~第八章~
それは小さな物音だった。だがそれだけで十分だ。今この場には全員が集っている。なら原因はひとつしかない。
(楼主か!)
二乃助とあきが勘付いたのは同時だった。だが、
「あき!?」
まさか体調を崩しているあきが真っ先に動くとは思わず声が裏返る。いの一番に駆け出したあきの後を慌てて追った。その後ろからカナと壮碁もついて来ているのがわかった。あきを追いかけながら出遅れた自分に歯噛みする。
(ずっと様子がおかしかった。ここで再会してからも、まるで自分が見つけて自分で殺さないといけないといった様子だった。……カナの手を汚したくないとか言ってたが)
本当にそれだけか?
(……ちっ、もっと考えろおれ。あいつの思考を読むのは得意だった筈だろ!)
あきは本当に、もしかしたら、この中で一番優しい奴かもしれない。まぁ本人は否定するだろうが。
(ただでさえ身体が心配だっつーのに!)
呼びかけても振り向きもしねぇ。この先にいるだろう楼主が脅威だとは思わない。だのになぜ急ぐ。あき。なぁあき。お前ひとりで何でも抱えるなよ。おれたちは家族じゃないのかよ! あき……!
「助けてくれぇ!」
あきが入って行った部屋から悲鳴が聞こえた。紛れもない楼主の声。
(間に合え!)
やめろ。おまえは何もしなくていい。おれたちと違って未来がある。おまえだけでも綺麗なまま。そう願いながら部屋に飛び込んだ二乃助だったが、そこで見た光景に絶句した。脳が現実を拒否したがっていた。――そこには楼主を前に血を吐くあきの姿があった――。
『あき!』
カナの切羽詰まった声に我に返る。
「っ……おまえ!」
あきは喉をヒューヒュー鳴らし、血走った目を楼主に向けていた。そしてまた咳き込む。
「おい! 大丈夫か!」
慌ててあきの身体を支える。それでもあきは楼主から視線を外すことをやめなかった。
「助けてくれ! おおそこの僧侶様! この女から儂を護って下され!」
二乃助は楼主を殴り飛ばしたかった。今一番苦しんでるのは誰だと思ってやがる!
壮碁も思うところがあるのか、一歩一歩、前へ歩を進める。
「はて? どなたからでしょう?」
「そこの三人だ!」
「は? じじい、てめぇおれが視えんのか?」
「こいつらはみな儂の命を狙っておる! そこの男は儂を目の敵にしておった!」
いや、それおめーだろ。と二乃助は呆れたが、あきの身体に障るやかましい口をとりあえず黙らせたかった。
「その女は昔儂を殺そうとした悪鬼で、後ろの遊女は祟りを振りまく怨霊よ!」
「原因が己にあるとは思われないのですか?」
壮碁の声が怒りを帯びていた。
「なんだと……ん? お前! あの時の若造か! そうか! みんなして儂を嵌めたのだな! ええい口惜しい!」
相変わらず傲慢で人の話を聞かない男だ。変わったのは外見だけか。よほどカナの仕返しが効いたようだ。十年経ったとはいえ、ここまで老けこむとはねぇ。特に目の下の隈が酷かった。よく眠れていないのだろう。ま、当然か。
「全部二乃助が悪いんだ……!」
へーへー、勝手に言ってろ。どうせ女将さんのことだろ。
「あいつが! 妻を誑かすから! だから殺した! 人の女房を寝取った男を殺して何が悪い!」
いや、寝取ってねーし、あと迷惑してました。こいつに誤解されたままでも構わねーけど、カナの前で言うんじゃねーよ。あきは元から誤解だって知ってっからいいけど。壮碁には、……どっちでもいいわ。
『兄様がそんなことする筈がないわ!』
「そうです! 二乃助さんは人妻に手を出さなくても女性に困らない人です!」
信じてくれてありがとうカナ。壮碁、おまえは後でタコ殴りな。
カナがすっと楼主の前に立つ。そして両手を宙に掲げた。この場面を何度も見て来たおれは、カナが何をしようとしているかすぐ察しがついた。
『兄様の死を嘲笑って観ていた人たちが許せなかった。だから同じ目に遭って貰いました。その中でも、……命じた貴方が一番憎かった。けれど、これでようやく終わりです。……わたくしの恨み、思い知るといいわ』
「待てカナ」
突然待ったを掛けたおれに、驚いたようにカナが振り返る。
『なぜ止めるの兄様』
「そりゃ可愛い妹に殺しなんてさせたくねぇからな」
『……初めてではないわ』
「それでもだ」
『でも!』
「悪いがそいつはおれにくれ。おまえはあきを頼む」
未だに苦し気に呼吸を繰り返すあきに気がつくと、カナの意識は完全に楼主からあきに移った。
『あき、ああ……っ、いったいどうしちゃったの』
復讐で我を失っていたのだろう。今にも泣きそうな顔でおれからあきを受け止める。
「二乃助……? お前、儂を?」
「別にあんたを助けた訳じゃねーよ」
そこをはき違えて貰っちゃ困る。ゆっくり楼主に近づく。
「よぉ、こうして話すのは久しぶりじゃねーか。元気にしてるみてぇだなあ?」
「なっ! この動かない足を見ても言えるのか! そこの女の仕業で儂は……!」
楼主は後退りながら続けた。背が壁に当たったところで、ダン! と、二乃助の右足が壁を蹴り破り、ヒィと小さな悲鳴が上がる。
「元気だろ? 生きてんのになんの不満があんだ? あ? うちの妹らはてめーに人生狂わされてんだよ。勝手に逆ギレしてんじゃねーよ」
失禁寸前の楼主と、冷たい笑みでそれを見下ろす二乃助の様子に壮碁がボソリと言う。
「二乃助さん、完全に悪者の図ですね」
「おめぇもついでに畳むぞ」
「すみません!」
二乃助はガシガシと頭を掻いた。くそ、ド天然野郎のせいで調子が狂った。
「おれが殺されたのは自業自得だからいい。誤解だけどな。けどそう思わせたこっちの落ち度だ。だがな、てめーはおれの死に様をカナに見せやがった。ガキの手で敵討ちに及んだあきを悪鬼と呼びやがった。おかげさんでさっきからずっとは腹ん中煮えくり返って仕方ねぇんだわ」
冷笑を浮かべながら二乃助は壁から足を引き抜くと、楼主の顔に正確に狙いを定めた。
「やめっ、やめ、」
「どーせおれも死人の身だ。これで痛み分けといこーや?」
「やめてくれ! 儂には……!」
この期に及んでも命乞いするつもりか。馬鹿が。二乃助が冷めた目で楼主を見た時だった。
「言うなぁああああああ!」
背後にいた筈のあきがおれを押しのけ楼主に迫っていた。心底驚いて後ろを見るとカナも予想外だったのか目を見開いて固まっていた。
「儂には娘がいるんだ……!」
――は?
おれもカナも呆然とした。
(じじいに娘? ここ十年の間に出来たのか?)
思った以上に動揺している自分に驚く。どんなに同情を誘おうと乗らない自信があったのに。そんな中、楼主に飛び掛かったのが、あきだった。
「卑怯者!」
そう再び叫んで、ゴホゴホ咳き込むあき。ツーと唇から垂れる血にハッとする。
「落ち着けあき!」
慌ててあきを止めようとした。これ以上無理をさせたら危険だ。しかしあきは、楼主の胸倉を掴んで離そうとしなかった。
「卑怯者! 卑怯者! 卑怯者!」
――それは慟哭に近かった。
あきは口元の血を乱暴に拭うと、突然楼主を押し倒した。元々上半身だけ起こしていた楼主は簡単に倒れ、あきがその首に手を当てた。
「聞きたくなかった! 聞かせたくなかった! よくも! それを命乞いに使うな! それで命を乞うな!」
あきの手は震えていた。今すぐ首を絞めたいのに、絞めるのを躊躇っているようだった。
「お前なんかすぐに殺したい! 本当は殺せる! いつだって殺せたんだ! お前は知らないから! 残された者の気持ちなんて! 知らないだろう! 死んだ方がマシだと思える痛みを! お前なんか知らない! 娘の為だ! 娘の為に今、我慢しているんだ!」
とうとう彼らにも知られてしまった。思った通り躊躇を見せた二乃助さんに絶望した。……安堵した己に絶望したのだ。殺したい。けれど殺せない。あの時からずっと葛藤していた。憎い敵の姿を見ればその葛藤も消えるかと思っていた。だがやはり駄目だった。悔し涙で視界がぼやける。これは病などではないのだ。
『だってね』
一年前の、あの時の会話が蘇る。
「そいつ、娘さんがいたんだよー」
「え?」
何を言っているんだろう。一瞬、目の前が真っ白になった。
「そん……な……」
「ほら、だからご主人には無理だって。なんだかんだで優しいもんあんた」
気を失いかけた。人から大事なものを奪っといて、あの男は……!
「……赤……兎。その娘は、幾つほどでしたか?」
「え? 俺ってそーゆーの鈍いんだけどなぁ。ああでも、ご主人と似てるかも! あ、歳がね! 向こうの方はおっとりふわふわしててご主人とは真逆な、」
「もう黙って下さい」
「訊いたのご主人なのにぃ!」
「そもそも私と近いってところからおかしいです。たかが子どもにそれほどの行動力があるとは思えません。大人が近くにいるならまだしも」
「ごっ主人ー。鏡見たらいいよー。あ、でも確かにその人以外にも何人か見かけたし、なんか村っぽかったかも」
「谷底に集落が? 初耳ですね。でもありえなくもない」
あの谷は吉原に近い。もし、逃げ出した遊女、もしくは不幸を嘆いて自ら身を投げた者たちがいたら。それも、一人や二人ではなかったら。そして奇跡的にも助かった者がいたのなら――。
(遊女の隠れ里か)
なるほど。それなら楼主が身分を隠したのも頷ける。しかし問題は奴を助けたという娘だ。歳が似通っているといっても、当時八歳だった自分よりは上だろう。それでも楼主とは親子ほどの差がある。どういう経緯で集落の辿り着いたかも気になるが、もしも、だ。娘に両親がいなかったら……。
「赤兎、もう一度お遣いを頼まれて頂けません? その娘さんの身辺を知りたいのですが」
「あ、それなら全部調べたよ。たぶん訊かれると思ってたからねー」
得意げに胸を張る赤兎を微笑ましい気持ちで見る。赤兎はどんどん成長していく。元から行動力はあったが、今はそれに加え機転も利くようになり、何より私の性格を熟知している。それがくすぐったくも嬉しく思う。
「ありがたいです。娘さんに子は? 両親はいましたか?」
「んーん。俺、旅人装ってその人と話したんだけどさー。その人も昔、崖から落ちたんだってー。なんか遊郭に売られるのが嫌で、抵抗してたらうっかりって。でもその時は草木が覆い茂ってて、奇跡的無傷に近い状態で助かったんだって。それでその、しゅーらく? ってとこで過ごすようになったんだって。んで、九年前、たまたま川に洗濯に行ったら男が流れて来てさ、助けて介抱してるうちに仲良くなったみたい」
「桃太郎か。そんな得体の知れない奴、わざわざ拾わず見送れば良かったのに」
「あっはは! ご主人じゃあるまいし!」
「減給」
「ごめんなさい!」
そんな軽口を叩きながらも、あきは胃がヒリヒリと乾いていくのを感じた。
「楼主のことはなんと?」
途端、ピタリと口をつぐむ赤兎に嫌な予感を覚える。
「赤兎」
「……うん。男は腰から下が不自由なんだって。たぶん落ちた時のだと思う。それで今も介護しながら一緒に過ごしてて……あー言いにくいなぁ」
「構いません。もう、大方の予想はついてます」
「……その男のこと、お父さんって呼んでたんだよ」
だと思った。ああ、吐きそうだ。何かが込み上げて来て咳き込む。最初は咳き込みすぎて喉が切れたのだと思った。
「ご主人!? 血が……!」
とっさに口を覆った手の平にべったりと血が付いていた。血相を変える赤兎に、心配はいらないと微笑む。
「大、丈夫、です」
大丈夫だ。これくらい。……心の傷に比べれば。
真実はあまりにも残酷で、徐々にあきの身体を蝕んでいった。
次の日も、その次の日も、あきは血を吐き、見世が呼んだ医者に診て貰うことになった。
結果、胃を悪くしていると、そして原因は精神的なものだと言われて納得した。ならば一生この苦しみを背負おう。何も知らない優しい娘から、たったひとりの父親を奪うのだから。
あきが吐血する時は、限って楼主を手に掛ける想像をした時だ。まだ見ぬ娘が、楼主に兄と姉を奪われた自分と重なってしまうのだ。死ぬ方より残される方が哀しい。この哀しみを、味わわせるのか? 昔の楼主のように、大事な人を奪って……、娘がいるなんて知らずにいれば良かった。そしたら迷うこともなかったのに……。
更に一年が経ち、一時的に吉原に戻って来た。道中は赤兎にとても心配を掛けた。今もきっと心配を掛けていると思うと居たたまれない。体調はここ一年で少しは良くなったと思っていたが、やはり楼主のことを考えるとたちまち目眩に襲われた。姉さんや二乃助さんと再会し、変わらず優しい彼らに安堵すると同時に、楼主の今を絶対に知られる訳にはいかないと思った。彼らは優しい。きっとあいつに娘がいると知ったら復讐をやめるだろう。けれどそれだと姉さんは救われないし、二乃助さんも報われない。だから殺るなら私しかいない。そう思った。胃が、ヒリヒリした。
口から血を流しながら罵倒するあきに、楼主は目が覚める思いだった。まるで、義娘が泣いているかのように見えたのだ。人生で初めて信用を置けた人間が義娘だった。大怪我で動けない己を嫌な顔ひとつせず介護し、父と呼ぶ愛しい子。初めは娘と別れたくない一心で死にたくないと思っていた。だが今は違う。あの子を残して逝きたくない。
「……お前は……」
本当にいつでも殺せたのだ。自分を。けれど、娘の為に見逃してくれていたのだ。
「すまなかった」
心から詫びた。二乃助でも桔梗にでもなく、このあきという女に。
「ありがとう」
娘の為に思い留まってくれて。娘を、哀しませないでくれて……。
あきの手が、そっと楼主の首から離れた。
『あき』
「……姉さん……二乃助さん……ごめんなさい……敵を、討てなくて……」
『いいのよあき』
叶絵があきを抱き寄せた。
「おまえが様子がおかしかった理由がやっとわかったよ。まったく、さっさと言やぁよかったんだ。それでおまえが苦しんでちゃあ本末転倒なんだよ。おれも、カナも」
不安げに見上げて来るあきに、二乃助は失笑する。本当にこいつは……。
「じじいとおまえを秤に乗せりゃどっちが大事か決まってんだろ」
「でも、私のわがままで……」
「おまえをそこまで苦しめたのはおれたちだ。むしろ悪かったな。残された、者、か……。きついな」
想像してたまらない気持ちになった。もしひとり生き残ったのが自分だったらと思うだけで死にたくなる。それをこいつは頑張って生きてくれた。もう、それだけで十分だ。強くあきを抱き寄せる。
「すまねぇな。ひとりにしちまって」
前にも言った台詞を、更に心を込めて言う。胸の中であきが頷くのがわかった。ホッと息をつき、そして続けた。
「せめてもの詫びだ。こいつはおめーに譲ってやるよ」
『兄様?』
二乃助は知っていた。あきがタダで済ませる訳がないと。いい話だなぁで終わった気分でいるのは楼主と壮碁くれぇだ。カナは除外だ除外!
案の定、未だ怒り収まらない様子のあきが顔を上げた。
「………………ます」
「ん?」
二乃助が楽し気にもう一度と促す。
「……百発殴ります」
瞬間、楼主は顔色を悪くし、二乃助は爆笑した。そうこなくっちゃねぇ! 幸いここは夢だ。現実に痕は残らない。
「そ、それでお前の気が済むなら……」
この時、楼主は怯えながらも、所詮は女の力だと油断していた。しかし、二乃助の不敵な笑みと、隣で合掌し南無と唱えている坊さんに戦慄を覚える。あ、早まったかも。だが時既に遅し、前言撤回しようとした瞬間、顎に走った衝撃に走馬灯を見た。
人間そう簡単に割り切れたら苦労しないってことですね姐さん。