"Never say goodbye over a Martini."
カウンターの向こうで、彼女は静かに言った。
「マティーニをお願い」
その声の奥に、かすかな翳りが見えた。
隣に座っていた女性客も気づいたのだろう、軽く首を振りながら小さく笑った。
「さよならに、マティーニは禁物なのだけど」
私も一瞬だけ手を止めた。
この酒は強く、鋭く、余計なものを一切混じらせない。
別れの場面に差し出せば、その強さが時に心を締めつけることもある。
それでも——求められた一杯には、その人だけの物語がある。
冷やしたグラスを取り出し、ジンとドライベルモットを静かにステアする。
氷の擦れる微かな音と、レモンピールをひねった瞬間の香りが、
沈黙の中に淡い輪郭を描いていく。
言葉は要らない。
この沈黙は空虚ではなく、ゆるやかに満たされていく器のようだった。
淡く輝く液体を注ぎ終え、グラスを彼女の前に置く。
「これがいいのよ」
彼女はそう言って口をつけ、目を閉じた。
その表情は、ほんの一瞬だけ、凪いだ水面のように穏やかだった。
強さが心を癒やす夜もある。
マティーニの静かな刃が、沈黙を切り開き、
その奥に隠れていた安らぎをそっと露わにしてくれる——
私はそう信じている




