服を取り換えて
お嬢さまは、ちっとも願いを言おうとはしませんでした。
悪魔はといえば、諦めずに付きまとっていました。
ある街に立ち寄った時、お嬢さまは少しの食べ物を買っただけで、宿も取らずに街を出てしまいました。
ぼそぼそしたパンを、歩きながら口に押し込むお嬢さまに、悪魔は囁きました。
「温かい食事を、お腹いっぱい食べさせてあげるよ……魔法で」
「……ふーむ」
こんな時、お嬢さまはいつも「ふーむ」と言うのです。
それは五つしかない願いを、今使うべきかどうか、考えている時なのでした。
そして必ず「これしきの事で願いは言えませんわ」というのです。
五つしかないのに、もったいないと。
「けちんぼなのか?」
「失礼な! ……わたくしは思慮深いというのですわ」
「思慮深かったら、何か有益な願いを思い付くんじゃないか?」
「有益な願いって、例えばどんなですの?」
「えっ、世界平和とか……」
「悪魔がそんなこと言ったって、説得力ありませんわ!」
このようなやりとりをしながら、二人は旅を始めました。
◆◇◆
二人は、紡績工場が立ち並ぶ町にやって来ました。
「紡績」というのは糸つむぎのことです。植物や虫や動物から取った短い毛や、毛みたいな物を、縒り捻じって長い糸にするのです。この町では羊の毛を糸にしていました。
お嬢さまは食堂には入らず、労働者が利用する店でお弁当を買い求めました。
食べ物を買えるお金は持っているんだな、と悪魔が思っていると、お嬢さまは「んっ」とお弁当の包みを一つ悪魔に突き出しました。
悪魔は、何が起こったのか分からずに困惑しました。
「……もしかして、くれるのか?」
「そうですわ。わたくし一人で食べてたら、何だか後ろめたいのです。アクマが普段何を食べてるのか知りませんけど、元は人間なのでしょ?」
「まぁ、そうだけど……」
答えつつ、悪魔は思いました。
このお嬢さま、もしかして意外にお人好しなのではないか? と。
……そこに付け込めば、願いを言わせることが出来るかも知れない――。
ガサガサと包みを開けると中身は、バターの染みたホカホカの蒸かし芋と、おまけ程度の小さなベーコンと野菜の漬物でした。
悪魔は目を見開き、ごくりと喉を鳴らしました。
思えば……人間だった頃は飽きるほどに贅沢な食事の限りを尽くしていたのに。
あの頃から比べれば、こんなに貧相な蒸かし芋が美味しそうに見えるなんて。
人通りの無い橋の袂で、二人は蒸かした芋を食べ始めました。
一口食べた瞬間、あまりの美味しさに悪魔は全身の毛が逆立つのを感じました。
もう一気に貪ってしまいたいけれど、同時に、この至福の時を少しでも長く堪能していたい……。
「……ところでアクマは普段、何を食べてましたの? わたくし以外の人には姿が見えないみたいですし……人様の食べ物をくすねてましたの?」
「馬鹿言うな! 盗みなんかするか! ……草とか食べてたんだよ」
「まあ! でも冬は? 草は枯れてしまうでしょう。根っこを掘ってたんですの? でも冬は地面が凍って硬いし……」
「冬は……木の皮を剝がしたり、朽ち木を崩したりすると、越冬しようとしてる虫が出て来るだろ。柔らかいのなら良いけど、お腹が減ってる時はしょうがないから硬いのでも」
「もう結構。最悪ですわ。食事中に何て話をしてくれるんですの。おえっ」
「おーまえが聞いたんだろうが! ぼくだって話したくなかったのに!」
◆◇◆
そんな言い合いをする二人を、誰かが見つめていました。
それはお嬢さまと同じくらいの年恰好の少女でした。この寒空にぼろの薄着で、指をくわえてお嬢さまを見ていました。
普通の人には悪魔が見えないので、少女にはお嬢さまが一人で騒いでいるように見えたのでしょう。
ふふ、馬鹿め。恥をかいたな……と悪魔はこっそり笑いました。
「まあ。――、……」
お嬢さまは、自分たちがやって来た方の、工場が立ち並び料理や酒を出す店の灯りが絶えない町を見やりました。
そして、少女が渡って来たであろう橋の向こう、灯りが一切見えない真っ暗闇の下町に視線を移しました。
最後に、正面の少女を見つめ返しました。
ここぞとばかりに、悪魔はお嬢さまに囁きました。
「あいつ、寒そうな格好してるぞ? お腹も空いてるかも」
「……そうですわね」
「あっ、でもこんな時に魔法があれば……困ってる人を助けられるかも!」
「その通りですわね」
やっぱりこいつお人好しだ! 悪魔は喜びました。
何もお嬢さまの願いを探って、叶える必要なんかない。
別の困ってる奴にお嬢さまを引き合わせて、そいつの願いをお嬢さまに叶えさせれれば良いんだ! そうすれば五つの願いなんてあっという間……。
――しかし、
「これしきのことで、願いを使う必要なんてありませんわ!」
「えぇ!?」
お嬢さまは、食べかけの自分の芋を半分に割って、片方を少女に渡しました。
戸惑う少女を前に、腰に手を当ててお嬢さまは言いました。
「食べなさい! わたくしからの施しですわ!」
「…………………」
少女は施しとはっきり言われたのが気に障ったのか、むっとした表情でお嬢さまを睨みました。
「施し」というのは本来は良い意味の言葉なのですが、皆が互いに平等な立場だと認識している社会の中で、この言葉を使う時には注意が必要です。
案の定、少女はせっかく貰った芋を地面に叩きつけようと、腕を振り上げました。
お嬢さまは、その腕を抑えて言いました。
「悔しくても食べなさい。捨ててはダメ。あと……服を脱ぎなさい」
「っ!? ? ……?」
混乱する少女の目の前で、お嬢さまは自ら服を脱ぎ捨てていきます。
悪魔は思わず、お嬢さまの耳元で叫びました。
「お、お前なにやってんの!」
「うるっさいですわ! 服を取り換えるのです!」
少女は、見えない誰かと喋っているお嬢さまを訝しみました。
悪魔が見えない人にとっては、お嬢さまは独り言を言ったり、突然に怒ったりする人に見えるのです。
「……あ、あの、誰と喋ってるの?」
「貴女は芋を食べ終わったら、わたくしの服を着て、あっちのほうへ行って仕事を探すのです!」
お嬢さまは、びしりと橋向こうの明るい町を指差しました。
少女は、おそれるような眼差しで、指さす方を見ました。
◆◇◆
「――なぁ、何であんなことしたんだ? 服も取り換えちゃってさ」
「あの子、わたくしが『施し』って言った時、悔しそうでしたわ。だから……少しは小奇麗な身なりをしてれば、仕事が見つかるんじゃないかと思って」
「お前は反対にみすぼらしくなったけどな! けどぼくの魔法なら……」
「へっちゃらですわ、これくらい」
はあっ、と息を吐いて両手を温めるお嬢さま。
悪魔も「あっそう」と突き放しました。強がりめ。勝手にしな。
――二人の旅は続きます。