第九話
差し出されたのは血約の儀式短剣。リンヤは鞘を両手で捧げるように持っていて、握りが今、ユラノの目の前にある。お辞儀するような体勢になっているので表情がよく見えないが、額が真っ赤になっているのが分かった。そのままの体勢でじっと、動かない。
頭が真っ白になった。
そういえば……、リンヤは僕のブリーデになりたいって、言ってたな……カイが。
そんなことを、ぼんやりと考えた。誰か別の人間が代わりに考えているような気分だった。
「あ、あの……」
反応がなくて不安になったのか、リンヤが顔を上げつつ話し出した。
「け、血約すれば、その、プリスちゃんとミオみたいに仲良くじゃなくて強くなれるし、これからすごい怖い吸血鬼とか来ても安心だと思うんだ」
聞いたこともないような早口だった。
「わたしなら弓が使えるから足手まといにならないし、ずっとユラノと一緒に戦ってきたからユラノのことよく分かってるつもりだし、あと、その、今でも一緒に暮らしてるから色々と便利だと思うんだ、うん、いいと思うんだよ、わたし、オススメだよ」
真っ赤な顔でうんうん、と頷く。
「オススメ……だよ?」
いきなり不安そうな声になって、上目遣いでそろそろとユラノの様子を伺ってくる。
「……ど、どうかな?」
どうなんだろう、とユラノは思った。リンヤと血約する。僕がリンヤの騎士になる。
僕がリンヤに、血を流させる――
急に頭がはっきりする。好意を向けられて舞い上がっていた心が冷静さを取り戻す。騎士になるということの意味を、しっかりと認識し直す。
改めて考える。僕は、リンヤの騎士になれるのか?
しばらく……考えた。
そして、答えを出した。
「……ごめん」
「……え」
「僕は、リンヤの騎士には、なれない……よ」
言った瞬間、リンヤの瞳がいっぱいに見開かれた。糸が切れたように短剣が下がる。
かすれた声で言った。
「どうして?」
「覚悟が……できないんだ」
「覚悟……? わたしはユラノに傷つけられる覚悟、できてるよ?」
「ううん、できてないのは、僕がリンヤを傷つける覚悟のこと」
「傷つける、かくご……」
「騎士は、ブリーデのことを大切にしなきゃいけない。魔法を使い続けるにはブリーデの体を傷つけないといけないから。ブリーデの体を大切にしながら、傷つける……矛盾してること、だからこそ、騎士になるのは、ものすごい覚悟が必要なんだと思う」
「ユラノはわたしのこと、大切に思っていないっていうこと?」
ユラノは首を横に振った。
「リンヤのことは大切に思ってる。けど……何か、騎士とブリーデっていう関係とは、違う気がするんだ……どちらかというと、妹みたいな……」
言いつつ、心中では別のことも考えていた。それは、カイのことだ。
カイはリンヤのことが好きだと言っていた。だから自分がリンヤと血約してしまえば、カイはきっと哀しむだろう。表面上は祝福してくれるかもしれない。けど、気持ちを知ってしまったからには、それを無視することはできなかった。
そんなことを考えている間、リンヤは一言も発さず、ぴくりとも動かなかった。
感情が抜け落ちた顔。瞳だけが、わずかに震えている。
――目じりから一雫、涙が零れた。頬に跡を残して落ちる。
「……リンヤ?」
呼びかけると慌てたように目元を拭う。
「い、いい。わかった。わかったよ……ユラノが、わたしのこと、ちゃんと考えてくれてるんだってことはわかったから……いい。十分、だよ」
「……ごめん」
リンヤは俯き、ぎゅっと唇を噛んだ。強く、強く――血が滲むほどに噛み締める。
しばらくの間、言葉はなかった。堪えかねたように、ユラノは口を開く。
「それじゃ、僕は……行くよ」
「わたしも、行く」
「……大丈夫?」
顔を上げたリンヤは、笑顔だった。
「だ、いじょうぶ。行くって言ったし。二言とかないし! っていうか、ごめんね、おかしなこと言っちゃって、気にしないで」
「うん……」
「じゃあ、準備してくるから。弓とか持っていかないとね。外で待ってて、すぐ行くから」
そう言うと踵を返して、部屋から出て行った。直後、はあ、という大きなため息がユラノにまで届く。
ユラノは何だかやるせない気分になる。心の中だけで、ごめんね、ともう一度だけ呟いた。
準備を終えて食堂に戻ると、ユラノはもう居なかった。言った通りに外で待ってくれているのだろう、とリンヤは思う。ユラノはそういうところは素直なのだ。
「……はぁ」
誰もいない部屋でひとり、またため息をつく。
物音。顔を向けると、カイの姿が目に入った。
「……リンヤ」
カイは悲しそうな様子だった。それで分かってしまう。先ほどのやりとりを、カイも聞いていたのだと。リンヤは笑って言った。
「ふられ……ちゃった」
笑えたのは口元だけだった。
「どうしよ、カイ、わたし、ふられちゃった……あはは」
そう言ったことが引き金になって、泣いた。涙が溢れてきた。ぼろぼろ、後から後から涙は湧いてきて、頬をびっしょり濡らしていく。カイとしてはそんな様子を見せられても困るだけだと思うけれど、止められない。酷い顔になっていると自分で分かる。それでも。
落ちた涙で足元の床が濡れている。声をあげて泣きそうになるのを、せめて必死で我慢した。涙を拭う余裕がない。
「ごめ……、カ、イ」
「いいよ」
顔をあげた。カイはじっと、リンヤを見ていた。
「ぼくのことは気にしないでいいよ。泣いても、いいよ……」
女の子のようにきれいな顔が、気弱そうな、でも優しい表情で笑ってくれている。堪らなかった。つらくて、誰でもいいから、頼りにしたかった。カイがいいよと言ってくれて、だから、リンヤは気がつくとカイに抱きつくような格好で、肩の上に顔を埋めていた。
嗚咽。もう我慢できない。こもった自分の泣き声が頭の中に反響する。背中にそっとカイの手が触れてくる。温かくて柔らかい、手。泣くのをもっと我慢できなくなる。
それから涸れるほど泣き続けた。カイはずっと無言で、リンヤを慰め続けた。
扉を開けると、聞き慣れた、だけど今一番聞きたかった声が耳に飛び込んできた。
「プリス」
「……ミオ! 大丈夫?」
ミオは頷いたが、身はベッドの上に横たえたままだった。蝋燭の弱々しい炎が、ミオの顔を仄赤く照らしている。それでも顔色が悪いことがよく分かった。
傍らでずっとミオの容態を見ていたチウ爺が言う。
「峠は越えた、といったところだ。ミオの希望で輸血は外した。まだしばらくは安静にしている必要があるが、そのうちまた動けるようになるだろう」
「そう。ありがとう、チウ爺」
「これが俺の役目だからな。俺は戻る。何かあったら呼んでくれ」
そう言ってチウ爺は出ていった。ということは、本当に安心していいのだろうと思う。
「……干しぶどう食べる?」
「うん。食べる」
持ってきた革袋からひと粒の干しぶどうを取り出して、ミオの口元に運ぶ。少しだけ身を乗り出して、ミオは干しぶどうを口に入れた。指とくちびるがわずかに触れる。乾いた感触が指に残った。
「状況は、どうなったんですか」
ミオが目覚めた安心を噛み締める余裕もないことに、わずかにやるせない気持ちになる。
それでもプリスは気丈に答えた。
「結局、取り逃がしたよ」
「そう……ですか」
「ロード・レーヴァは、破滅してなかったんだな」
母を殺した王の名を呟く自分の騎士を、ミオは不安そうな面持ちで見ている。
「ナイティが出てきたんだ。この件は、一刻も早く片付けないといけない。こればかりは……あいつらには任せられない。……騎士でなければ、ナイティや王とは戦えない。そのためにこの三年間、ずっと準備してきたんだ……」
――それなのに、自分は何をしているのだろうと思う。彼ら二人だけをアカリのところへ行かせて、自分は動けないでいる。
「ユラノ君たちは、どうしてますか?」
ミオの問いに、プリスは苦々しい想いはさらに募る。
「ユラノとリンヤは、アカリのところに行くって」
「アカリさんのところに? どうして?」
「ナイティがどうも、血の恋人を狙ってるみたいなんだ」
「……ナイティが」ミオは考え込むように俯いた。
「プリス、覚えてますか? 三年前、ロード・レーヴァがアカリさんに異常な執着を見せていたこと」
「……うん」
「私気になって、教会の書庫で血の恋人について調べたことがあるんです。それによると……今まで、女性の血の恋人というのは、ほとんどいなかったそうです」
プリスの中で、何かが繋がった。
「……女性の血は、魔力溶媒だ」
「そう。もしかしたら、アカリさんの血は、吸血鬼にとって特別な意味があるのかも」
黙り込む。状況からも、アカリが狙われるのはほぼ確実。とすれば、アカリを守るのが最もいい手段のはずだ。
そう、分かっている。ユラノに言われるまでもなく、アカリのところへ行くのが最良なのだ。
それでもプリスは動けない。血の恋人にまつわる因習、街を守る使命、そしてアカリとの間にあるわだかまり――それらの鎖が、きつくプリスを縛り付けている。
そのことを十分に理解した上で、それでもミオは言う。
「……私たちも、アカリさんのところに行くべきだと思うんです。ユラノくんたちだけに任せておくわけには、いきません」
「でも」プリスは慄いた。声が震える。「わたしは、アカリに、酷いことを……。わたしが行ったら、アカリはどう思うか」
「確かに、そうかもしれません」
プリスはまるで殴られたような顔をする。
「ねえ、プリス」
ミオはつらそうな表情で、じっとプリスを見る。そして静かに言った。
「……逃げるのは、もう、終わりにしましょう」
「ミオ……」
「今までは確かに、避けることがアカリさんを守ることになっていたかもしれない。だけど今回は、本当にあの人を――アカリさんだけじゃない、ユラノくんたちまで、見殺しにすることになります。……プリスにとってアカリさんとのことは、痛みを伴う思い出だというのはわかっています。でも」
ミオの言葉がプリスを打つ。
「痛みから逃げるのは、私たちの在り方ではない。……違いますか?」
「――あ……」
その言葉がきっかけとなって、プリスは先ほどユラノが言ったことを思い出した。
――それでも、やらなきゃならないことはある――
一人でもアカリを守りに行くと言って聞かなかった……それはまさに、プリスがそう在ろうと誓った姿ではなかっただろうか。
「その通りだ……」
なぜ、気付かなかったのだろう。
プリスは過去に間違いを犯した。それを正すために必要な痛みも、ミオを傷つけるときの痛みも、結局は同じことのはずなのだ。
そうと分かってしまえば、プリスはミオとの絆のために、もはや躊躇ってはいられない。
「わたしたちも、アカリのところに、行こう。……もう逃げるのはやめだ」
そう言うとミオの表情がそっと緩んだ。
「……うん。それでこそ、プリスです」
頭を撫でられる。プリスは照れた。
「……子ども扱いするな」
「はいはい、霧氷の魔法少女さん」
まだ撫でられる。
「こんなときだけ、魔法少女という……。まったく」
表面上だけ不満そうな声を出しながら、プリスはミオの胸に頭を預けた。そして目を閉じる。
「アカリのところに行ったら、今までのこと全部、謝ろうと思う」
「うん」
頭に触れるミオの手に集中する。心地よかった。久しぶりの感覚だった。
「すごく……不安だ。だから、ミオにもついてきて欲しい」
「当たり前です。……私にだって、責任はあるんですから」
そうじゃない、と思った。ミオは悪くない。けれど口には出さずに別のことを言った。
「……ミオ。もう少しだけ、こうしてていいかな」
「うん。いくらでも、いいですよ」
ミオに撫でられるたびに不安が解けていくようだった。おかしな話、吸血鬼と戦うことよりも、アカリと話すことに大きな不安を感じている。ただ、それもミオが一緒にいてくれるなら、きっと越えていけるだろうと思えた。
ミオとは絶対に離れ離れになりたくない。プリスは心の底からそう思った。
「それじゃ、行こっか」
家から出てきてそう言ったリンヤは、いつもと変わらないように思えた。少なくとも声音はそうだ。表情が見えたなら何か分かったかもしれないが、今は夜。リンヤの顔はよく見えない。
気まずかった。けれど、どうしていいか分からない。
結局、特に言葉を交わすこともなくアカリの家に着いてしまった。そこはもうすっかり静まり返っている。
「もう今日は寝てるかな」
小声でリンヤに囁きかける。
「どうかな。……もう吸血鬼に襲われた後だったりして」
笑えない冗談だった。いつもより声が無感情な気がして、それが余計におそろしい。
「確認してみたら?」
「う、うん」
「今夜はわたしが見張ってる。ユラノは寝ていいよ」
そう言うと、近くの廃屋のほうに歩いていく。わずかな取っ掛かりを足場にして器用に屋根に上り、腰を下ろして片膝を抱えた。そして遠くをじっと見る。
どことなく寂しそうな様子だった。それはそれで気になったものの――
(……ともかく、ちょっとだけ確認しようかな)
リンヤの言う通りだったら大変だ。傾いた扉に手をかけようとすると、勝手に開いた。
「なんだ、お前か」
アカリだった。物音が気になって出てきたようだ。額に包帯を巻いている。今日の昼間、吸血鬼につけられた傷だ。
「その傷、大丈夫?」
挨拶も忘れ、ユラノはそう言ってしまう。
「……あぁ、大丈夫だけど」
安堵する。
「ていうか、何やってんだ、こんな夜更けに」
「吸血鬼から、きみを守りにきたんだ」
「あたしを……?」一瞬怪訝そうな声を出した後、息を呑む気配が伝わってくる。
「今日の奴が、また来るってのか?」
「そうかもしれない。血の恋人を狙ってたみたい、だったし」
アカリはため息をついて、ゆるく首を振る。疲れたような仕草。
「本当は、僕たちの家に匿えたらいいんだけど」
「どうせそれが駄目だから、わざわざこっちに来たんだろ?」
「……うん」
プリスとのやりとりを思い出して、すこし気分が沈む。
「せめてもう少し守りやすいところに行きたいんだけど、どうかな。キララも一緒に」
「駄目だ。キララの調子が悪いんだ。今は動けない」
「そうなんだ……」悪いことは重なるな、とユラノは思った。「様子はどうなの? 大丈夫?」
「今日戻ってきてからずっと、苦しそうにしてる。まあ、今までもたまにあったことだから、我慢してればその内おさまるよ」
アカリの様子にそれほど深刻なところはない。本当に大丈夫なのだろう。
「そっか。じゃあ、僕はとりあえず近くにいるから。今夜はリンヤが見張っててくれるって」
「……あぁ」
「じゃあ、また明日」
ユラノは手を振る。アカリはその手を見るだけで、反応しなかった。
ユラノが近くの適当な廃屋に消えるまで、アカリはずっとそこに立っていた。
二日後の朝。ユラノが目を覚まして外に出ると、ミオが来ていた。
「ミオ? もう大丈夫なの?」
「ええ。おかげさまで、すっかり」
微笑む様子に不安なところはない。ユラノは安心する。と同時に不審に思う。
「隊長は……?」
アカリについては腰が重い様子だったから、本当にミオ一人なのだろうか。
「ええと……ここに」
ミオが後ろを振り返るような動作をする。すると、ミオの影から小さな姿が現れた。
「隊長、どうしたの?」
「……いや、その」
プリスは妙に歯切れの悪い様子で、ミオの服の袖を握ったりしている。あまり見られない、年齢相応に頼りなさげな様子だった。
「アカリに、会いに来たんだけど。いないみたいで」
「いない?」
アカリの家を覗く。寝台の上でキララが寝息を立てているだけで、確かにアカリの姿は見えなかった。そういえばリンヤの姿も見えない。アカリの後を追っていったのかも知れない。
行く先の心当たりは――あった。
「隊長、ミオ、ついてきて」
ユラノがそう言うと、二人は怪訝そうに顔を見合わせた。
傷痕断崖の廃教会に行くと、果たして入口のすぐそばにリンヤがいた。
「おはようユラノ……って、あれ? ミオ、もう大丈夫なの?」
「ええ、まだ完全に本調子というわけでもないですけど」
「あんまり無理、しないでね……?」
リンヤはミオの腕を取って、肌をさすったりしている。
「おはよう、リンヤ。中にアカリいるよね?」
「ん? うん。いるけど……?」
不思議顔のリンヤにミオが言う。
「私たちも一緒に、アカリさんを守ることにしたんです」
「え、そうなの? あんなに渋ってたのに?」
二人の会話を背後に聞きつつ、ユラノは教会の中に入っていった。
堆積する瓦礫。崩れた壁から見える空。床石の隙間を縫って咲く花々とちらちら漂うその芳香。見棄てられた場所の停滞した、しかし清澄な空気の中、いつかのようにアカリは崖の縁に立って空を見上げていた。
「アカリ」
呼びかけると、ゆっくりと振り向く。表情が薄かった。しかしプリスがいるのに気がつくと、その顔に軽い驚愕が浮かび――すぐに、怒りに変わる。押し殺した声で言った。
「……お前、何しに来た」
プリスはアカリの様子に気圧されたように俯き、口ごもりながら言う。
「まだ、ここに来てたんだ」
「何しに来たって聞いてる」
そう言うアカリの声は、ユラノが初めて会った頃よりも険しかった。プリスの声も暗く沈み、いつもの覇気が感じられない。二人の間には何かがあると常々感じてはいたものの、思っていた以上に溝は深いのかもしれないと思った。
「きみを、守りに来たんだ」
アカリの目がわずかに見開かれる。
「守るだって? ……お前が、あたしを?」
「そう。わたしは……」
プリスはその言葉を、最後まで言い切ることができなかった。それはきっとアカリの顔を見てしまったから。
目には暗い怒りの炎を灯し、口元には冷笑を浮かべて。アカリの視線は、プリスをまともに射抜いていた。
更に、言葉の刃が振り下ろされる。
「そう言ってお前はまた、あたしを裏切るのか」
「……ちがう」プリスの声は小さく、アカリには届かない。
「あのときみたいに」
かたちだけの冷笑は、一瞬でかなぐり捨てられた。
ユラノはそのとき気付いた。プリスをきっと睨むアカリの瞳はまた、曖昧に揺らいでいる。
何度か見た瞳だった。だから今では何となく分かる。
きっと、今のアカリの本当の気持ちは、怒りではなくて――
「どうせ、あたしが血の恋人だから、穢れてるからって、見捨てるんだろう!」
――寂しい、のだ。
+
「……おねえちゃんがいない」
寝起き直後のはっきりしない口調で、キララは呟いた。声は誰もいない家の中へ溶けこむように消える。
頭を巡らせる。いつもの家だった。腐りかけの木壁、ほとんどただの穴と変わりない窓からは朝の光が射し込み、その中を埃か何かがふわふわと浮遊している。
静かだ。息を殺してじっとすれば、本当に何の音も聞こえない。
静けさは、寂しさを連れてくる。
アカリが何処に行ったのかは大体わかっている。だから、心配なわけではなかった。
ただ、寂しいのだ。
痛む頭を押えた。体が熱い。胸が別の生き物みたいに跳ねている。体の調子が悪いのに、アカリがそばに居てくれないことを寂しく思う。
でも、本当は何となく分かっているのだ。どうしてアカリが、あの廃教会に行くのか。
どうして調子の悪い自分を置いて、行ってしまうのか。
「お姉ちゃん……」
二年ほど前から、アカリはあの廃教会に行くようになった。街の人たちとの間に起こった色々なことが落ち着いて、しばらく経った頃だった。ちょうどキララの病気が、今のように突発的に悪化するようになった時期でもあった。
「……わたしを、置いて行かないで」
アカリは、たぶん、逃げているのだ。
あの教会は逃げ場所なのだ。もしかしたら死んだ母の思い出を拠り所にしているのかもしれない。ただ一人優しかった母の思い出を。
最近は特に頻繁に行くようになっている。そのことが、とても、不安だった。姉は自分を置いて何処か遠いところに行ってしまうのではないか。
そう、もしかしたら、最近来るようになったあの人――ユラノくんといっしょに――。
ユラノくん。ずっと一人だった姉を構ってくれる、すこし珍しい人。ちょっと格好いい。頼りない感じはするけれど……でも、きっと、優しい人。キララも決して悪い印象は、持っていなかった。……お似合いだと、思う。
だから、お姉ちゃんと一緒に、どこかに行ってしまっても……おかしく、ない。
とつぜん強烈に、お姉ちゃんに会いたい、と思った。
キララは掛け布を羽織り、のろのろと寝台から身を起した。外に行く準備を整え、調子が悪くてうまく動かない体を押して、歩き出す。お姉ちゃんに会いたい。置いて行かないでほしい。わたしのことを、忘れないでほしい。それだけを思って。
キララはこのとき、少しだけ――ユラノに、嫉妬していた。