星を五つ落とす魔法
――昔のお話です。
あの頃は街灯が無かったものですから、今よりも夜の闇がもっと深くて、闇夜の中を進むには、ゆらゆらと両手をさ迷わせ、つま先でじりじり足元を探りながら、水をかき分けるように歩かなければなりませんでした。
その分、頭上を見上げれば、満天の星空を拝むことが出来ました。空が曇っていなければですが……。
◆◇◆
ある国の王子は、明日が来るのが憂鬱で仕方がありませんでした。
王子は顔立ちが整っており、幼いころは天使のようだと、褒めらておりました。
けれど中身はというと、勉学も武術も、凡庸かそれ以下でした。
明日には、国をあげての武芸の腕試し大会があるのです。剣に槍、弓に馬術――そのどれも腕に覚えのない王子は、明日が来るのが嫌でたまらないのでした。
要は、王子は恥をかきたくなかったのです。
窓辺に頬杖をついて、明日が来なければ良い、と考えている王子の背中に――何者かが声を掛けました。
「――その願い、叶えて差し上げましょうか?」
王子はびくりとして振り返りました。
物思いにふけりたかったので、人払いをしていました……誰も居ないはずなのに。
王子が振り返った視線の先には――醜い生き物がいました。
肌は青く、額の左右に一対の角が生えていて――猫背で。
両手を組んで、卑屈にこちらを窺っています。
悪魔みたいなやつだ、と王子は思いました。
「……お前はどこから入って来た。兵士を呼ぶぞ。動くんじゃない、さもなければこの剣で――、」
王子が腰の剣をスラリと抜くと、悪魔はさもおかしそうに笑いました。
腹を抱えて、節くれだった枯れ木みたいな指を王子に指さして。
面食らう王子に、悪魔は言いました。
「『この剣で』って、どの剣で? あっはっは……武芸の大会で恥をかきたくないと思っている王子が!」
王子は顔を真っ赤にしました。
けれども、言い返すことは出来ませんでした。
悪魔の言うことは、何も間違っていないからでした。
「王子様、あっしのことが見えるし、声も聞こえるんでしょ……あっしはそんなお人が現れるのを、ずっと待ってたんでやす」
「……いや、ぼくは悪魔の言うことなんか」
「やいやい、遠慮なさんな王子様、試しに願ってごらんなさい。悪魔はどんな願いでも叶えられるんですぜ、星の数ほど! ……ただし一人につき五つ」
――明日が来なければ良い。
王子はそう言いかけましたが、ためらいました。
言いかけた途端、悪魔がニヤリと笑うのを見たからでした。
どんな願いでも――だったら駄目だ、悪魔に破滅を願っては。
王子はまだ、自分が賢いつもりでいましたので、言いました。
「……ためしに一つ。ぼくをこの国で誰よりも強い勇者にしてくれ! 剣も槍も弓も馬も、自在にあつかえる戦士に!」
「もちろん出来ますとも! 脇目も振らずに敵を屠る、命知らずの戦士に、王子を変えて差し上げます」
「い、いやそうじゃなくて良い。適度で良いんだ。ちょっと腕試しの試合に勝てるくらいの強さで……! ぼくを強くしてくれ!」
なぁんだつまらんですな、と悪魔は言いました。
そして、ためしとはいえ一回は一回ですからね、とも言いそえました。
悪魔と出会った王子の願いは、残り四回になりました。
王子は武芸大会に優勝し、皆に褒められました。
そしてこの夜、星が流れ落ち、夜空の星は一つ少なくなりました。
◆◇◆
誰よりも強くなった王子は、皆の尊敬を集めていました。
けれど腕っぷしが強いだけでは、平和なこの国では、誰もが慕ってくれるわけではありません。
剣や弓が上手いだけでは、幸せには成れないのだな、と王子は思いました。
幸せに……そうだ、飢えというものが無ければ、それは幸せに違いありません。
王子は傍らに控える、王子にしか見えない悪魔に言いました。
「悪魔よ、食べ物をくれ!」
「食べ物……はて、パンのことですかな? そんな願いで良いので?」
「ばか、パンなんかいるか! 全ての食べ物だ! それらをいつでも取り出せる蔵を建ててくれ!」
「なるほど、世界中の食べ物をいくらでも……よろしいですとも」
悪魔は、一夜にして蔵を建てました。
そこには上等の麦や豆はもちろん、世界の珍味がぎっしり詰め込まれており、王城に住まう人々のお腹を満たしました。そして、蔵は決して空になることはありませんでした。
その夜、星が流れ落ち、夜空の星は一つ少なくなりました。
◆◇◆
王子は、それでも満足することが出来ない自分に気がつきました。
力があり、尽きぬ食物がある……何が足りないのでしょう。
そうか、いくら強くて財を持っていても、知恵がなくては格好がつかない……。
賢いつもりの王子は気付き、直ちに悪魔を呼びました。
「悪魔、悪魔! 僕の頭を良くしてくれ!」
「ええと、それは……どんな風に?」
「分かるだろ! 困ってる人から相談を受けた時、恥をかかないよう……違う、誇りを保てるように、助言を出来る知恵をくれ!」
「よろしいですとも。でも……膨大な知恵で王子様の頭が破裂するのが心配ですので、この指輪にすべての知恵を込めておきました」
「うん……?」
指輪には、この世の全ての知恵が詰まっていると悪魔は言います。
王子が指輪をはめている間は、全ての知恵を得られると。
ただ、頭が破裂するかも知れないので、ずっと着けているのはおよしなさい、と悪魔は言いました。
王子は悪魔の言う通りにし、臣下の言うことを聞く時にだけ、指輪を着けていました。
それによって、王子の名声はますます高まりました。
そして、夜空から星がひとつ流れ落ち――、
「王子様、願いはあと二つですぜ」
悪魔がそう言いました。
◆◇◆
王子はまだ満たされていませんでした。
力も、尽きぬ食べ物も、智の指輪も手に入れたのに……。
何が足りないのか……そうだ、と王子は思いつきました。
「悪魔、悪魔よ! ぼくに永遠の若さをくれ! 皆はぼくを天使みたいだって言うんだ。老いて美しさを失うのは惜しい。だから……」
「願いはこれで四つですが、本当にその願いでよろしいので?」
「もちろんだ!」
王子は四番目の願いを悪魔に叶えて貰いました。
また、夜空から一つの星が流れ落ちて消えました。
◆◇◆
……王子は何もかもがつまらなくなりました。
腕試しをしても自分と打ち合える者はいないし。
今さら食べてみたい物など何もないし。
知恵を褒められても、それは自分のではないし。
美しいと言われても、それは努力して得たものではない……。
悪魔は王子に囁きました。
「まだ一つ、願いが残っていますぜ」
「……何が言いたいんだ。もう、ぼくに欲しい物なんて無い」
「本当に? もう何も欲しいものがないのですか?」
だとしたら、それは幸せなのですか?
そう悪魔は言いました。
何もかも満たされて、欲しい物は何もない。それは幸せなのですか?
「うるさいな! だったらぼくにくれ! 欲するものを! 愛すべき誰かを! 夢中になれる何かをぼくにくれ! これで良いだろう! これが五番目の願いだ! 悪魔よ!」
王子がそう言った次の瞬間――、
「よろしいよろしい、大変よろしい! 承りました!」
悪魔は喜色満面に喜びました。
辺りにもやが立ち込め、王子の目の前には薄汚い小男が立っていました。
◆◇◆
小男は己の両手を見つめ、はしゃいで飛び上がりました。
「やったやった! ……人間に戻れた!」
何が起こったんだ。この男は誰なんだ。悪魔は何処に行ったんだ。
王子が動こうとした時、自分自身の手が眼に留まりました。
あれ、ぼくの指はこんなに細かったかな……、
そう思った時、知恵の指輪が抜け落ちて床に転がりました。
あれ、あれ……ぼくの指はこんなに爪が長かったか?
腕も顔も、こんなに毛深くなかった。
天使みたいだと言われてたのに、天使みたいだと……。
あははははっ、と目の前にいる小男が笑いました。
「王子様、今度はあなたが悪魔になる番ですねえ!」
「……何だって?」
「五つ願いを叶えたら、悪魔を代替わりするんですよ。次の悪魔はあなたです」
「聞いてないぞ! そんなこと!」
王子はそう言いましたが――、
悪魔だった小男は応えました。
「聞かれませんでしたからねえ! あっしは嘘は吐きませんでしたよ。でも聞かれなかったことには答えなかっただけですよ」
小男は言いました。
「悪魔の先達として助言をしておきますぜ。嘘は吐かねえことです。心は人でいたいならね……でも聞かれない事は答えなくて良いんですぜ。五つ願いを叶えたら、悪魔が代替わりすることを、あっしが王子様に教えなかったようにね」
「何を言ってるんだ……ぼくはどうなるんだ」
「王子様は悪魔になりました。人間に戻りたいなら、次の悪魔を探すんですぜ……あっしがそうしたようにね」
呆然と立ち尽くす、王子だった悪魔を背に、小男は去りました。
去り際に――。
「……この意地悪な魔法を最初に思いついた奴ってのは、よっぽど夜空の満天の星々がうっとおしくて、たまらんかったのでしょうなあ」
だから、こんな回りくどい魔法で夜空をいつか真っ暗にしちまいたかったんでしょうなあ。悪魔だった小男はそう言い、王子だった悪魔を嗤いました。
「あっしは故郷に帰ります。あっしのことを覚えてる者なんか居るか分かりませんが……それでも故郷なんで帰ります。それでは王子様、お元気で」
そしてまた、一つの星が流星となって消え去りました。
◆◇◆
――それから、王子だった悪魔の百年の旅が始まりました。