請求書
意識を取り戻したとき、僕は賃貸マンションの自宅、四階にある六畳部屋の布団に横になっていた。
現状把握もままならない中、僕がまずしたことといえば、口元のヨダレを拭くことだった。
「どんなときも冷静に。うん、冷静に。さて……寝るか」
「それは冷静なんかじゃなくて、ただ呑気なだけではないんです……?」
僕が枕の位置を調整したところで、聞き覚えのある声の高い女性の声がベランダからした。
ハッとベランダに目を向けると、奇妙なバーの常連客、レイナさんが手にライターを何本も持ったまま、ドン引きしたような顔をしてベランダに立っていた。
すでにレイナさんはドレスからパーカーとショートパンツに着替えていて、それがなおさら僕をギョッとさせた。
どういう経緯でレイナさんはここにいるのだろう。
そもそも彼女はなぜベランダにいるのか、それにどうしてライターを必要以上に持っているのか。
「何を……しているのか、教えてもらっていいかな」
「えっ……見れば分かりますよね?」
「だから何をしているって?」
「いや……だからこうやって――えいっ!」
レイナさんはライターの一本を――あろうことか、四階から地上に投げ落とした!
「あぁ!」
僕の悲鳴から間もなくして――運動会などでお目にかかるスターターピストルのような破裂音が轟いた。
「わーい♪ ちゃんと爆発しましたです」
「爆発……被害状況は?」
「道端で拾ったライター一本なのです☆彡」
「やめてくれよ、頼むから……」
「二本目、いきますです?」
「やめてくれ!」
僕は四つん這いになってベランダまで近づくと、ヨロヨロと立ち上がってベランダに素足で降り、レイナさんからライターを奪おうとした。
いくつかライターが、ベランダの床に散らばる。
悲鳴を上げるレイナさん。
そのとき初めて、僕はレイナさんから怒りを買ったのだろう、レイナさんは一本のライター以外はすべてベランダに落とすと、なんとそのライターを着火し、僕の手を標的に反撃したのだ。
「熱っ!」
たまらず僕はベランダから部屋に逃げこんだ。
ライターの火が当たった指を一瞥してから、僕は不機嫌そうな様子のレイナさんを凝視する。
レイナさんは膨れっ面になると、まるで静止した僕が悪いかのように「せっかく遊んでいたのに……もうっ! 邪魔はダメなのです」と言い、こちらにライターを向けてきた。
そのとき、ようやく僕は状況を飲みこめてきた。
「……まさか、きみ。いや、というかそもそも……これがハニートラップに遭う、ということ?」
レイナさんはライターを僕のほうに放り投げると、ベランダから部屋に戻り、掃き出し窓を乱暴に閉めた。
「ご想像にお任せしますです。特に私は何も悪いことはしていませんから。それに……そもそも私たち、取引しましたよね?」
「取引って」
「この世界を刺激的で面白い世界に変えること――あなたが私に提示した条件は、それ。
私があなたに提示した条件は、私と遊ぶこと。
それぞれの条件を互いが飲んだ時点で、私たちのあいだでは取引が成立したのです♪」
「……?」
「分かりましたです?」
僕は鼻で笑うと、「うん、分かってる。要は、最近のハニトラはレベルが低いんだよね」とわざとレイナさんを煽った。
案の定、レイナさんは怒りをあらわにし、自分のトートバッグと思われるものからスマートフォン(バーのときに使っていたものとは別の端末)を取り出すと、一枚の請求書のような画像を見せつけてきた。
下手くそな字と数字で埋め尽くされていて、最後に書かれていたのは「合計一千万円」という文字。
「これ、バーの請求書、です」
「……そ、そんな偽りだらけの請求書、ドブにでも捨ててしまえ!」
「そんなことをしたら、あなたの死体が東京湾に沈められますです」
「怖っ」
レイナさんはニコッとほほ笑む。
「そうなりたくなければ、期日内までに絶対に払ってくださいです♪」
「一千万円を……期日内に払う?」
「無理ですよね」
「無理です」
僕は涙目になり、首を何度も横に振った。
「なら、どうします?」
「ど、どうしましょう……?」
「答えは簡単です」
「そうか、なら良かった」
「修哉さんの友人のみなさんに、一千万円を払ってもらうのです♪」
「ふむ……!」
顎に手を当て、考えるふりをし、青ざめる僕。
「もうすでに、修哉さんの携帯のSNSに登録されているおバカそうな友人さんに、私からチャット送りましたです♪」
「ほう……」
顔を上げた僕の表情を見て、レイナさんはにんまりと笑った。
「もうすぐかな、一人目のおバカさんがお金を持って現れますです♪」
「それって、あいつのことかな……まあいいや、それはさておき――警察とかに相談すればいいか、このこと」
レイナさんは指を左右に振った。
「だ・か・ら、それはやってはいけないルールなんですってば。――私たちは取引をした。それなら、それに則って動かないといけませんよね?」
「……その取引は絶対じゃないし、ただの口約束に過ぎない。なんの効力も持たない」
「さあ、どうでしょう?」
次にレイナさんが見せてきた画像には――ショッキングな画像が。
「……これ、僕?」
「はいです♪」
「でも、僕はきみにそんなわいせつなこと、してないよ……?」
「もちろん、加工写真です。私もあなたから実際にそんなことをされたら、ただでは済ませませんし」
「……なんで、よりにもよって僕を狙ったの?」
レイナさんは首をかしげると、ケラケラと笑い出す。
「何がおかしい」
「だってぇ、修哉さんったら、自分からあのバーに入ってきたくせして、よく言うなぁ、って思って。
……自己防衛できなかったあなたがすべて悪いです」
「そんな……殺生な!」
そのとき、この1DKの部屋に、チャイムが鳴り響いた。