32/38
"A gimlet is too soon tonight."
その夜、カウンターの常連が低く呟いた。
「ギムレットには早すぎる」
その言葉に、夕子さんが静かに目を上げる。
「レイモンド・チャンドラーね。その心は?」
「まだまだ飲み足りない」
彼は小さく笑った。
シェイカーに氷を落としながら、夕子さんは言葉を続ける。
「ギムレットは、ライムジュースをラムやジンに合わせて飲むのが始まり。
イギリス海軍の軍医ギムレット卿が、水夫たちの壊血病予防のためにライムを用いたのが由来とされているんですよ。
チャンドラーの小説では、その一杯が“人生の苦さ”と結びつけられて語られています」
シェイクを終え、グラスに注がれた透明な液体からは、爽やかなライムの香りが立ちのぼった。
「ビターズにも、まだ早いわね」
夕子さんは微笑みながら、常連の前に一杯を差し出す。
男はグラスを手に取り、静かに口をつけた。
酸味と冷たさが、夏の夜の熱を削ぐように広がっていく。
その姿を眺めながら、僕は思った。
時の流れを忘れさせる一杯は、ただの酒ではなく――
言葉と記憶が織り重なる、ひとつの物語なのだと。
あの夜のギムレットは、まさにそうした余韻を残していた。




