”Memories of a Gin & Tonic Part 0”
——追憶のジントニック
開店前の静寂を破るように、扉が小さく軋んだ。あの夜、初芝さんは黒いカウンターの端にそっと腰を下ろし、細いメタルフレームの眼鏡越しに店内をきょろきょろ見回していた。狭い洞窟の奥行きを確かめるかのような、その視線は忘れられない。
「お飲み物は?」
と尋ねると、初芝さんは一瞬戸惑い、緊張した指先でグラスの縁を触れた。
「ビフィータのジン・トニックを…お願いします」
名前を指定する声には、好奇心と覚悟が混じっていた。
氷をつぶすピックの金属音、グラスを冷やす水滴の落ちる音、トニックを注ぐしゅわりという音──
静かな調べが店内に広がる。私は迷うことなく、いつもの所作でグラスを整えた。氷をカチ割り、グラスをきゅっと冷やし、ビフィータのジンを注ぎ、トニックで満たし、レモンをひと切れ。
初芝さんは眼鏡の奥でじっと見詰め、グラスを受け取ると目を閉じた。
凛とした苦味と、柑橘のほのかな香り。彼の頬に、わずかな安堵が浮かんだ。
「…美味しいです」
そのぽつりと呟く声に、私は眉を動かした。
初めての客には、それだけで十分だった。
それから何度も、初芝さんはこのカウンターでジン・トニックを味わった。
眼鏡は曇らなくなり、緊張の色もすっかり消えたけれど、あの夜のときめきと好奇心を、どうか忘れないでいてほしい。
彼の小さな「はじめて」が、Bar「RAIN」の扉を開いたのだから。