第八話
三章
ユラノは医務室の扉をノックする。返事を確認すると、扉を開けて中に入った。
ベッドの隣にはプリスとチウ爺が座っている。ユラノのほうを向いているのはチウ爺だけで、プリスはベッドに横たわる少女をじっと見つめていた。
「ミオは大丈夫……?」
チウ爺にだけ聞こえるように、小声でそう聞いた。
「ああ。今は寝ているだけだ」
「そっか。よかった」
安堵する。リンヤが泣きそうな顔で重傷だと言うので、相当に心配していたのだ。
「普段から採り溜めていた血が役に立った。まさに備えあれば憂いなしという奴だな……これがなかったら、どうなっていたことか」
チウ爺はベッド脇に吊り下げられた革袋を見た。その下端からは管が伸びていて、ミオの腕まで繋がっている。
「それ……ミオの血?」
頷くチウ爺。
もしもの為にと、ミオは普段から少しずつ自分の血を採っては保存していたのだ。いつかあるかもしれない、大量に血を失ったときに備えて。
ミオは静かに眠っていた。お腹の上でそっと手を組み、ぴくりとも動かない。寝息すら殆ど聞こえなかった。言われなければ死んでいると思ったかもしれない、それほどに顔色は悪かった。日頃から白すぎる肌をしていたが、今は蒼いを超えて土気色がかっている。腕から伸びる輸血管が、痛々しかった。
「隊長……」
傍らでじっと自らのブリーデを見つめる騎士、プリスの姿を見る。うまく感情の読み取れない表情をしていた。色々な想いが混じり合って、均一になってしまったような顔だった。
ただ、元々小さなその体が、いつもより更に小さく見えた。
「……ユラノ。みんな、いるかな?」
プリスは奇妙に表情の欠けた顔のまま、ユラノを向いた。
「いる、けど」
「今後のことについて話そう。みんなを集めてくれないかな」
「でも、隊長、ミオについててあげなくていいの?」
プリスの表情は変わらない。
「大丈夫だよ。命に別状はないって言うし」チウ爺をちらと見て、すぐに視線を元に戻す。
「チウ爺もついててくれる。それに、すぐにでも話したいことがあるんだ」
会議室にはプリス、ユラノ、リンヤ、カイの四人が集まっていた。
プリスは皆が揃ったことを確認すると、静かに口を開く。
「みんな、まずは無事でよかった。大きな怪我もなくて、本当に」
その言葉に皆が反応する。最初に声をあげたのはリンヤだった。
「でも、ミオが」
「ミオは……大丈夫。ちょっと眠ってるだけ」
そう言って笑う。弱々しい微笑みだった。明らかに無理をしていると分かってしまい、ユラノは胸を衝かれてしまう。
「いいんだ、ミオにとっては覚悟していたことだから。ミオが頑張ってくれたから、誰も大きな怪我をしないで済んだ。わたしには断言できる。ミオは、後悔していない」
「でも、プリスちゃんは……よかったの?」
「わたしは騎士で、ミオはわたしのブリーデだ」
即答だった。静かな、しかし強い声。
「わたしは決めたんだ。護るべきもののために、大切なもののために、ミオを傷つけることを厭わないって。わたしたちは血約したときから、そうやって生きることを決めた。このくらいのことでわたしがミオを傷つけるのを止めたら、ミオはきっと怒る。そのことが――わたしがミオにつける傷が、わたしたちの、信頼と絆の形なんだ。それが騎士とブリーデということなんだと、わたしとミオは、信じてる」
そう言って微笑む。笑顔は弱々しくも、目はしっかりと前を向いている。
「だからいいんだ。わたしは後悔していない。ミオも絶対に、後悔なんかしていない」
「……分かったよ。でも、あんまり無理しないで欲しいな……。プリスちゃん、わたしたちには無理するなって言うくせに、自分たちばっかり無理してちょっとずるいよ」
「そうだよ。隊長はもう少し、僕らに……」
頼ってくれても、と言おうとしたユラノは言葉に詰まる。明らかにプリスたちのほうが強い力を持っていることを思い出してしまったのだ。隷属吸血鬼が相手ならば何とかなっても、ミオをあれほど傷つけてしまう者が相手では、どれほど通用することか。
「ユラノ……、ありがとう」
「えっ」
「リンヤもね。みんながいるから、わたしたちが無理できるんだから」
ユラノとリンヤは顔を見合わせる。そういうことではないのに、と思う。けれどお互いの顔には笑みが浮かんでいた。やや、苦々しくはあったけれど。
「カイも。いつもご飯おいしいよ」
「あ、う、うん」
ずっと黙っていたカイは、とつぜん話を振られて慌てたように頷いた。
「ぼくにはそれくらいしか、できることがないし」
「でも、重要なことだよ」
「今日なんか、カイがいなかったらご飯抜きだったもんね。ふふ」
リンヤに微笑みかけられて、カイは照れたように俯いた。
「戦いだけが全部じゃないから。できることを、すればいいから」
「……うん」
カイは安心したように笑みを浮かべて、少しだけ頷いた。
「――さて」
場を改めるようにプリスが一声放つと、空気が瞬時に緊張感で満ちる。
「これからのことを話そう。みんなもう知ってると思うけど、この街に騎士吸血鬼が来た」
ナイティという単語が出るだけで、部屋の中がわずかに暗くなったようだった。
「それ自体も重大なことだけど、もっと大変なことがある。ナイティには主になる吸血鬼がいるんだけれど、その名が……レーヴァ」
「ロード・レーヴァって、三年前の〈禍〉のときの王、だよね」
「そう。だから、おかしいんだ」
ロード・レーヴァは三年前に破滅している。少なくとも記録ではそうなっているし、プリスもその目で見た。
「ナイティも王から魔力を受けて動いているから、王が破滅したならもろともに活動を停止するはずなんだ。それなのに……あのナイティは、確かに主はレーヴァだと言った」
ゆっくりと、みなに理解が浸透する頃合を見計らいつつ、プリスは語る。
「……あのナイティが使っていた魔法の性質からしても、本当に主はレーヴァである……つまり、実際にはロード・レーヴァは破滅していなかったと考えるのが、わたしは妥当だと思う」
みな、黙り込む。沈む空気。
このとき、ユラノの頭には三年前の惨劇が蘇っていた。他のみなも一様に暗い表情になる。
「また、三年前みたいなことが起こるってこと……?」
リンヤの不安な呟きは、皆の心中を代弁していた。
「そうはさせない」
プリスの態度は断固たるものだ。
「わたしたちが、そうはさせない。こんなときのために、わたしは騎士になったんだから」
「僕たちだって手伝うよ」
「わたしも」
ユラノはリンヤと一緒に身を乗り出して言った。そもそもプリスとミオだけに任せるつもりはなかったが、プリスの態度に逆に不安を煽られたこともある。あまりに決然としていて、考えたくもないような行動を取るのでは、と思ったのだ。
「うん、みんな、一緒だ」
その答えを聞いても、少しだけ、プリスが遠い存在に感じられた。
「ナイティには結局、止めを刺せなかった。だから奴はきっと、また来る。当面はそっちに注意すべきだと思う」
また来る、と聞いた瞬間、ユラノの脳裏に吸血鬼が言っていたことが蘇る。
――お前、血の恋人だろ。
今にして思えば、あの吸血鬼は明らかにアカリを狙っていた。その割にはアカリの命を奪うことに躊躇いを見せたりと、行動に一貫性がないような気はした――が、もしまたあの吸血鬼が来るならば、きっとアカリを襲うに違いない。
ユラノは、その考えを皆に話した。
「僕らの家で、アカリを守ろうよ」
すぐに答えた者は、誰もいなかった。
しんと静まった部屋の中、誰もが複雑な表情で視線を逸らし、あるいは俯いている。
しばらく経った後、ようやくプリスが口を開いた。
「……それは、どうだろう」
「どうしてっ……」
知らず、声が大きくなってしまう。
「少なくとも、ここに匿うのは危険だ。ここは街のど真ん中だし、ナイティを呼び寄せてしまう結果になるかもしれないことは、簡単には決められない」
ユラノは言葉に詰まる。
「……そうか……そう、だよね」
意気消沈する。確かに、アカリを守るためだけに街を危険に晒すわけにはいかない。
「じゃあ、僕たちがアカリのところへ行けば」
この提案にも、プリスの返事は冴えない。
「前にも言ったと思うけれど、街の人たちの反発が、心配だ」
「……じゃあ、どうすればいいの? アカリを見殺しにするの……?」
「そうは、言ってない」
「でもそういうことじゃないか」
「ユラノ、落ち着いてよ……」
カイがユラノを制する。ユラノは小さく謝った。それでも湧き上がる気持ちは萎まない。
気が付けば、口に出していた。
「僕一人でも、アカリを守るよ」
「えっ?」
驚いたのはリンヤだ。アカリの話になってからじっと俯いて口を噤んでいたのだが、ユラノの一言で弾かれたように顔を上げる。
「だってここに呼べない、誰もアカリについていてあげないんじゃ、もし吸血鬼が来たとき守れないじゃないか。相手は空を飛べるんだし、今回みたいに正面から来ないかもしれない」
「でもっ、ユラノ一人じゃ!」
リンヤは叫ぶ。ほとんど悲鳴のような声だった。
「危なくても、見殺しになんかできないよ」
「だったらわたしも行く!」
今度はカイがはっとしてリンヤを見た。
「ずっと一緒に戦ってきたんだもん。わたしはユラノのパートナーだよ。ユラノが行くなら、わたしも行く。……いいでしょ?」
ユラノに向かって必死に訴えるリンヤを、カイはしばらくの間、じっと見ていた。
そして、どこか諦めたように俯いてしまう。複雑な表情だった。
「危険、だと思うけど……いいの?」
「なに言ってるの、ユラノが最初に言い出したんじゃない」
「そうだけど……」
「いいよね、プリスちゃんも。だめって言っても行くけどね」
プリスは首を、縦にも横にも振らなかった。じっと唇を引き結んで、黙り込む。
「……騎士でもないきみたちが、たった二人でなんて」
「それでも、やらなきゃならないことはある。……隊長が、いつも言ってることだよ」
言いながら、ユラノはアカリのことを思った。拒絶するときの険しい目付き。キララを見るときの優しい表情。そして、教会で空を見上げていた、消えてしまいそうな姿。
そして、確かに想う。
先ほどは勢いから守ると言ってしまったけれど、それは、確かに本心だったのだ――と。
「これは、隊長がミオを傷つけるのと、同じことなんだ」
プリスは雷に撃たれたように、目を見開いて硬直した。
しばらくそうしていたプリスは、しかし、結局――
「……ごめん」
俯いてたった一言呟き、それきり黙り込んでしまった。
「ユラノ、すぐにあの子のところ、行くの?」
「うん。いつ吸血鬼が戻ってくるか分からないし、早いほうがいいと思うんだ」
「そう、……だね」
そのとき夕飯後の食堂に残っていたのは、ユラノとリンヤの二人だけだった。プリスはミオが気になると言って早々に席を立ち、カイは食事の後片付けで水場にいる。
もうすっかり陽は落ちている。外は闇だった。
「あの……さ。ユラノ」
急にリンヤはごそごそと何かを探ると、立ち上がってユラノの前に来た。両手を背中に回し、どこか落ち着きない様子でユラノと視線を合わせないようにしている。何かを言おうするように顔を上げてはまた俯く、ということを何度か繰り返した。
何だろう……と思いつつ待っていると、リンヤは意を決したように口を開いた。
「あのね。これから、もしかしたら、あのすごい吸血鬼が襲ってくるかもしれないでしょ?」
「うん」
「ユ、ユラノが剣で戦って、わたしは後ろで弓矢を撃って、って今までやってきたよね」
「うん。僕は前に出て吸血鬼を止める。リンヤは後ろからサポートしてくれる。リンヤ弓上手いし、すごく助かってるよ」
「ありがと。……でもね、これからもそれで大丈夫なのかなって、わたし思ったの」
確かにそうかもしれない。戦ったのはわずかな時間だけだったが、あのナイティの恐ろしさは身に染みている。剣一本で太刀打ちできる相手ではないかもしれない。
これから二人でアカリを守ろうと言うのに、今の力では心許ない。
「……でね」
リンヤの声が一段、小さくなった。何だかもじもじしていて、俯いた頬が、ほんのりと……染まって、いて……。
そのときユラノは、ようやくリンヤが何を言おうとしているかを悟った。
意識した瞬間、胸が凄まじい勢いで弾み始める。頬がかっと熱くなる。
リンヤが後ろ手に持っているものが猛烈に気になる。考えが正しければ、リンヤが今後ろ手に持っているものは、「あれ」に違いないのだ。
「……あのね」
ついにリンヤの腕が動く。ゆっくりと、背中から、ユラノの前に向かって。
姿を現したそれは全く予想通りのもので、だからユラノの鼓動は更に激しく跳ねた。
「も、もし、よかったら、ユラノ……」
リンヤの桜色の唇から、決定的な一言が紡がれる。
「わたしの、騎士になってくださいっ!」