『刹那の栞』
『刹那の栞』
「あの時どうしたらよかったのだろう」
マサトは、そう呟いた。
もう半年も別れた彼女のことを思っている。未練タラタラだと言われるかもしれないが、マサトにとっては彼女が全てだったのだ。
彼女の笑顔さえ見れたら 他は何もいらなかった。
正しくはそう思っていたんだが、マサトは、勇気を持って一歩踏み出してしまった。それから関係がギクシャクしてしまった。
楽しい思い出はもっと他にあるはずなのに、どうしても別れの瞬間 ばかり思い出してしまう。
彼女はどんな顔をしていたかな、マサトは彼女のことをまっすぐ見ることすらできなかったのかもしれない。
マサトは 公園のベンチに腰をかけて、別れた彼女のことを考えていた。もう顔もよく思い出せない。
仕事帰りの夕暮れ、家族連れだったり、恋人同士だったり、彼らが楽しそうに歩いていく姿を、まさとは ぼんやり眺めていた。
そんな時に急に声をかけられた。
「こんにちは、お疲れのようですね。何か悲しいことでもあったんですか?」
マサトは、疲れた顔で声の主を見た。
そこにはきちんとした身なりの、少し痩せた スーツ姿の男が立っていた。
「しがない 訪問販売を、やっているものです。私もなかなかうまくいかなくて…………隣 座ってもいいですか 」
「ええ、どうぞ。」
マサトは、不意に現れた訪問販売の男と、2人して人生の愚痴を言い合った。彼は水谷と名乗った。
真面目そうだが、確かに 営業がうまそうな感じはしない。
「ところで 水谷さんはどんなものを営業してるの」
「よくぞ聞いてくださいました。きっと今のあなたにピッタリな商品ですよ」
「何だろう」
「この栞です」
水谷は、鞄の中から何枚かのしおりを取り出した。
「いや 俺は 本はあまり読まないんだ」
「いえいえ この栞は本に使うものではありません、あなたの人生の、どこかの瞬間に使うものです」
マサトは、呆れたような顔をした。
「あなたが一番大好きな瞬間。あの時のことを思い出したいと願う瞬間。
そんな場所に思いを込めて このしおりを挟めば、その時を 何度でもリピートできます、1箇所だけですけどね」
まさとは 頭の中に、大好きだった彼女と、笑いやって手をつなぎ やったその瞬間を思い出した。でもはっきりと顔は思い出せない。マサトは ため息をついた。
「繰り返して はっきり見たい瞬間があなたにもあるのですね。
よかったら、3日間だけ 試しに使ってみませんか、もし お気に召しましたら、3日後 ここでお買い上げください」
そう言って 水谷はマサトに1枚の栞を渡した。
とても透き通った、ガラスのような金属のような栞だった。
マサトは、手の中の栞をしばらく見つめていた。
くだらない。そう思う一方で、胸の奥がざわついている。
「……3日間、か」
試すだけなら、失うものはない。
そう自分に言い聞かせるように、小さく息を吐いた。
思い出したい瞬間は、決まっていた。
あの日。
彼女と並んで歩いて、何でもないことで笑い合って、
ふとした流れで手をつないだ、あの瞬間。
マサトは、目を閉じた。
その記憶に、そっと栞を差し込むように、意識を沈めていく。
――その瞬間。
視界が、白く弾けた。
光だった。
けれど、ただの光ではない。
柔らかく、温度を持った光が、全身を包み込む。
次の瞬間、マサトはそこにいた。
夕暮れの帰り道。
少し冷えた空気。
彼女の隣。
「ねえ、それちょっと違うでしょ」
聞こえる。
声が、こんなにも近い。
横を見ると、彼女がいた。
ぼんやりとしか思い出せなかった顔が、はっきりとそこにある。
風に揺れる髪。
その香り。
指先に触れる、かすかな温もり。
――リアルすぎる。
いや、これはもう現実だ。
マサトは、恐る恐る手を伸ばした。
彼女の指に触れる。
温かい。
柔らかい。
そのまま、自然に手をつなぐ。
ああ、これだ。
この瞬間だ。
そして、その瞬間の刹那は、ほんの2秒ほどで泡のように消えてしまった。
マサトは、今あった感触を探すかのように、手を宙に泳がせていた。
「本物だ」
マサトはつぶやいた。
マサトは、しばらく動けなかった。
たった二秒。
それだけのはずなのに、胸の奥に残った余韻はあまりにも濃い。
彼女の声。
髪の揺れ。
触れた指の温度。
すべてが、まだここにある。
「……もう一回」
自然と、言葉が漏れた。
考えるよりも先に、栞を握る手に力がこもる。
――光。
「ねえ、それちょっと違うでしょ」
彼女が、少し笑う。
今度は、さっきよりもよく見ようとする。
まばたきすら惜しい。
その横顔。
唇の動き。
目の奥の光。
――消える。
「っ……!」
マサトは、息を詰まらせた。
短い。
あまりにも短い。
だが、その分、鮮烈だ。
「……すごいな、これ」
思わず笑ってしまう。
こんなものが、あっていいのか。
もう一度。
あと一度だけ。
それで、本当に終わりにする。
そう思いながら、また目を閉じる。
――光。
「ねえ、それちょっと違うでしょ」
彼女が、少し笑う。
その距離。
近い。
――消える。
マサトは、ゆっくりと目を開けた。
空は、さっきと同じ夕焼けのままだ。
けれど、自分の中の時間だけが、確実に何度も繰り返されている。
「……あと一回」
マサトは、たった2秒の刹那を3時間も繰り返してしまった。
頭の中は、大好きだった彼女の、「ねえ、それちょっと違うでしょ」の声と、笑顔が焼き付いている。
このままでは、朝まで、いや、気を失うまで繰り返してしまいそうだ。マサトは、自虐気味に笑った。
次の日。
マサトは、会社のデスクに座っていた。
目の前には書類。
パソコンの画面。
いつもと変わらない仕事の風景。
――のはずだった。
「……」
何も、頭に入ってこない。
数字を見ても、意味がわからない。
文章を読んでも、途中で途切れる。
代わりに浮かんでくるのは、たったひとつ。
「ねえ、それちょっと違うでしょ」
あの声。
あの距離。
あの二秒。
「……くそ」
小さく舌打ちする。
手が止まる。
気づけば、キーボードの上で指が止まったまま、数分が過ぎていた。
「おい、大丈夫か?」
同僚の声に、はっとする。
「あ、ああ……ちょっと寝不足で」
適当にごまかす。
だが、その直後に入力した数字が一桁ずれていた。
「あ、違う……」
慌てて修正する。
だが、その修正も間違える。
いつもならありえないミスだった。
「……」
マサトは、無言で画面を見つめた。
(早く……)
心の奥で、何かが囁く。
(早く、帰りたい)
理由は、はっきりしている。
栞だ。
あの二秒が、待っている。
彼女が、待っている。
胸の奥が、ざわつく。
焦りに似た、渇き。
「……くそ」
また、小さく呟く。
こんなことで仕事に支障が出るなんて。
わかっている。
わかっているのに――
昼休み。
マサトは、人気のない場所に移動していた。
ポケットの中の栞を、何度も指でなぞる。
冷たい。
けれど、その奥に、あの温もりが隠れている気がする。
「……二秒だけだ」
誰に言い訳するでもなく、呟く。
ほんの少しだけ。
それで、落ち着くはずだ。
マサトは、目を閉じた。
――光。
「ねえ、それちょっと違うでしょ」
――消える。
「っ……!」
思わず息が漏れる。
たったそれだけで、心臓が強く打つ。
「……やばいな」
笑ってしまう。
さっきまでのイライラも、不安も、全部どうでもよくなる。
ただ、満たされる。
だが同時に――
足りない。
圧倒的に、足りない。
「……もう一回」
気づけば、また栞を握っていた。
マサトは、深く息を吐いた。
ポケットの中の栞を、無理やり押し込む。
「……仕事、だ」
自分に言い聞かせるように呟き、デスクに戻る。
パソコンの前に座る。
画面を見つめる。
――数秒。
「……は?」
思わず声が漏れた。
画面に映っているのは、作業中のはずの書類ではなかった。
『ねえ、それちょっと違うでしょ』
同じ文字列が、何行も、何行も並んでいる。
「……なんだよ、これ」
マサトは、慌ててキーボードから手を離した。
だが、その手が震えている。
いつ打ったのか、記憶がない。
いや――
気づいていなかっただけで、打っていたのだ。
無意識に。
あの二秒を、なぞるように。
「……っ」
急に、息苦しくなる。
画面から目を逸らす。
横を向く。
同僚が、何か話している。
口が動いている。
だが――
(……違う)
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
その顔が、彼女に見えた。
「……っ!」
マサトは、椅子をきしませて立ち上がった。
「おい、どうした?」
同僚の声が遠い。
視界が、揺れる。
通路を、誰かが通り過ぎる。
女性社員。
その横顔。
その髪の揺れ。
(……いた)
次の瞬間、体が勝手に動いた。
腕を、掴んでいた。
「――えっ?」
驚いた声。
現実の声。
マサトは、はっとした。
掴んでいるのは、彼女ではない。
まったく別の人間だ。
「す、すみません……!」
慌てて手を離す。
女性社員は、驚いたまま、少し距離を取る。
周囲の視線が集まる。
「……」
マサトは、その場に立ち尽くした。
鼓動が、異様に速い。
(違う)
頭の中で、何度も繰り返す。
(違う、違う、違う)
わかっている。
ここは現実だ。
彼女はいない。
それなのに――
さっきまで、確かに“いた”。
あの二秒が、現実に滲み出している。
「……くそ」
マサトは、小さく呟いた。
ポケットに手を入れる。
栞に触れる。
冷たい。
「……すみません、ちょっと体調が」
マサトは、できるだけ平静を装って言った。
上司は怪訝そうな顔をしたが、さっきの一件もあってか、深くは追及しなかった。
「今日はもう帰れ。無理するなよ」
「……はい」
その言葉を聞いた瞬間、マサトはほんのわずかに安堵した。
体調が悪いからではない。
――帰れる。
それだけで、十分だった。
会社を出た瞬間、空気が軽くなる。
だが、それは解放感ではなかった。
胸の奥が、ざわついている。
焦り。渇き。
「……早く」
誰に言うでもなく、呟く。
足が自然と速くなる。
駅へ向かう。
改札を抜ける。
ホームに立つ。
電車が来るまでの時間すら、長く感じる。
ポケットの中の栞に、何度も指が触れる。
冷たい。
電車が滑り込んできた。
マサトは、流れに乗るように乗り込む。
座席に腰を下ろす。
周囲には、帰宅途中の人々。
スマートフォンを見ている者。
眠っている者。
何でもない、日常の風景。
その中で、マサトだけが、別のものを見ていた。
ポケットから、栞を取り出す。
指先でなぞる。
しまう。
また取り出す。
――また、しまう。
それを、何度も繰り返す。
マサトは、強く歯を食いしばった。
「……家までだ」
絞り出すように、呟く。
家に帰れば、誰にも邪魔されない。
好きなだけ、繰り返せる。
その考えが、頭の中を支配する。
気づけば、電車の揺れも、アナウンスも、何も耳に入らなくなっていた。
ただ一つ。
ポケットの中の栞の存在だけが、はっきりとそこにあった。
明日は、三日目だ。
家に着くと、食事も服を着替えるのもせずに、数えきれないほど、その刹那を繰り返した。
二秒。
たった二秒のために、何時間も。
気がつけば、いつの間にか意識が途切れていた。
夢を見た。
だが、それはこの数日繰り返してきた、あの幸せな瞬間ではなかった。
別れのときだった。
あの日。
向かい合っていたはずなのに、まともに顔を見ることもできなかった、あの場面。
「さようなら」
彼女の声だけが、やけにはっきりと残っている。
優しくて、静かで、
それでいて、どうしようもなく遠い声。
胸に、刺さる。
逃げ場のない、現実の音だった。
マサトは、目を覚ました。
天井が見える。
薄暗い部屋。
携帯を見る。
――昼近い。
会社の始業時間は、とっくに過ぎていた。
「……」
体が重い。
頭の奥に、まだあの声が残っている。
「さようなら」
何度も、何度も、反響する。
マサトは、ゆっくりと起き上がった。
部屋の中は静かだった。
あまりにも静かで、現実的で、
――彼女はいない。
当たり前のことが、突きつけられる。
「……いないんだな」
小さく、呟く。
どれだけ繰り返しても。
どれだけあの瞬間に戻っても。
笑っていても、手をつないでいても、
その先には、必ず終わりがある。
そして――
その後には、何も残らない。
「……」
マサトは、しばらく動かなかった。
頭の中に、二つの時間がある。
あの二秒の中の彼女。
そして、最後に残った「さようなら」の彼女。
どちらも、本物だ。
だが――
今、ここには、どちらもいない。
「……あいつは、今」
ふと、言葉が漏れる。
彼女は、今を生きている。
もう、自分とは関係のない時間の中で、歩いている。
笑っているかもしれない。
誰かと、手をつないでいるかもしれない。
「……俺は」
そこで、言葉が止まる。
自分は、どうだ。
同じ二秒を、何度も繰り返して。
そこに、しがみついて。
前に進むこともなく、ただ、戻り続けている。
「……止まってるな」
乾いた笑いが、漏れた。
「そりゃ……振られるわ」
自虐的に呟く。
その声は、部屋の中で小さく消えた。
マサトは、栞を強く握りしめた。
そして、足を動かした。
向かう先は、あの公園だった。
水谷に会った、あのベンチ。
胸の奥がざわついている。
焦りと、期待と、そして――言い訳。
(買えばいい)
心の中で、何度も繰り返す。
あの二秒が、永遠になる。
あの瞬間を、何度でも。
彼女に、何度でも会える。
それでいいじゃないか。
それだけで、十分じゃないか。
「……これを返したら」
言葉が、途中で途切れる。
その先を、口にしたくなかった。
返したら。
――何もなくなる。
あの声も。あの笑顔も。触れた温もりも。
すべて、消える。
「……」
マサトは、目を伏せたまま歩き続けた。
公園に着いた。
夕暮れ。
あの日と同じ時間。
同じ景色。
そして――
いた。
水谷が、ベンチに座っていた。
まるで、最初からそこにいたかのように。
手には、何枚かの栞。
指先で、それをゆっくりと撫でている。
その顔は――
笑っているようで、
どこか、ひどく寂しそうだった。
「……水谷さん」
マサトが声をかける。
水谷は、顔を上げた。
そして、少しだけ目を細める。
「ああ……来ましたか」
その声は、どこか予想していたようだった。
マサトは、一歩、近づく。
手の中の栞が、やけに重い。
「……これ」
差し出そうとして――
水谷は、何も言わない。
ただ、じっと見ている。
まるで、答えを知っているかのように。
「……これを買えば」
マサトは、ゆっくりと口を開いた。
「ずっと、あの時間にいられるんですよね」
水谷は、すぐには答えなかった。
少しだけ、視線を落とす。
手の中の栞を見る。
その表情が、ほんのわずかに歪む。
「……ええ」
短く、答える。
そのとき。
「さようなら」
頭の奥で、あの声が響いた。
あの、最後の声。夢の中でも見た声。
優しくて、静かで、
それでも、確かに終わりを告げた声。
マサトの手が、止まる。
差し出しかけた栞が、わずかに震えた。
「……」
彼女は、もういない。
どれだけ戻っても。
どれだけ繰り返しても。
あの二秒の中にしか、いない。
そして――
彼女は、今を生きている。
自分の知らない時間を歩いて、
自分の知らない誰かと、笑っているかもしれない。
「……俺は」
言葉が、喉の奥で引っかかる。
自分はどうだ。
同じ二秒にしがみついて、
そこから一歩も動かずに、立ち止まっていた。
「……依存、か」
小さく、呟く。
苦笑が、漏れる。
「甘えてただけだな……」
彼女に。
あの時間に。
そして――
この栞に。
マサトは、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に、少しだけ痛みが残る。
けれど、不思議と、さっきまでの焦りはなかった。
静かだった。
そして、栞を握り直す。
強く。
「……これ」
今度は、迷わずに差し出す。
「返します」
水谷は、ほんの少しだけ目を細めた。
驚いたようにも、
どこか、ほっとしたようにも見える。
「……よろしいのですか」
静かな問い。
マサトは、小さく頷いた。
「はい」
短い言葉。
けれど、はっきりとした声だった。
マサトは、夕日で赤く染まる公園のなかを、家に帰って行った。
ベンチには、水谷が残っていた。
手の中には、幾枚もの栞。
透き通ったそれは、夕日の光を受けて、静かに揺れている。
水谷は、何も言わない。
ただ、栞を見つめている。
風が吹いた。
一枚の栞が、わずかに揺れる。
その中に――
誰かの、たった二秒の幸せが閉じ込められている。
おしまい
過去の幸せは、足を止めた。
別れは、前へ歩かせた。




