~序 章~
ザク、ザク、ザク。
あきは無言で灰の海を歩きまわった。時折、力なく首を傾げてゆったり歩くさまは、まるで死人のようで、見ていた者たちは底知れぬ畏怖を感じた。眠らぬ街、吉原も、この場所だけが火が消えたように静まり返っていた。残ったのは未だ歩みを止めない幼子と、もうひとり。
「もう、やめて下さい」
たまらないといった様子で青年が口を開いた。好奇心で集まっていた人間はとっくに帰路に着き、未だ歩みを止めない少女を見守るのは彼だけであった。
青年の声にピタリと止まる少女。
「全て私のせいです。私を恨んで下さい。もう、探しても、彼女は……」
あきは、うなだれる青年をじっと見つめる。
「こんな、こんなつもりじゃなかった……っ! こんな、ことに、なるなんて!」
そのまま泣き崩れる青年の姿も、この一日で何度目にしたことか。やれやれといった様子で側に寄ると、顔を上げた青年を白けた目で見据える。
「じこけんおなら、よそでやっていただけますか?」
青年はポカンとした。おおよそ十も満たない子どもの言う台詞ではない。
「わたしはただ、このけしき、このかんしょくを、目に、はだに、やきつけている、だけです」
「……私を、恨うらんでは……?」
「あの人はかくごしていました。こうなることも。あなたはきっかけにすぎません。けれど」
あきは青年の胸倉を掴み、目線を合わせる。
「たとえ姉さんのたのみであろうと、わたしをゆうせんしたことだけは、ぜったいに許しません」
「……っ」
それだけ言って手を離す。青年は再び俯くと、涙をポロポロこぼし始めた。
「き、君は、これから、どうするんですか?」
「さぁ? どうしましょうかね」
というか、そもそも主導権は自分にはない。言ったところでわかるとも思えないから適当にあしらう。
「どうか、彼女の後を追うことだけはやめて下さいますか」
今度はあきが面食らう番だった。男女の心中が絶えない界隈だ。意味はすぐに理解できた。
「わたしが死ぬと?」
「……君が、どれほど彼女を慕っていたかを知ってます」
「思いあがらないでいただけます? あなたにわたしを語ってもらいたくありません」
「す、すみま、」
「すぐあやまるのもやめていただけます? 姉さんが見てます。わたしがいじめているようではありませんか」
青年は無言になった。
「そもそも、あととやらを追って会えるかのうせいは? だれかじっしょうなさったのですか」
ハッと、少女は鼻で笑う。
「かんしょうほど、むだなものはありませんよ。だからわたしは、あなたがきらいなんです。泣いてばかりいないで、あだのひとつやふたつ、うてないのですか?」
「わ、私、は……」
「まぁ、姉さんは、あなたにそんなことはのぞんでいないでしょうが」
「……死にたい……」
その呟きに、少女の眉がしかめられる。
「もう、生きていたくない。死にたい。誰か、殺してくれ……っ」
「……」
本音なのだろう。
(こんなつもりじゃなかった、か)
この男は本当に何も知らずに生きて来たのだろう。人の悪意というものにも触れずに。だから安心していた。この男の性分は知っていた筈だ。追い詰めたのがあの人でも、それに気づかなかったわたしも悪い。結局のところ、誰も責められはしないのだ。皆が皆、己が悪いと思っている。そして、そのことに気づいているのはきっと自分だけ。
(姉さん、うらみますよ)
こんな面倒な置き土産を残して、わたしを生かしたことを――。
あきはもう一度、青年の襟首を掴むと顔を上げさせた。
「いいでしょう。さきほども言いましたが、姉さんよりわたしをゆうせんした一点にかぎっては、あなたをにくいと思っています。なので」
一呼吸置き、あきは大きな目を細め、うっそりと微笑む。
「わたしが殺してさし上げましょう」
「わたしに殺されるために、わたしのために生きなさい」
「せいぜい逃げて」
「わたしのかげにおびえ、これからの日々をおすごしなさい」
「そして、心休まらないまま、さいごをむかえて下さい」
息を呑み固まる青年にお構いなく、あきは非道な言葉を綴った。最後まで笑顔を保って。彼に――生きる目的を与える為に。
「それが、あなたにはおにあいです」
この時、あきは八歳。とても子どもが言う台詞ではない。が、あきの言葉は十九の若者を生かした。きっとこの時、あきが優しい言葉をかけていたのなら、青年はこの世を去っていただろう。
そして十年の月日が流れ、止まっていた時間が動き出す。
時は幕末。舞台は眠らぬ街、吉原。愛しくも哀しい復讐の物語が今、幕を開ける――。