野紫織。
彼女が、ネットの掲示板で顔真っ赤にして擁護し続けた相手。
さっきまで、クローゼットの前で愛おしそうに箱をなで回していた相手。
紫織は腕を組み、冷ややかな視線を崩さない。
「私の言っていることが理解できているなら、返答くらいしろ」
みちるの口から、魂の抜けたような息が漏れた。
同じだ。
すべてが、あのゲームの画面のなかと同じだった。
紫織はわずかに眉間にしわを寄せた。
「……どうやら、気絶していたショックで脳の処理が追いついていないようだな。もう一度、医療班を呼ぶか?」
ショック?
医療班?
みちるはパニックに陥りかけた頭を無理やり動かし、半ば反射的に自分の体を確かめようとした。
シーツを掴む。
違和感があった。
自分の指が、妙に細い。
毎日のPC仕事やイラスト描きで荒れていたはずの皮膚には、学生時代からあったはずの小さな火傷の跡すら見当たらない。
爪の形や指の長さまで、どこか見慣れない「他人のもの」だった。
震える片手で、おそるおそる自分の頬に触れる。
「……待って、嘘でしょ……?」
紫織は無言のまま、腕を組んだ姿勢を崩さずに彼女を見下ろしている。
みちるは頭を振って、周囲を見回した。
薄暗い医務室。
チカチカと点滅する天井のランプ。
そして、目の前に立つ、生きた牧野紫織。
あり得ない。
そんなオタクの妄想みたいな低俗な転生劇が現実に起きるわけがない。
だとしたら、これは夢だ。
さっき無理をしてゲームをいじったせいで、脳が極限の疲労から見せているただの悪夢に決まっている。
そう自分に言い聞かせようとしたが、鼻を突く消毒液の匂いも、頬を伝う冷や汗の感触も、あまりにもリアルすぎた。
どうしても、現実であることを否定するために確認しなければならないことがあった。
たった一つだけ、この世界が「どこ」であるかを決定づける質問が。
「あの……、指揮官」
紫織が片方の眉をぴくりと上げた。
「なんだ、言いたいことがあるならはっきり言え」
みちるはごくりと乾いた唾を飲み込んだ。
「……今日は、何日ですか?」
紫織の表情が、一段と不審なものに変わった。
「頭を打って記憶違いでも起こしたか。……今は、帝国暦七百四十二年、アイレン月の十七日だ」
その瞬間、みちるのなかの時間が完全に凍りついた。
アイレン。
帝国暦。
七百四十二年。
ゲームの冒頭、プロローグのテロップに嫌というほど表示される、あの忌々しい日付。
物語の最初の大きなターニングポイントである「要塞陥落事件」の、わずか数日前にあたる日付。
そして、本来の主人公が、牧野紫織という人間と初めて出会うその日。
その情報を、彼女は知っていた。
攻略本なしで、イベントのフラグ管理まで完璧に暗記しているほどに。
みちるは目の前のシーツを両手で引き裂くように強く握りしめた。
「……うそ、だろ……」
紫織がわずかに歩を進め、ストレッチャーの傍らに歩み寄ってきた。
「何が『うそ』なのだ。お前は昨日の夜間演習で前衛の不手際に巻き込まれ、頭部を強打してここに運ばれた身だ。……自分の名前すら忘れたわけではまいだろう」
顔を上げる。
イラストレーションでは絶対に分からないような、微細なディテールが視界に飛び込んできた。
毎日の激務と責任感のせいで、目尻にうっすらと刻まれた疲労の色。
黒い軍服の布地が持つ、上質なウールの質感。
そこから漂う、わずかな冷たい石鹸の香り。
すべてが、本物だった。
二次元のキャラクターなどではなく、血の通った、生きている人間としての「牧野紫織」がそこに存在していた。
そして、もしここが本当に『マセカイ』の世界なのだとしたら――日付の他にもう一つ、もっと恐ろしい問題があることに気づく。
みちるは自分の細い手を見た。
殺風景な医務室を見回した。
そして、目の前の冷酷な女指揮官を見据えた。
自分は、一体「誰」の体に転生してしまったのだろうか。
その答えは、冷酷な沈黙を破るように、医務室の重い扉を叩く慌ただしい足音とともに、外から投げかけられた声によってあまりにもあっさりと告げられた。
「牧野指揮官っ! 第五宙域のパトロール隊より、――『鏡静香』に関する緊急報告書が届きました!」
その名前を聞いた瞬間、みちるの脳内で何かが激しくスパークした。
指揮官の表情がピクリと動き、入口の方へと視線を向ける。
「……机の上にでも置いておけ。後で目を通す」
鏡。
静香。
その名前は、まるで実弾のようにみちるの脳天を貫いた。
知っている。
そんな名前、忘れるはずがなかった。
主人公としてでもない。
プレイヤーの分身としてでもない。
『マセカイ』のなかに存在する、数ある個別ルートの一つ――よりにもよって、牧野紫織が文字通り人生のすべてを狂わせるほどに溺愛してしまう、作中最強にして最難関の「恋愛対象」となる女性キャラクターの名前だった。
彼女の存在そのものが軍の権力闘争に火種をくべ、指揮系統の内部に取り返しのつかない対立を生み出し、あの冷酷で合理主義の権化だった指揮官に、周囲の人間が誰も理解できないような「私情」を暴走させる原因を作る。
ゲームのなかで、プレイヤーであるみちるが何時間も画面の向こうで見つめ続け、いくつかのエンディングでは紫織がすべてを捨ててでもその手を取ろうとした、あの女性。
みちるの顔から、血の気が完全に引いていくのが分かった。
紫織は、報告の声を背中で聞き流しながら、再びゆっくりと視線をベッドの上の少女――鏡静香へと戻した。
「……鏡静香」
指揮官は、まるで他人事のようにその名前を口にする。
「……どうやら、まだ頭の傷が痛むようだな。顔色がひどく悪いぞ」
みちるは、目の前に立つ圧倒的な存在感の女性を見上げた。
紫織は、返事を待っている。
そして、この世界に目覚めてから初めて、みちるは自分が置かれている状況の恐ろしいまでの「真実」を理解した。
自分は、ただの物好きな観察者として、大好きなゲームの世界に観光に来たわけじゃない。
安全なモニターの前でマウスをクリックしているわけでもない。
いざとなったらセーブデータをロードし直すこともできなければ、煮詰まったら「タイトルへ戻る」を押して現実逃避することもできない。
そして、目の前にいるこの女性は、都合が悪くなったらスキップボタンで会話を飛ばせるような、ただの二次元のデータなんかじゃなかった。
牧野紫織。
冷酷非情と謳われる女指揮官。
自分が現実のストレスを忘れるために、全人生を懸けて愛していた架空の女性。
そして――これから、この世界で自分が生き延びるための、最大にして最悪の「詰みポイント」となる相手。
みちるは両手で自分の顔を覆い、ガタガタと震えながら、心の底から絶望的なため息を吐き出した。
「……完全に、詰んだ」
その呟きをどう受け取ったのか、紫織はわずかに眉をひそめ、廊下に向けて医療スタッフを呼ぶ声を張り上げた。
「……やはり、まだ脳へのダメージが残っているらしい。医師を呼べ」
こうして、日々の社畜生活と終わらない残業に心身をすり潰し、百合系エロゲームを二十三本も秘密裏に所有し、『牧野紫織の生態』については自称世界一の専門家気取りだった渡辺みちるは、異世界の片隅で、まったく望んでいない二度目の人生をスタートさせることになった。
英雄として祭り上げられるわけでもなく。
チートな剣士として無双するわけでもなく。
――『鏡静香』という名の、冷酷な女指揮官の狂おしいまでの愛と執着に絡め取られる運命にある、一人のモルモットとして。
そしてこれからの日々、彼女が自分の手でその危険すぎる恋愛ルートのフラグをどうやってへし折り、あるいはどうやって生き延びるべきなのかを考える暇は、まだどこにもなかった。
「リ:ゼロ」を見始めました…




