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最終話中編 ~忠山紗絵(ただやまさえ)~

明日無の前に立ちはだかる壁、それは母であり、宿敵。

――あんたは今日から明日無(あすむ)よ。


 産まれてすぐの私に向かって発した母の言葉は、今も不思議と覚えている。あの(すさ)んだ目が、罅割(ひびわ)れた唇が、渇いた笑顔が、脳裏からこびりついて離れない。体操座りで私を見る姿は、到底母が子に移すものではなかった。赤子の私でも解るくらいの野獣の眼。私がまだ言葉を覚えていないことをいいことに、母は数えるのも疲れるくらいの愚痴(ぐち)を私に吐き出した。


――これからね…。あんたは私のストレス発散のために生きていくの。あんな男の子供なんだから当然よね。


 …よく好きでもない男と結婚したものだ。金だけが目的のザ・金乞い女は、腹を痛めて産んだ私を、常にゴミを見る目で育てた。だが私は三歳になってから親の目を盗んで携帯のネットに接続し、いろいろなことを学んだ。言葉も常識も、親と子の関係も…嘘や真実が入り混じった世界の中で、私の家がどれだけおかしいかを段々と学び、理解していった。毎回親に野球ボールのように投げられ、傷がひどくなったら病院送り。治ったらまた別の虐待が始まる。…私は不思議に思った。どうして誰も助けに来ないのだろう。週に一度必ず大けがを負う赤子に、何故誰も声をかけなかったのか…。母はそういうことに関してはとても上手だったのだろうか…。


――あんたは死なせない。私がすっきりするまで一生生きさせてあげるわ…。あなたの明日は、ずっと私のもの…。


 母として、親として、この女は『地獄』そのものであった。本当に、よくここまで生きてこれたものだ。…そして今も…


「――――っむ!」


 私に明日はない。私に助かる術はない。親から逃げられるなんて考えられない。


「あ―――――――――さい!」


 だからこそ分からない。この先、この母の声を聴いた時、私はどうすればいいか。抗うか、従うか。抗ったところで子供の私が親から離れることはできない。虐待の証拠も、母が巧みに隠しとおしている中で、私が母に対抗できる術は万に一もないのだ。よく三歳のころにネットの知識を集めたものだ。だが、それ以降は母の痛みに耐えることだけを考えてきた。今更逃げる、なんて…できるわけが――――――


明日未(あすみ)!」

「!」


 電話の主の言葉を聞いた途端、明日無が硬直したことに驚いたおっさんこと(はる)(おう)は、明日無の肩を何度も揺らして「明日未(あすみ)」の名を呼び続けた。明日無という悲しい名前ではなく、明日未という「未知なる明日へ」という希望の名を。だが明日無は14年もの間、言われ続けた明日無が浸透しすぎて、自分が明日未と呼ばれていることを忘れていた。母に受けた地獄は、母の声、顔、母と示すものを見た瞬間、フラッシュバックされる。今や明日無の顔は大量の汗が流れ落ち、手足ががくがくと痙攣(けいれん)を続け、体は外界を完全に拒絶するように(うずくま)っていた。


「明日未。…もうここは、お前のもう一つの居場所だ。一時なら泊めることだってできる。…まあ家内が許してくれれば、の話だがな…」


 春王の隣のラーメン屋の店主釘(くぎ)(みち)は、少しでも明日無を安心させようと一つの提案切り出した。だが、明日未は唇をきゅっと()み締めると、頭を横に振って言った。


「大丈夫。…帰るよ。お母さんのところに…」


 そういった明日無の顔はどこか(はかな)げで、か細い笑顔を見せていた。一瞬もすれば散る花のように、明日無は精いっぱいの笑顔を春王と釘満に向けた。それを見た春王はぎゅっと胸が締め付けられる気持ちになった。やっとここまで逃げてこられた。そんな少女が死地に向かうような顔を見せている。こんなことがあっていいのか。不意に春王の拳が震えた。


 違う――。自殺まで考えた少女が、こうして社会の中で少しずつ歩み始めようとしている。人と出会い、人から学び、共に経験をする。今まで味方が一人もいなかった彼女が(おび)えているのなら、大人の私が出来ることは…たとえ幽霊であっても出来得ることは………


「明日未…」

「…」


 春王は明日無の消え入りそうな顔を見つめて、更に言った。


「私も途中までお供したいのですが、よろしいでしょうか」

「…え?」






 それから十分も経たずに『弾丸ラーメン、百発百中』の店を後にした。別れ際、店主・釘満に深々と感謝の礼をした明日無に、釘満は明日無の肩をガッと掴んで「頑張れよ」と言ってくれた。それが明日無の心と体に気持ち的な何かが入ってくる感覚がした。それは不純物かもしれないが、決して悪いものではない。そう思った明日無は、敢えてそれを排除せず、「はい」と気合の入った返事をして、家路に向かって歩き出した。


家までの距離、おおよそ三キロ。明日無にとってその距離は長いのか、短いのか。隣に寄り添うような形でついてきた春王は、今まで見てきた明日無を思い出しながら、言った。


「明日未」

「…なに」


 明日無はこっちに振り向くこともなく、平坦な声で答えた。春王は構わずに続ける。


「いつか子供は親離れしていくものです。そしてその時期は皆バラバラ。私自身もありました」

「何歳だった?」

「…十六です」

「へえ…結構遅いじゃん」

「面目ないです」


 他愛もない会話。明日無は少し間をおいて、答えた。


「私は三才」

「…えぇ!?」

「当然でしょ? あんな親に育てられたんだから…産まれた頃から危機感はつくものよ(まあ偶然ネットが見られたお陰だったけど…)」


 春王の()(とん)(きょう)な驚きに、明日無はにんまりと自慢げに答えた。明日無としても、当時興味本位で母がネットを見ているマネをしていてよかった…と心の底から当時の自分に感謝した。…もし異常だと思わなかったらどうなっていただろうか。いや、考えないでおこう。どうせその先は、完璧な母の人形として生きていくのだろう。だからこそ、私は不幸にも死を望み、こうして変なおっさんに出会ったのだ。


 家まであと百数メートルに差し掛かった。だがおっさんは私の元から離れない。途中とはいったいどこまでだろうとは思ったが…まさか家まで付いてくる気だろうか…。そう思った明日無は、春王に聞いてみた。


「もういいでしょ? さっさとどっか行っちゃえば?」

「…いえ。もう少ししたら離れますので…」


 春王のどこかはっきりしない答えに、明日無はふと春王の方を振り返った。すると春王の顔はどこか険しく、難しそうな顔で辺りを(くま)なく見渡していた。理由は気になる。が、それよりも自分のことを考えよう。母に会ってどうするか。抗うか、従うか。家にたどり着くまでに考えなくてはいけない。明日無は拳に力を入れ、遅くなる歩を無理やり早めた。






「あすむー」


 どこかの一軒家。周りの家とは格が違うといわんばかりの豪華(ごうか)絢爛(けんらん)な石造りの家は、どこか生気を感じられなかった。お姫様が住んでいそうな色とりどりの華舞う家は、どこか荒れたような、悲しそうな(おもむき)(かも)し出していた。その家の中でただ一人、忠山(ただやま)紗絵(さえ)が玄関の前でへたり込むような姿勢で床に座り込んでいた。


「どこー?」


 娘を失った母の声に力はなく、健やかに過ごしてきた昨日を懐かしむように娘の名を何度も虚空へ投げかける。今までこんなことはなかったはずだ。

 明日無が何時間たっても帰ってこない。今日の朝六時から、午後三時。九時間もの間どこで何をしているのやら…。逃亡を知った当初はまだ、見つけたらどうお仕置きをしてあげようかと考えていた。が、昼を超えると(ようや)く事の重大さに気づき始めた。娘を一定時間傷つけないと、紗絵の体が発疹を発症し、激しく震え始め、動悸(どうき)が激しくなる。立っているのも出来なくなり、こうして座って何時間か経過したのだ。


「あすむったらあー…」


 誰もいない、ただそこに置かれた昔の娘の靴に向かって泣いた。涙は紗絵の武器だ。娘にすらそれを使ってきた。今もまだ通用していると自負しているが、どれだけ泣いても娘は帰ってはこない。


「帰ってこないとわたし、どうにかなっちゃうよぉ…」


 これならどう? そう言わんばかりに()いた。わんわんと、まるで泣きじゃくる赤子のように。これで来なかったら本当に壊れるかもしれない。ああ、頭が割れる。息が出来ない…くらいに(むせ)んで苦しい。私が元気になるには明日無が必要だと改めて実感する。そうだ。明日無だけ、明日無だけが私をすっきりさせてくれ――――


ガチャ…


 玄関のドアノブがゆっくりと回る。その後ギギィ…と重いドアがゆっくりと開いていく音が聞こえてくる。紗絵はじーっとドアを凝視したまま、待っていた。あの子が自分の胸に飛び込んでくるのを。そしてごめんなさいと(むせ)び泣きながら詫びる情景(さま)を想像しながら、いつでも抱きしめられるように両手を広げて待っていた。

 だが、そんな未来はやってこなかった。確かにドアを完全に開いて現れたのはわが娘・忠山明日無、本人である。だが明日無の顔は泣いて詫びる風もなく、(あわれ)みの目を母親に向けながら玄関の前に立っていた。紗絵は想像していたものとは違う明日無の行動を前に、促すように畳みかけてみた。


「明日無…お母さんよ? 心配したのよ? さあ…私の胸に――――」

「お母さん」


 明日無は母の言葉を(さえぎ)るように、母の名を呼んだ。紗絵は惑うように、瞳孔(どうこう)を開いて明日無を凝視すると、不意に明日無の口が開かれた。


「私を産んでくれてありがとうございました。今まで生きてこられたのは、何もかも全てあなたのお陰です。本当に今までありがとうございました!」


 明日無は段々と声を大きくしながら、母に向かって深々と頭を下げた。感謝以外の何物でもない言葉に、紗絵はどこか違和感を抱いた。「今まで」…とは、一体どういうことだろうか…? 紗絵は娘にありがとうと言われた喜びとその違和感で、頭が混乱していくのが分かった。だが(ひと)()ずだ。一先ず、娘にこう聞いてみることにした。


「ええ。嬉しいわ…明日無。………でも、おかしいわね? どうしてこれが最後みたいなこと言ってるの? 私たちはこれからも一緒じゃないの? ねえ…明日無……」


 紗絵はへたり込んだまま、ずる…ずる…と手足を引きずりながら明日無に近づいていく。音で分かる。現実と妄想の区別がつかないんだ。と明日無は思いながら頭を上げなおすと、すぐさま母に向かって五指の手を(かざ)して、語気を強めて言い放った。


「これ以上近づかないで…」

「え」

「私…初めて家出したの。それでさ…初めて本屋に行って本を読んだの。面白くて、つい全部読んじゃった。それで今度はラーメンのお店に行ったの。美味しかった。(よだれ)って本当に美味しい料理の前なら出せるんだなあって思ったの。それでね…初めて店員さんになったの。ラーメンを払うお金もなかったから働けって、店主さんに言われたの。払えなかったら、働かなかったら警察に連行されると思って働いてみたらさ…すっごい大変だったな…。あ、でも凄く勉強になったよ。いろんな人がいるんだな…って。でも私は独りじゃなかった。店長さんや…いろいろな人に助けられて、無事やり遂げたんだ。………楽しかったよ。今日一日、私は自分の力じゃないけど…生きてるって思ったんだ」


 明日無は時折目を閉じながら、今日一日あった出来事を紗絵に話した。一方的ではあったけれど、明日無は笑ったり、泣いたり、困ったりしながら、最後まで言い切った。紗絵は終始口だけがぱくぱくと動いていたが、ある疑問が浮かんだ。


「…明日無。それで…結局何が言いたいの?」


 紗絵は、一向に見えてこない明日無の真意に戸惑っていた。だからどうした。他人は所詮他人。親子には勝てない。どんなに他人と仲良くしていようが、結局親が()べてだ。子供だけで何が出来る? 親がいなければ何もできない。何かを成しえることさえできないではないか。たった一日他人と出会っただけで親と同格になったつもりなのだろうか。

 すると、明日無の手が小刻みに震えているのが分かった。


「これでも分からないの? あんたが近づくだけで…こうよ? 普通こんなになると思う? ねえ、お母さん…」


(はなは)だしくなったものだ。娘は汚れてしまったのだ。誰かも知らない輩に、わが娘の体はこうなった。愛する母に近づくことも出来なくなった。哀れな娘…。

ならば、やることは一つじゃないか…。


にやりと大きく笑った紗絵は、ちらりと明日無を一瞥(いちべつ)すると、背後に置かれた固定電話を瞬時に掴んだ。だが何かがおかしい。…掴み方だろうか。紗絵は受話器の方ではなく、電話本体を担いでいるように見える。どうして…?

と、明日無が推理しようとした直後、


「…!」


 明日無が気付いた時には、既に固定電話は明日無の真正面にあった(・・・)。…いや、あったんじゃない。『投げられたのだ』。母の手によって…。だが明日無は至極冷静に頭を右方に傾けると、固定電話は明日無の肩の上を素通りし、すぐ後ろの玄関のドアに「バンッ」と激しい衝撃音を立て直撃した。


(ふう…危なかった。これで――)


 明日無が安心しきった瞬間、電話の尻に伸びていた電源コードが蛇のように(しな)いを上げて、明日無の左の(ほお)に直撃した。瞬く間に顔の左半身から激痛が走る。数秒経つと、頬は赤く()れ、コードの(あと)がついた。今日死ぬつもりだったのに、今日は傷つかないつもりだったのに…。明日無は何故自分がこんな行動をとっているのだろうかと、今更ながらに後悔した。こうなることはわかっていたはずだ。頭のねじがぶっ飛んだ母に何を言っても聞き入れてはくれないことくらい。

 

でも。…それでも、言いたかったのだ。自分がすっきりしたいから…ただそれだけのために。その結果、激痛は残ったが、明日無の顔はどこかしこりが取れたように、晴れ晴れとしていた。


「何笑っているの…明日無。怖いよ…。私の明日無が可笑しくなっていく…」


 紗絵は怯え始めていた。明日無がたった数時間のうちに全く別人になってしまった。私だけの明日無はいなくなった。なった? なっちゃった? ……………いや、まだよ。

 紗絵の頭は壊れる寸前に踏みとどまった。そして不敵に笑みを作ると、明日無の方を見ながらこう言った。


「…明日無」

「…」

「友達…元気にしてるかしら――」

「え?」


 明日無は一瞬、母の言った言葉が分からなかった。友達という言葉をネットで理解してから、母の使う友達は違うのだと確信した。母の使う友達…楽しいことが続いて忘れていた。それとも体が悪夢を忘れさせていたのだ……ろ…………u


ガチャ…


「!」


 明日無は背後を振り返った。体から走る悪寒。よみがえる悪夢。…そうだ。そいつらは…母が差し向けた…


「どうも~」


 手下だ。


最終回全三話にあいなりました。はい。そうです。今まで二週間頑張った結果、こうなりました。決めたことは守らないといけないので、多分これが仕事だったらクビですね…。気を付けなければ…。ではもう最終話最後もあるので、ノンストップで読んでいただければ幸いです(常套句ですみません)。

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