第二話
一章
「隷属吸血鬼! いっぱいいる……!」
悲鳴に近いリンヤの声を背後に聞きつつ、ユラノは駆ける。前方、四層区に密集する廃屋の合間ではすでに吸血鬼どもと街の住人たちの交戦が始まっている。リンヤの言う通り、いつもよりずっと数が多い。ユラノは襲いくる緊張を振り払うように声をあげる。
「リンヤ、いつも通り!」
「うん! ユラノ、気をつけて……!」
そう言うと、リンヤは街中に縦横に張り巡らされた高架へと上る。細身の体に白く透けるような肌、そしてそれ以上に白い髪――そんな儚げな外見には似合わない俊敏な動作。彼女はあっという間に上り切ると、先行するユラノについて駆けてゆく。遅れは、ごく僅かだ。
ユラノは走りながら腰に下げた鞘から剣を抜き払った。そして最も近くにいたスレイヴに迫る。敵はユラノに気付き、緩慢な動作で振り向いた。
暗く赤い光、どろりとした、濁った目がユラノを見る。爪を振り上げユラノを引き裂こうとしたその動きが、しかし――急に止まる。
スレイヴの脚を、一本の矢が貫いていた。リンヤの射撃だ。ユラノはその隙を逃さない。
「――やぁッ!」
気合一閃、上段からの一撃がスレイヴの躯を両断した。柔らかくも硬くもない、中途半端で嫌な手応え。何度体験しても慣れることができない。
「まずは一匹……!」
スレイヴの骸から溢れ出す腐臭に顔をしかめながら、ユラノは鋭く叫んだ。
まだ数え切れないほどの吸血鬼が、街の中を徘徊している。
四層区東門を破って、壁の中に隷属吸血鬼の大群が侵入――。ユラノたちが所属するフリジア警備隊のもとにその報せが届いたとき、折悪しく主戦力である隊長たちは不在。ユラノとリンヤは、二人でこれに対応することになった。
不幸中の幸いだったのは、現場が四層区――すでに放棄された、誰も住んでいない区画だったこと。しかし吸血鬼の数は多く、すでに四層区の半ばにまで侵入している。もしも三層区への門が破られるようなことになれば、一般住民に被害が出ることは避けられない。
何としても、吸血鬼どもを四層区で押し止める必要があった。
渦巻く怒号と呻き声。吸血鬼の爪と武具がぶつかる金属音。至るところで住人たちと吸血鬼が熾烈な争いを繰り広げている。
通りには、一見して数え切れない程の吸血鬼の骸。幸いにしてその中に倒れた住人の姿は見られない。
また一体、ユラノに向かってスレイヴがやって来る。
人のようでありながら決定的に歪んだ姿。王たちの下僕、腐肉から成る生ける屍――隷属吸血鬼。それは得体の知れない呻きを垂れ流しながら、壊れた操り人形のような動きで迫り来る。動きは緩慢、しかしその腕にある爪、頭部の牙には、人をたやすく殺めるだけの力が備わっている。
爪牙に注意しながら、ユラノはスレイヴに切りかかる。動きはそれほど素早くないため、油断さえしなければ一対一でも何とか退けることができる。
一対一ならば――
「ユラノ後ろっ!」
リンヤの声。反射的に振り返ろうとしたユラノの体が、跳ね飛んだ。家屋の壁に激しく叩きつけられて息が詰まる。視界の端に、一体の、スレイヴ。腕を振り上げている。爪、何かよく分からないもので穢れた爪が振り下ろされる――
ユラノは思い切り身をひねった。頬を浅く抉り、爪は背後、木製の壁を破壊する。反撃しようとしたところに敵は体ごとぶつかってきた。視界いっぱいの腐った躯、背中が強烈に圧迫され、壁が拉げる。一緒になって倒れ込んだ。
「うああああッ!」
叫びながら無理矢理、剣を敵の腹に突き刺す。刃は容易く肉を穿つ、が、敵は止まらない。スレイヴは腕を振り上げ叩き付ける。爪がユラノの腕を裂く。血があっという間に衣服を赤く染める。痛みと切られたという精神的な衝撃が視界が霞ませる。言葉にならない叫びを上げ、ユラノは敵の腹に刺した剣を全力で引く。刃が抜ける――スレイヴは腹部を割られて支えを失う。体をひねり、何とか不利な体勢から抜け出した。
背中を割られたスレイヴはうまく平衡を取れないでいる。ユラノは立ち上がると、剣を振り下ろして頭部を破壊した。ようやくスレイヴは動かなくなる。しかし。
壁に開いた穴の向こうに、新たなスレイヴが姿を現す。
「くっ……」
ユラノは後ずさった。傷つけられた左腕がずきずき痛む。踏みしめられた床がぎしぎし軋む。
スレイヴが、来る。そのとき背後から、声が聞こえた。
「ひっ――」
少女のような高い声。ユラノは反射的に振り返り、そして、驚きに目を瞠った。
(……どうしてっ、こんなところに)
建物の奥。元は食卓だったと思しきテーブルの陰に隠れるように、二人の少女がいた。一人は五歳くらいだろうか、まだ幼い少女。もう一人は、ユラノと同じ年頃――十四、五歳と見える少女。年長の少女は、ちいさな少女をかばうように抱き締めている。
木が踏み砕かれる音。スレイヴはゆっくりと家屋の中に侵入してくる。そして――
少女らを、見た。
「ひぃっ」幼い女の子が悲鳴を上げる。スレイヴはユラノを無視して彼女らのほうへ歩き出す。背中ががら空きだった。ユラノは剣を叩き付ける。断たれて転がるスレイヴの躯。
「う、うぇぇえええ」
広がる腐臭とスレイヴの死骸で限界を超えたのか、ついに幼い少女が泣き出した。
「早く逃げないと!」
ユラノは切羽詰った声で言う。
「分かってる」
女の子をかばっていた年長の少女が答えた。緊張のせいか、とても硬い声。ユラノを、まるで睨みつけるような鋭い眼差しで見ている。深い赤色の瞳だった。髪も同様に赤い。対して顔色はやや優れず、赤と白の対比が鮮烈に映った。顔色が悪いのは、状況のせいだろうか。
赤い少女は泣いている女の子に目線を合わせて、ゆっくりと言った。
「ほら、逃げるぞ。大丈夫か?」
すこしだけ柔らかく、険の取れた声だった。女の子は声に出しては返事しなかったが、こくりとわずかに頷いた。
「僕が護衛する。えっと……」
「アカリ」早口で言う。「こっちの子は知らない」
小さな少女は怯え切った様子だ。名前を聞くことはできそうにない。
「……行こう」
ユラノは手を差し出した。アカリはそれを一瞥、冷たく告げる。
「あたしらと手繋いでたら、戦えないだろ」
「そ、そうだね」
もっともな話。ユラノは慌てて手を引いた。
出入口から周囲を伺い、スレイヴの姿が見えないことを確認。三人は通りに出た。
薄暗い路地。少ないスペースに沢山の家屋を詰め込むように建てたため、街の路地はどこも狭い。隠れて進むには適しているとも思えるが、反面、どこからスレイヴが現れるか分からない恐怖もある。
強く叩き付けられた背中と、爪を受けた左腕が今更のように痛みを訴える。
曲がり角まで歩いて行き、そっと路地の様子を伺う……スレイヴは、いない。
「大丈夫、こっちに来て」
手招きしてアカリたちを呼び、次の路地に向かう。
と、前方の曲がり角の向こうから、ざり……ざり……と、土を踏みしめるような音がする。
歩むような――重たい、音。
「ここに居て」
声を潜めて言う。アカリは神妙に頷く。剣を構えつつ、ユラノは慎重に角から顔を出す。
スレイヴと目が合った。
「――!」
飛び退く。涎ともつかぬ怪しい汁を口からこぼしながら、スレイヴは奇怪な動きで頭部を揺らした。獲物を探るような動き。
それは、アカリたちに視線を合わせる。ひっ、と、小さな少女が、恐怖に慄いた。
「あっ、こら!」
慌てた声。振り返ると、少女がアカリの手を離れ、泣きながら走り去っていくのが見えた。
「そっちは!」
門同士を結ぶ大通りのほう――スレイヴが、最も多い場所だ。
目を離した隙に目の前のスレイヴが襲いかかってくる。何とか身を躱し、距離を取った。少女を追うか、目の前の敵を斃しておくべきか、すこしだけ迷って――ユラノは前者を選んだ。踵を返して二人を追う。
前方、路地と大通りが交差する辺りでアカリは少女に追いついていた。今度は放さないようにぎゅっと手を繋いでいる。
ユラノは安堵する。が、それも一瞬のこと。彼女たちのすぐそばに一体のスレイヴが現れる。
「あぶな――」
絶大な戦慄が叫びを途切れさせる。
ユラノの見ている前で、スレイヴの躯が、開いた。胴体前面、胸から下腹部に至るまで縦一直線の裂け目が入り、扉が開くように左右に割れた。スレイヴの中身、大小無数の牙が乱雑に生え、異様な粘液が糸を引く、不気味に蠢く赤黒い臓。
それは人から血を奪うための姿、吸血鬼の真髄――吸血態。
もはや人の形すら止めなくなったスレイヴから、しかし、アカリは逃げなかった。覆いかぶさるようにして少女をかばったのだ。
やけに、ゆっくりと――躯を開いたスレイヴが、アカリにのしかかる過程が見えた。
「うっ、ぐ……」
アカリの苦悶が、はっきりと耳を打つ。赤。背中に食い込む無数の牙。滲み、溢れ、流れる血。少女の泣き叫ぶ声が、どこか遠い。
「――こ、のっ……!」
ようやく追いついたユラノは、一撃の下にスレイヴを切り伏せる。動かなくなった骸をアカリから引き剥がし、彼女の状態を確かめる。
アカリは――動かない。服はぼろぼろに破れ、酷い傷が覗いている。血に塗れた背中はどこからどこまでが傷口なのかよくわからないほどだ。
「う……」
小さく呻く。まだ息はある、が――早急に手当てしなければ、このままでは――。
「あ、ああっ」
少女の体の下、女の子が悲鳴をあげる。ユラノは振り向く。
スレイヴが来ている。手前に二匹、少し向こうにもう一匹。更に先ほど路地で遭遇した一匹も迫りつつある。
(このままじゃ)
アカリが一緒では逃げられない。戦うしかない。
だが、できるのか。四体。二体でも厳しいというのに、四体。しかも傷付き倒れたアカリと、無力な少女を守りながら戦わなければならない。リンヤや他の人の援護もない。
……駄目かもしれない。
体の中身がひっくり返りそうな気持ちの悪い感覚、絶望感。スレイヴが爪を振り上げながらゆっくりとしかし確実に迫ってくる。
そして――冷気が、頬を撫ぜた。
『――〈氷穿花〉!』
ユラノの目の前のスレイヴが、地から伸び上がった氷の柱に貫かれ、宙吊りになった。さらに氷柱から枝分かれした細かな氷の尖端が、スレイヴを内側から破壊する。
花開くような、氷の蹂躙。
一瞬のうちに四つの氷花が咲き、その場のすべてのスレイヴは破壊された。ユラノは大きな安堵とともに振り返る。
三層区へ向かう道の先から、凛とした冷風が吹き付けてくる。いつのまにか道は霧に覆われていた――それを裂くように、二人の人影が現れる。
一人は右手に短剣を握った少女だった。まだ幼く、年は十歳程。しかし彼女の淡青色の瞳には年齢相応のあどけなさは感じられない。きっと前を見据える眼差しには、知性と勇敢さが同居している。
もう一人は、やや柔らかな印象を持つ少女。隣の少女に比べると頭ひとつ分ほど背が高い。彼女は左腕だけ袖の無い服を着ていた。隣の少女に寄り添う彼女の左腕には、鮮烈な赤色――血の跡があった。
「隊長!」
「わたしたちが来たからには、もう大丈夫」
短剣の少女はユラノを見て微笑んだ。そうすると年齢に沿った、可愛らしい表情になる。
だが、笑顔はすぐに消える。道の先から新たなスレイヴどもが現れたのだ。数は五。
二人の少女は鋭く、言葉を交わす。
「いくぞ。ミオ」
「はい、プリス」
片袖の少女、ミオは晒した左腕を持ち上げる。まるで捧げるような所作。
短剣の少女、プリスはミオの腕を取ると、短剣を静かに当てがった。
そして、そっと――しかし素早く。短剣を使って、プリスはミオの腕を切る。
血が流れる。ミオはその様子をじっと見つめている。眉ひとつ動かさない。
プリスの持つ短剣が、ミオの血で赤く染まる。血が短剣の腹に刻まれた溝を満たし、複雑な紋様を浮かび上がらせる。――儀式短剣に、血が通う。
プリスは短剣を持ち上げ、スレイヴどもを狙うように切っ先を突きつける。
そして小さく、はっきりと呟いた。
「〈繋血〉」
短剣が赤く輝く。その光はミオの指、嵌められた指輪に伸び――繋がった。プリスの短剣とミオの指輪、二人を結ぶ、赤い糸。
『貫け氷花。刹那の墓標となれ――』
プリスとミオ、二人の口から魔法の呪文が紡がれる。詠唱に呼応して周囲の気温が急激に下がり、霧に煙る。その中に浮かぶのは五本の氷の槍。
『――〈烈氷槍〉!』
槍が射出される。猛烈な速度で飛び、スレイヴどもを次々貫く。瞬きほどの間に五つの凍えた肉の塊が出来上がっていた。
プリスはほっと息をつき、短剣を下ろした。二人を繋いでいた赤い糸が光の粉を散らして消滅する。そしてユラノたちのところまでやって来た。
「……酷い怪我」
アカリの傷を見たミオが痛ましそうに顔を歪めた。プリスも怒りをこらえるように眉根を寄せる。その顔を見たユラノは、まるで自分が責められているような気になった。
「ユラノ。きみは大丈夫?」
「うん……ごめん、隊長。僕がもっとしっかりしていれば」
「いや、仕方ないよ。それを言うなら、わたしたちがもっと早く来てればね……」
そう言って、自分の短剣を見るプリス。
彼女はすぐに顔を上げた。
「スレイヴはわたしたちが片付ける。ユラノはこの子たちを逃がしてやってくれ。……でも、その前に応急手当が先か」
ミオが驚いたような声をあげた。そこには焦りの色がある。
「プリス。この子」
アカリの顔を見たプリスも驚きに目を瞠った。
「……アカリか」
そして切羽詰った声で言う。
「ユラノ、できるだけ急いで、この子をチウ爺のところに連れて行くんだ」
急に態度を変えたプリスを、ユラノは訝った。
「どうしたの、なんで……」
「……噂くらい聞いてるだろ。この子は――」
プリスはやるせないような、憐れむような、しかしどこか悔いているような、とても複雑な表情で言った。
「〈血の恋人〉なんだ」