Rain Drop
もう、あの店はない。
いつ閉まったのか、正確な日付すら知らない。
張り紙ひとつ残さず、あの黒い扉は、ただ静かに開かなくなった。
Bar「RAIN」。
東京の片隅、雑居ビルの三階。
無機質な階段を昇った先にぽつんとあった、カウンター七席だけの小さなバー。
黒い壁に囲まれた、洞窟のような空間。
控えめな照明と、流れるジャズ。
扉を開けるたび、音のすべてが少し遠のくような気がした。
カウンターの向こうに立っていたのは、雨沢夕子さん――誰もが彼女をそう呼んでいた。
無駄に笑わず、媚びもせず、必要なときだけ、必要な言葉を差し出す人だった。
でも、彼女の作る一杯には、決してレシピに書かれていない何かが込められていた。
ライムの苦味に滲む静かな優しさ。
ブルーキュラソーの青に沈む、深い夜の余韻。
僕も、あの店の常連のひとりだった。
決まった曜日に訪れては、グラスを傾ける。
他にも、決まった時間にふらりと現れる男や、甘いカクテルをこよなく愛する女性。
名前もろくに知らないまま、隣り合って飲んでいた。
彼女は、決して多くを語らなかった。
僕たち客も、自分のことを滔々と話すことはなかった。
けれど、カウンターに並んだ常連同士、グラスを挟んで交わす会話には、くすぐったいような温もりがあった。
近況をぽつりと漏らせば、冗談がひとつ返ってくる。
レモンの輪切りを眺めながら、仕事の愚痴にひと笑いする夜もあった。
沈黙は沈黙で心地よく、言葉は言葉でたしかに沁みた。
音楽とグラスの音のあいだに、
言葉よりも静かなものと、言葉そのもののあたたかさが、ゆっくりと満ちていた。
やがて「RAIN」は、ひとしずくのように、静かに街から消えた。
看板も、別れの挨拶もないまま、ある日ふと、そこに行く理由がなくなっていた。
今でも思い出すのは、彼女が最後に出してくれた一杯。
ブルーキュラソーとバイオレットが溶け合った、あのカクテル。
「名前は?」と訊いたとき、彼女は少しだけ目を伏せて、ぽつりと――
「Rain Drop」と言った。
それが、あの店で飲んだ、最後の一杯だった。
あれから幾つもの季節が流れた。
けれど、雨の夜になると、ふとあの店の匂いが蘇る。
煙草の煙、柑橘の香り、カウンターの木の冷たさ。
すべてが、もう二度と戻らないものとして、確かに胸の奥に残っている。
『Rain Drop Memories』。
それは、いまはなきBar「RAIN」で交わされた、いくつもの静かな夜の断片。
彼女と、客たちと、そして雨音だけが知っている、記憶のしずくたち――。