第七話
「どれくらい来てる?」
今回現場となった正門は警備隊の家から近い。プリスたち三人はものの数分で辿り着くと、物見櫓の上にいる見張りの住人に状況を聞いた。
すぐに答えが返って来る。数はぱっと見、三十から四十――。かなりの数と言えた。
「分かった、わたしたちが出る! 門を開けて、みんなを退避させてくれ!」
相手は手を振り承諾の意を示す。鳴らされる鐘、逃げろという合図。
「ミオ」
「はい」
すでに袖も包帯も取り払われ、ミオの左腕は露わになっている。プリスが儀式短剣を抜くのと、ミオが左腕を差し出すのが同時。
傷痕だらけの白い肌の上に、また一本新たな傷が刻まれる。赤い絆の証――、血が溢れ、短剣の腹に彫り込まれた溝へと通じる。剣身に浮かび上がる複雑な魔法紋様。
「〈繋血〉」
プリスが静かに呟くと、プリスが持つ短剣とミオの嵌めた指輪が光の糸で繋がった。ちらちらと赤い光の粉を散らす、ブリーデと騎士を繋ぐ魔力の路。
準備を整えたプリスたちの前で、門が開く。門の外で対応しようとしていた住人が街の中に逃げ込んでくる。
その向こうにいるのはスレイヴどもだ。白日の下に晒された醜悪な肉体、爪、牙。人を傷つけ血を喰らう、邪悪な魔物どもが群れを成して迫ってくる。
門の外、またその周囲からの住人の避難があらかた完了したところで、プリスたちは呪文の詠唱を開始した。
『――集い来れ冬の妖精、氷雪の乙女たち』
『輪舞曲の調べは凍眠の誘い――』
『舞い、踊り、吹き荒れろ――』
詠唱が進むに従い急速に低下した気温が、プリスたちの周囲に薄い霧を生む。霜が降り、足元が白い絨毯に覆われる。
長い詠唱が終わる頃、プリスたちの前に居るのはスレイヴのみになっていた。
『請う。峻厳な、氷の抱擁を。――〈氷血輪舞〉』
詠唱の完了に呼応して大地から無数の氷柱が生え出す――氷の森とも言うべきそれがプリスたちの前を埋め尽くし、凄まじい勢いでスレイヴの群れに迫る。霧に霞む視界の中、先頭を来たスレイヴが氷柱に接触した。
粉砕。
鋭利な先端を持つ氷の柱がスレイヴの肉体を貫いた瞬間破裂する。接触破裂粉砕、氷の森が爆発的な勢いでスレイヴの群れを蹂躙する。霧と肉片と破裂した氷の欠片、そしてそこに反射して煌く陽光とが織り成す破壊の輪舞。
住民たちの歓声が響く。
門から数十メルの距離を氷の森が覆い尽くそうかという頃、唐突に何かが砕けるような音がして、蹂躙劇は終わった。
霧がもうもうと立ち込める。
リンヤがプリスたちの下に走って来た。興奮気味に話しかけてる。
「お疲れ様、プリスちゃん、ミオ。今回のはすごかったね」
だが――プリスは答えない。繋血も解いていなかった。
「……何か、変だった」
緊張した声。
「魔法の終わりがおかしかった。わたしはあんな風には終結させて、ない」
「……え?」
霧が少しずつ引いていく。プリスはその向こうに目を凝らす。
そこに見えたのは、霧を裂いて輝く紅色の二つの光点。
近付いてくる。霧の向こうから、氷の蹂躙を耐えた何者かがやって来る。
ふいに、光点が消えた。
霧が散る。そうして姿を現したのはいびつな形をした巨大な杭――、凄まじい速度で、プリスたちを狙って、飛んでくる!
「――!」
プリスはほとんど反射的に氷の盾を生み出した。衝撃、破砕。巨大な杭が氷を穿ち、諸共粉々になって飛散する。
ばらばらと降り注ぐ氷と杭の破片の向こうに、人影が姿を現す。
「……え?」
気の抜けた声を出したのは、リンヤだった。無理もない、プリスでさえその者の姿を奇妙に思ったのだ。
門の下に立っていたのは、小さな子どもだった。白い髪を頭の両脇で二つにまとめ、地面に届くほどに垂らした幼い女児。外見からすれば年齢は六、七歳程に見える。黒い布だらけの、装飾過剰な長衣を身につけ満面に笑みを浮かべている。
少女は片手に、人の形をした大きなぬいぐるみを抱えていた。
口を開く。
「スゴイ魔法。さすが〈霧氷の魔女〉とか言われるだけのことはあるね」
人と変わらぬ、いかにも幼女らしい声だった。だが。
「ハジメマシテ皆さん、ボクはミューレ」
名乗りながら笑う彼女の口元に、人には有り得ない長さの犬歯が覗く。肌は死人よりもずっと蒼い冒涜的な色。そして――
「今日は、ねぇ……」
その瞳には、禍々しく輝く紅の光が灯っている。
「――ミンナの血を、もらいに来タヨ」
それらが示す少女の正体を、プリスは戦慄と共に呟いた。
「騎士吸血鬼……!」
「あはっ」
小さく笑うと、吸血鬼ミューレは視線を巡らせ――
「……ナンダ、男しかイナイじゃん……。男は死ね」
地面に手を突いた。プリスは悪寒を覚え、叫ぶ。
「みんな逃げろっ!」
ミューレの手から赤血色のどろりとした光が漏れる。
地面が剥がれた。
石畳がばらばらになり、土くれとともに巻き上がる。それらは瞬く間に集結し、現れたのは杭の群れ。ミューレを包むように浮かぶその先端が住人たちを狙っている。
プリスは短剣を突き出し、呪文を叫ぶ。並ぶ杭のさらに外側に氷の壁が出現する――と同時に、杭が一斉に射出された。氷壁が轟音を立てて崩れ去る。
「ヤッパリ――邪魔するんだな! 騎士!」
たなびく霧の向こう、赤光を曳いてミューレが飛び上がった。天に向かって突き上げられた腕の先には、先ほどに倍する巨大な杭が浮かんでいる。
「覚悟シロよぉ! ボクを邪魔したことを涎垂らして謝るまで、後悔させてやるからなァ!」
『――貫け氷花、刹那の墓標となれ――〈烈氷槍〉!』
プリスが生み出した魔法の氷槍が杭と激突、互いに粉々になる。
だがプリスは、更に叫びをあげる。
「……貫けっ!」「……んぁ?」
魔力の残滓を散らして消える氷槍の陰から、もう一本の槍が姿を見せる。ミューレの表情が驚愕に固まる――
が、それは一瞬。一転ミューレは笑みを浮かべ、腕に抱えたぬいぐるみを前方に突き出した。どろりとした赤光が漏れ、それに触れた氷の槍が溶け落ちるように消滅した。
「な……っ?」
後に残ったのは、赤い魔力の残滓と――何かが砕けるような、奇妙な音の余韻。
「ソンナの、ボクには効かないよぉ」
馬鹿にしたような笑顔を浮かべ、ミューレは再び杭を生み出す。
「オマエも女の子みたいだから、殺シはしないけど。――逝けぇ!」
杭が動き出し、そして、
ひゅっ――と風を切る音がした。
ミューレの額から、一本の細い木の棒が生えた。
「……んぁ?」
杭がほどけ、土くれになってばらばらと落ちる。ミューレは額から生える棒を見た後、それが飛んできた方向に目をやった。
その先には、長い髪を風になびかせ弓を構える少女――リンヤが居る。
また一射。今度の矢はミューレの手に受け止められ、跡形もなく消えた。ミューレの口角が吊り上がる。笑顔――壊れた三日月のような、禍々しい笑顔。
「女……!」
「リンヤも下がって! その弓じゃだめだ!」
「……わ、分かったよ……! プリスちゃん、ミオ、気をつけて!」
「逃がスかっ」
「お前の相手はわたしだっ!」
プリスは再び氷槍を撃つ。が、先ほどと同様ぬいぐるみによって掻き消された。
砕けるような音の余韻が、耳を打つ――
「……あのぬいぐるみ」
「魔法を打ち消す効果があるみたいですね。さっきの詠唱魔法を止めたのも、きっとあれです」
「ああ。……でも、あれは、まるで――」
「ぁ――……もうミンナ、いなくナッタ……逃げ足速いナ、もぅ……」
ミューレは少女らしい、しかし場違いにあどけない声で不満を訴える。額に刺さった矢を無造作に引き抜き、投げ捨てた。そして言う。
「デモ、ま、いっかァ。血約者がいるしぃ」
紅眼がミオを捉える。
「〈霧氷の魔女〉のブリーデだったら……さぞかしオイシイ血が採れるでしょうしねぇ!?」
土くれが集結し巨大な杭が生まれる。三本。
「ホラぁとっとと逝っちゃえよぉ!」
射出。プリスは氷壁を張る。三本の激突音が一塊になって響いた。壁に亀裂が入る――が、まだ崩れない。わずかに時間の隙間が生じる。ミオが鋭く言った。
「プリス、糸が」
「うん。少し深く切るよ」
ミオは頷く。二人を結ぶ赤い糸は何度も魔法を使ったことで細く、輝きは薄くなっていた。
「うっ……、」
プリスは手早くミオの腕に傷を入れる。いつもより深く傷をつけ、たくさんの血を短剣に通わす。赤い糸は再び強く煌いた。
氷の壁が崩れる。
『〈烈氷槍〉!』
同時に氷槍を放つ。しかしこれもぬいぐるみに掻き消された。
「ああーっ!」
プリスたちの赤い糸を目にしたミューレが、頓狂な声をあげる。
「血っ、勿体無い! 魔法になんか使ってナイでボクにヨコセ、主に献上スルんだからさぁ!」
空中で地団駄を踏んで悔しがる。二束の長い髪が大きく揺れた。あまりにも子どもっぽい、ほんのわずかばかりながら緊張感の殺がれる仕草だった。
「……お前たちの主は、誰なんだ?」
プリスはそう問いかけた。
吸血鬼の王が大きな力を注ぎ込み、自らの片腕として生み出す者。低級な隷属吸血鬼とは何もかもが違う、人語を解し魔法さえ操る王の護衛者たち――それが騎士吸血鬼だ。彼らには必ず、仕える主がいる。
しかし、ナイティとは皆こんな風なのだろうか……と思う。話には聞いていたものの、実際に遭遇するのは初めてだったのだ。子どもの姿、奇矯な性質。想像との乖離が激しかった。
その力の強さと恐ろしさは、聞き及んでいたものに違わないのだが……。
「ボクの主ぉ……?」
ミューレはわずかに怪訝そうな顔をした後、一転して笑みを深める。眉を吊り上げ傲然と胸を張る、誇らしげな態度。
「決まってる。ボクの主は――」
その口から飛び出した名前に、二人は驚愕する。
「レーヴァ様、だ!」
「――なっ」
「そんな……! ロード・レーヴァは、三年前に破滅したはずです!」
「ハッ」
ミューレは腰に手を当て、人差し指を横に振る。
「ボクらの主は不滅デス。オマエラ如き人間なんかに殺られるか、バーカ。逝ケッ」
土くれが渦を巻いてプリスたちを取り巻く。その中から小さな杭が無数に現れ二人に迫る。プリスは慌てて氷の壁を張る――が、ロード・レーヴァの名に受けた衝撃のせいで反応が遅れた。何本かの杭がプリスたちの体を掠め、鮮血が飛び散る。
「アハハハハ! 血ダ、血ダー!」
興奮したミューレは攻勢を強める。プリスは混乱を止められない。
「どういうことだ、奴の言ってることは本当なのか? 主が破滅したらナイティも一緒に滅びるはずじゃ……」
あのぬいぐるみが魔法を打ち消すのを見て、よもやとは思った。「魔法の破壊」、それはロード・レーヴァの魔法〈塵化〉の効果のひとつ。そしてナイティは、主の特質を反映する。
しかし――
「プリス!」
はっとする。ミオがじっと、目を覗きこんでいる。
「今は、ナイティを退けるのが先です……!」
ミオの顔色がやや悪い。プリスは不用意に動揺したことを自覚し、努めて冷静さを取り戻す。
「……分かった。でもどうする。遠隔魔法じゃあのぬいぐるみに防がれる」
「せめて地上に落とせれば……」
「うん……いや、待って。それならば、もうすぐ――」
ミオの表情にも理解の色が浮かぶ。ただそれにしても、チャンスはおそらく一度きり。失敗はできない――。プリスとミオは、そのことを目と目で確認し合う。
プリスは魔法を使って、周囲に深い霧を発生させた。
「何だァ……?」
視界が閉じる。ミューレの姿まで見えなくなったが、それは相手にしても同様のはずだ。杭による攻撃は目で見て狙いをつけている――そんな予測のもとの行動だった。
案の定、攻撃の手が止む。
「クソッ……、ウザったいなァ」
時折、赤くどろりとした光が見える。おそらくぬいぐるみを使って霧を払おうとしているのだと思われた――が、払われるそばから新たな霧を発生させている。赤い光は敵の位置を知る格好の手がかりとなった。
そして、そのときが来る。時を稼ぎ切ったと知ったプリスは、一気に霧を消し去った。
晴れ渡る視界――ミューレの紅眼がプリスたちを捉え
――ひゅどんっ――
と、おそろしく鋭く重い音が響いた。ミューレの矮躯が弾かれ吹き飛び、街の外壁に叩きつけられて落下した。躯が地に跳ねる。
「ハァ……? なッ、んだコレ……?」
自分の胸に刺さったものを見て呆けたような声をあげる。それは、太い矢だ。
彼方の高架上、自身の身長をも超える長大な弓を構えるリンヤの姿がある。様々な材料を配合して射出力を大幅に強化された長弓が、ミューレを射抜いて撃墜したのだ。
『――儚き氷花』
呪文詠唱の声にミューレは視線を上げ、表情が歪む。疑問と混乱、そして戦慄。
プリスの隣に、ミオがいない。
「――はぁッ!」
逆側。振り向いたミューレの視界にミオの体が躍る。裂帛の気合、体全体が回転し、ミオは強烈な蹴撃を放った。それはミューレの頬を穿ち、飛び上がる間もなく地に叩き伏せる。
『――仇を穿ち、咲き誇れ……』
ミューレは必死の形相でぬいぐるみを掲げる。しかしミオの第二撃がそれを跳ね飛ばす。
「ア――」
『〈氷穿花〉ぁっ!』
穿孔。大地から生じた鋭利な氷がついにミューレを貫く。花開くように展がった氷柱が少女の躯を突き破る。氷柱の生長と共にミューレの矮躯は宙に浮き、固定される。
「うっ……テメ……」
スレイヴならばとうに活動を停止しているほどの傷を受けても、ナイティたるミューレは止まらない。だが、あと一押しだ。
『貫け氷花――』
「レクレ!!」
ミューレが絶叫した。意味が分からない言葉――だが、変化はすぐに訪れた。ばがんと身の毛のよだつ音がして、何者かが立ち上がったのだ。
それはミューレの持っていたぬいぐるみ。開いている。胸から腹部が裂けて、体の中身が覗いている――普通ならば綿か何かが詰まっているだろうそこには、赤黒くねばついた液体に塗れた、無数の禍々しい牙が生えている。
それはまるで、吸血態。吸血鬼が血を奪うための忌まわしい姿。
ぬいぐるみは異様な俊敏さでミオに迫った。回避しようと後ずさったミオの体が、よろける。
そのまま平衡を崩し――膝をついて、倒れた。
「ミオ!」
プリスの叫びは悲鳴に近い。
――貧血だ。急激な運動が、ミオに貧血を起させたのだ。
「レクレっ、ブリーデの血を吸っちゃいなァ!」
プリスは走る。ミオを救うために。
いまや異形の本性を現した騎士吸血鬼の片割れが、ミオに近付く。まるで悪夢のように敵の動きは速く、自分の体は進まない。小さな体を呪った。速く走れないことを悔やんだ。
目の前で、ぬいぐるみと、ミオの体が重なる。
(ミオ……!)
声は出なかった。
鮮血が散り、赤が、視界を染める。
吸血態に捕らわれたミオの体が無数の牙によって傷つけられ、大量の血を流す。そして――
光輝の爆発。
赤い閃光が視界を灼く。
ミオが流した血によって、二人を結ぶ赤い糸が凄まじい輝きを放った。まるでひとつの季節の間に生まれて死ぬ、短命な灯火虫の光を集めて輝かせたような力強くも儚い煌き。
『離れろっ、消し飛べ!』
プリスは思い切り、儀式短剣をぬいぐるみの背に突き刺す。
『〈砕氷核〉!!』
絶叫と同時、ぬいぐるみの躯が内側から破裂するように吹き飛んだ。
ぼろぼろになったぬいぐるみ、ミオを助け起すプリス、ミューレはそうしたものを視界に捉えながら呆然として呟いた。
「……ぇ?」
ぬいぐるみの骸に、放心の態で語りかける。
「レクレ? レクレ……!?」
それはもう、動かない。
「……ウ、ぅそ……」
プリスは気絶したミオの体を腕に抱き、鼓動を感じながら、短剣の切っ先をミューレの頭に突き付けた。そして言う。
「姫を攫うなら、騎士から倒せ。……知らなかったか、偽騎士」
頬はプリス自身の涙とミオの血とで斑に染まっている。二人を繋ぐ赤い糸は、なおまばゆい。
「うぅっ」
ミューレは怯えた表情で身じろぎした。氷の花が、いまだに彼女の躯を囚えている。
『貫け氷花――』
「ウ……っ、うワァアあああああ!」
慟哭と恐怖が混じったような叫びを上げると、ミューレは自分の躯を引きちぎるように氷の戒めから脱出した。そして――
プリスたち目掛けて、宙を滑るように突進してきた。
虚を突かれたプリスは一瞬詠唱を中断してしまう。その隙にミューレはぼろぼろになったぬいぐるみを掴んで飛び上がる。
『――刹那の墓標となれ。〈烈氷槍〉』
氷の槍が飛び、ミューレの躯を抉る。だが浅い。彼女はそのまま飛び去ってゆく。
「ウウう、血、血が要る、血がぁ……ぁぁ、レクレ、レクレぇ」
泣き喚きながら飛行するミューレの進路は――街の奥。飛行する速度は、大人が走るよりもわずかに速い。
リンヤの矢が飛ぶ――が、これも空を切る。リンヤは次の矢をつがえて撃とうとしたが間に合わない。リンヤの筋力では長弓の連射は不可能だ。
「プリスちゃん……!」
逃げられる――プリスは逡巡した。逃がす訳には行かない、だが、ミオを放っておくこともできない。
「……リンヤ、ごめん、ミオを頼む」
赤い糸は未だまばゆい輝きを放っている。すなわちプリスはまだ、戦える。
ならば選択は、明らかだ。
それがミオとの絆であり、約束なのだ。吸血鬼は撃滅しなければならない。しかも相手は手負いとは言え、危険な騎士吸血鬼。騎士ではないリンヤに任せてはおけない。
「で、でも……」
困惑するリンヤを振り切るように、プリスは叫ぶ。
「早く追わないと見失う。……頼んだよ!」
「あ、プ、プリスちゃん!」
走り出した。プリスは、振り返らない。
ユラノは重い足取りでアカリの後ろをついていく。力になってあげたいのに何もできない、泥沼のように絡みつく無力感がユラノの歩を遅らせていた。
「――何だ、あれ」
アカリが呟く。空を見上げていた。
初めは青空に浮かぶ黒い点のように見えた。それは急速に大きくなり、すぐに細部が把握できるようになる。
人、だった。
それも小さな子ども。ぼろぼろの黒衣に身を包み、白く長い髪をなびかせながら飛んでくる。「……見ツケタ……!」
間近にやって来ると、それは殆ど墜落に等しい勢いで着地した。
少女だった。笑っていた。しかしそれは決して喜楽に拠るものではない、絶望の内にわずかな希望を見たかのような悲愴な笑顔。片手に何か、ぼろきれのようなものを掴んでいた。
「……なっ……んだ、お前……!」
アカリは怯えて後ずさる。無理もない、その少女の両眼に灯る光を見たならば。
赤くて、黒い。
少女の両目に宿る禍々しい血色の光――それは吸血鬼の証だ。
「見ツケタ……! お前、血の恋人だろ……!」
瞳孔の開ききった凶眼、狂気染みた笑顔。自分が標的だと知ったアカリは恐怖に顔を引きつらせる。
「お前の魔力があれば、レクレは助かるんだ! 血をヨコセ!」
「下がってっ!」
ユラノは剣を抜きながらアカリを押し退け、吸血鬼との間に立ち塞がった。
「何ダよぉ、てめー……」
吸血鬼は苦しそうに顔をゆがめて一歩下がった。
そのまま何処かに行ってくれるか、とユラノは期待した。――それは、すぐに裏切られる。
「邪魔するなよぉ、レクレが、レクレが死ンジャウんだからァア!」
凄まじい金切り声と同時、大地が剥がれて集束する。それはユラノの視界を縦真っ二つに裂くほどの、巨大な鋸刃となった。
「死んじゃえよっ!」
「――あぶねぇっ!」
体を引っ張られる。アカリと一緒になって地面に転がった。刃がすぐ真横の地面を穿つ。
「アカリは逃げて! ここは僕が――」
「馬鹿言ってんじゃねぇ! んなことできっか!」
影が差す。刃が再び落とされようとしている。
二人は地面に倒れたままだ。
ユラノは自分を盾にしてアカリを護ろうとした。
断頭台のように刃が落ちる。せめてもの抵抗に剣を掲げた。
襟首が引っ張られた。背後。入れ替わるように誰かが前へ。赤い後ろ髪。アカリだ。刃が迫る。落ちてくる。視界が狭まり刃で一杯になる。アカリを護らないと、でも間に合わない。もう刃はすぐそこだ。落ちてくる。二人まとめて断たれてしまう。刃がアカリの、頭に触れる、
直前で止まった。
「うぅ、血の、恋人……、テメ、邪魔すんなよぉ……」
アカリの額から数ミルメルの位置で刃は停止していた。いや、歪に生えた鋸刃のひとつが、わずかにアカリの額を傷つけていた。額から、鼻筋を伝って、流れ落ちる赤い雫。
吸血鬼がぶるぶる震え出した。すると融け落ちるように刃が消えていく。
「うっ、ボクも、血が……」
よろめき後ずさる。その鼻先を、凄まじい速さで氷の槍が通過した。遠くを振り見る。小さな少女と、細いが力強い赤い光。
「う、う、」
呻きながら、がくがくと不自然な動きで辺りを見回した。目が泳ぎ、瞳に宿る紅の光が狂ったように尾を曳き跳ねる。アカリを見、ユラノの剣を見、遠くのプリスを見て、最後に動かなくなったぬいぐるみの骸を見た。
「くそっ……、くそ、クソ、クソっ!」
ヒステリックに首を振りながらゆっくりと浮き上がる。
「お、覚エテロよ、お前らぁっ!」
そう絶叫すると、ふらつきながら移動を始める。直後にプリスの放った氷槍が刺さり、弾かれたように吹き飛んだ。しかし墜落には至らない。
吸血鬼は街から離れる方向へ飛び去っていく。
その姿が見えなくなった頃、ようやく二人は緊張から解放された。
「……助かった」
地面に大の字になったアカリが、心の底から安堵したように呟いた。