第十四話
「……血約って、実際にはどうすればいいんだ?」
「指輪をはめて、血約するための誓いの言葉――血約誓詞を唱えるんだ。僕が言った通りに言ってくれればいい」
わかった、と頷く。
「それじゃ、指輪をはめるから……手を、出して」
アカリは素直に手を差し出してくる。ユラノは静かにその手を取った。
触れるのは初めてではないはずなのに、その柔らかさに驚く。胸が高鳴った。
緊張に震える手で、ゆっくりとアカリの薬指に指輪を通す。それはアカリのために作られたものではなかったはずなのに、不思議とぴったり彼女の指に合った。
「それじゃ始めよう――『僕らはここに、血約する』」
儀式短剣の刃をアカリの指輪にあてがい、儀式の開始を宣言する。
儀式短剣と血約指輪が仄かな赤い光に包まれた。温かくもどろりとした、まとわりつくような血色の光。
「騎士は傷を、ブリーデは血を」
アカリに続けるよう、視線で促す。
「えっと……『騎士は傷を、ブリーデは血を』」
「互いに捧げ、これを証す」
「『互いに捧げ、……これを、証す』」
血色の光は脈動するように明滅し、次第に色濃く広がってゆく。同時に意識の底から未知の感覚が浮かび上がってくる。
見ればアカリも戸惑ったような表情を浮かべていた。わずかに頬が上気している。きっと同じものを感じているのだ。それは熱く、締め付けられるような気持ち。指輪と合わせた短剣から、とても大切なものが流れこんでくるようだった。
繋がりゆく、赤い糸のイメージ。心の中核に辿り着いてしっかりと結びつく――そんな実感が、次第に明確な形を取ってゆく。
かつてない昂ぶりの中、二人は血約誓詞を紡ぐ。
『――つらいときも、哀しいときも――』
『――泣いているときも、不幸せなときも』
リンヤは指輪を指にはめ、カイは短剣をそれに合わせて、血約誓詞を紡ぐ。血約具から漏れる光をキララから隠すように、二人で身を寄せ合う。
『赤い糸で結ばれているときも、そうでないときも――』
キララはまだ、気付いていない。氷の分解は進み、もうほとんどキララの身体は解放されていた。血約が完了するのとどちらが早いか分からない。
『痛みを分かち、手を取り合い苦難を乗り越え』
儀式が進むに従い、リンヤとカイの心の中にもかつてない感覚が浮かび上がっている。
『互いを守り、慈しみ――』
その温かくて力強い昂ぶりにあてられて、リンヤは静かに涙を流した。
『――絆を守り、育むことを』
光が溢れる。まるでこの世界に自分とアカリ、たった二人しかいないように錯覚する。
意識の底から、二人を結ぶ血約名が浮かび上がる――。
「僕、騎士――ユラノ・セイエ=フォイエルと」
「その血約者――アカリ・セイエ=ティンカーレッドは」
二人はどちらからともなく、互いの手を絡める。
『共に、誓う』
「絆を守り育むことを、ぼく、騎士……カイ・ブレイア=ゼファードと」
「わたし、血約者リンヤ・ブレイア=シルフィーデは共に誓う」
もうすぐ血約できるというとき、キララがリンヤたちを振り向いた。
ついに、気付かれた。
「……騎士。お前たちも!」
焦りが生まれる。あと少しなのに――
「騎士は……敵、だ」
キララの両目が輝き、散らばった瓦礫が巻き上がって杭となる。
どうしよう、一度儀式を中断して杭を避けようか、それとも――。
リンヤは逡巡する。しかし、行動に移る前にキララの様子が変わった。
突然視線を翻し、じっ――と床の一点を睨みつける。体がわなないているようにも見えた。
どうしたというのだろう。いや、これは好機。早く血約を――
「……血約なんて」
キララがそう囁くと、杭が元の瓦礫に戻ってばらばらと落ちた。そして床に手を突き、叫ぶ。
「許さないから……ッ!!」
キララの手から赤光が溢れ、床が分解される。
轟音が響いて顔を上げると、天井が溶けるように消え、巨大な穴が広がってゆくのが見えた。
そこから垣間見える先には、
「……血約なんか、させない!」
狂乱して叫ぶキララの姿が。
「……どうする!」
切迫した声でアカリが言う。血約はまだ終わっていない。キララは身を乗り出し、今しがた開けた穴から降りて来ようとしている。
ふいに――その身体が、横に吹き飛んだ。キララの姿が視界から消える。一瞬、赤黒い影が穴を過るのが見えた。
「なんだ……!?」
「分からない、けど……今のうちに!」
ユラノは繋いだ手に力を込め、誓句を紡ぐ。
『僕らの血と、傷にかけて――』
そして儀式短剣で傷をつける。まず自分の腕に。
そして、アカリの腕に。
急がねばならない。それなのに、凄まじい緊張に手が震えた。彼女の腕を取り刃をあてがう。一瞬だけ動作を止めて、目を合わせる。
アカリの瞳は一切、揺るぎない。
刃を引いた。想いを込めて、できるだけ痛くないように――。
白い肌の上に一筋の線が引かれた。血が珠となって浮き出し、繋がり、筋となって流れ出す。まるで自分の体を切るような――いや、それ以上の痛みがユラノの心に刻まれる。
そしてユラノとアカリは、互いの腕をそっと近づけた。
傷と傷とがひとつに触れ合う。血と血が触れて混ざり合う。
――誓いの傷は、交わされた。
今こそ血約が成されるとき。二人は最後の言葉を静かに告げる。
『――愛が二人を、別つまで』
繋がった。
赤い光、煌く粒子の乱舞――。
儀式短剣にアカリの血が通い、ユラノとの間に魔力の路が結ばれる。
その形は赤い光の糸。指輪と短剣、血と血を繋ぐ、二人の絆の証そのものだ。
赤い糸は二人の周囲を幾重にも巡る。まるで祝福するようにゆらゆらと揺れながら、煌く魔力の残滓を降らせている。
例えようもない力と昂ぶりが総身を満たす。
傷の痛みを超えて、繋がる安らぎが心を支配する。
全ては交わした血の約束の下に。
二人は今――騎士と血約者になったのだ。
溶けるように天井が抉れ、崩落する。その向こうから姿を現したのはまるで泣きそうに顔を歪めたキララの顔。
「――血約したなっ……!」
その両手が赤く輝き、周囲の土と建材が剥がれて渦を巻く。
「裏切り者ぉっ……!」
渦が集束――巨大な杭になる。そして、それは落ちる。
「許さないからっ!」
空を裂く轟音を響かせ、絶大な破壊力の塊が落ちてくる。
ユラノの意識の底から、一つの呪文が浮かび上がる。
『……舞え』
短剣を突き出し、そこに通い満ちるアカリの血――血の恋人の凄まじいばかりの魔力と、彼女との絆をいっぱいに感じながら、声の限りに叫ぶ。
『万象を清め灼き払う、浄却の閃火――』
短剣の周囲を焔が巻く。紫から赤へと至る七色の虹焔、それは急速に展がり渦を成してユラノたちを取り囲む。
『――〈虹焔閃舞〉!』
虹の閃光が刹那、全てを塗り潰す。烈しい光の奔流、再び視界が元に戻ったとき、ユラノたちの目に最初に飛び込んだのは広がる大空だった――魔法によって、上天にまで至る巨大な空洞が穿たれたのだ。
陽光の中を、かすかに残った虹のかけらが舞う。
駆け寄るリンヤの目の前を下から溢れた虹が通過した。思わず声をあげて後ろにへたり込む。凄まじい光と熱量、轟音――視覚を奪う虹の乱舞。
魔法だ。……きっと、ユラノたちの。
安心と絶望に、心が激しく揺れた。ユラノは生きている。そして、アカリと血約したのだ。
リンヤは自分とカイを結ぶ赤い光の糸を思った。ユラノとアカリの間にも、これがある。
「うう……っ」
横から呻き声。リンヤははっとしてそちらを見た。キララが呆然と上空を――虹が去った方向を見ていた。キララはとつぜん歯噛みすると、虹が穿った穴をぎち、と睨みつける。体に刺さったままの赤黒い棒のようなものを乱暴に抜き投げ捨てると、大きく腕を振りかぶった。
その手を、怒りを込めた様子で叩き付ける。
分解。溶けるように床が消滅し、支えを失って崩落する。キララも諸共に落下していった。直接ユラノたちを手にかけるつもりなのだ。さっきの凄まじい魔法があれば、ユラノは平気かも知れない――一瞬そう思うが、だからと言って何もしないではいられない。
「カイ、早く……!」
走り寄ってくるカイの遅さに焦れる。床に空いた大穴を覗き込むと、キララはユラノたちのすぐそば――いや、アカリの真上に、覆いかぶさるように落下していた。
「早く魔法を!」
「う、うん……」
息の上がったカイを急き立てる。騎士はカイだから、彼が来ないと魔法を撃てない。それがもどかしい。まだ繋血は解けていない――すぐに魔法を撃てる。
「でも、ここからじゃ、アカリさんも巻き添えになっちゃうよ」
「なに弱気になってるの」
リンヤはそっと、構えるカイに手を添える。
「わたしたちは、騎士になった」
今カイの左手には、赤血色をした巨大な棒のような物が握られている。拳を中心として、ゆるく湾曲した棒が両側に伸びた形状――その先端同士は、一本の細い線で結ばれている。
それは差渡し二・五メルを超える、長大な弓。カイの顕した魔法の形だった。
「――だったら。狙ったもの以外に当たるなんて、ありえない」
リンヤは血の弓を握るカイの左手に、自分の手をそっと重ねる。右手も同様に儀式短剣を握る手に触れる。背後から抱擁するように――
「私も一緒に、狙ってあげるから」
「……うん」
カイは右手を上げた。弓引くイメージ。それは具現化し、短剣の剣身から魔法の矢が顕れる。
『ぼくらの意に沿い、仇を射抜け――』
重なる二人の手から、血色の矢が放たれる。
瓦礫と共に落ちてくるキララを、ユラノはじっと見た。その表情は怒りよりも悲痛に染まっている。彼女はユラノを目掛け――
「キララ……!」
アカリが間に入ってきた。着地、一緒になって床に倒れこむ。ユラノは反射的に短剣を構えるが、アカリに鋭い声で制される。
「やめろっ、……キララもだ。もうこんなこと、やめるんだ」
キララの下で組み伏せられるような体勢にありながらも、アカリの声に恐れや弱さは微塵もない。逆に、キララが自分から離れて行かないようしっかりと腕を掴んでいる。
「それはこっちの台詞だよ! お姉ちゃんは血約した。騎士の味方になった。わたしを裏切ったんだ!」
「何言ってるんだ! 騎士とか吸血鬼なんて関係ない、あたしはキララと一緒にいたいし、他の奴だってそう思ってる。あとはキララ自身があたしたちと一緒に居ようとするかどうかって問題だろう!」
アカリはキララの顔を引き寄せて、殆ど目と目が触れそうな距離で訴える。だが、キララは激しく首を横に振る。
「うそだ……っ」
「嘘じゃない」
「うそだ。どうせわたしを殺しに、騎士がやってくる。そうなったときお姉ちゃんはわたしを庇ってくれるの!?」
「決まってるだろ」
アカリの答えに、迷いはない。
「庇うに、決まってるだろ……」
「おね……ちゃん」
キララは一瞬、言葉を失った。瞳の輝きがわずかに弱まったようにも見えた。そのとき。
赤黒い塊――魔法の矢が凄まじい速度で飛来し、キララたちのすぐそばまで到達すると進路を直角に曲げてキララの胸を――キララだけを貫いた。
「ぐっ、」
大人の腕ほどもある太い矢が、キララの胸から生える。苦しげな呻きと濡れた音。キララはそれをゆっくりと見下ろし、囁く。
「や、っぱり……」
瞳が激烈に輝き、沸騰、爆発する。
「騎士なんかっ、信用できない!!」
「ぅあっ……?」
血霧――、気の抜けたような、アカリの声。
「っぐっ、あ……、あああっ……!」
絶叫が弾ける。アカリの腕が消えている。断面が真っ赤になって、血が、おそろしい量の血が、そこから溢れ出している。
「――!!」
ユラノは声にならない声で叫び、短剣をキララに向けた。我を忘れ、呪文を唱えかける。
すると何事もなかったように、アカリの腕が元に戻った。流れ出た血さえもが消えている。
「……ぁ……?」
呆けたような、アカリの声。たった今消失し、元に戻った自分の腕を、夢から覚めたような目付きで眺めている。
「痛かった……?」
キララはアカリの腕を掴んだまま、静かにそう言った。
「へへっ……」
笑う。
「何度も壊して、たくさん治せば。お姉ちゃん、痛すぎて、言うこと聞いてくれるよね……?」
笑っている。いや、目は全く笑っていなかった。うつろ。疲れてしまったような、生気の欠片も見えない壊れた笑顔。
その表情と、今しがたキララがアカリにしたことが、ユラノにはっきりと理解させた。キララは本気だ。本当に何度でもアカリの体を分解して、痛みを味合わせた後何事も無かったように元に戻す。残るのは激痛の経験のみ。アカリがキララについていくと言うまで、それは続く。
どすん――と、リンヤたちの二射目がキララの体を貫く。
「うっ……邪魔、だな」
キララは一度自分を分解して、すぐそば――ただしアカリの上からは離れた場所に現れる。ユラノは夢中でアカリの手を取り、キララから距離を取った。
腕の中のアカリが、震えている。彼女は何度も自分の腕を見る――そこにあることを確かめるように。そして気丈にも、キララの姿を見る。
彼女の鼓動を感じる。おそろしく速く、不規則で――しかし、弱々しかった。はっきりと感じられるのに、とても弱くて今にも止まってしまいそうな鼓動。
怖がっている。
「やっぱり、騎士からやらないとだめかなぁ」
おそれている。
アカリは、キララを……おそれているのだ。
「……やめろ」
繋血ゆえにユラノの意志をはっきり感じ取ったアカリが、服の袖を掴む。
「やめてくれ……」
何度でも繰り返す。アカリはさっきのような痛みを、何度も味わうことになる。彼女はきっと諦めない。最後までキララについていくとは言わないだろう――本当に、壊れてしまうまで。
そんなことを見過ごすことはできない。……絶対に。
「へへっ」
キララはユラノの姿を見て、また笑い声をあげた。
ユラノは呪文を紡ぎ出す。それはユラノとアカリ二人だけの魔法――それなのに……
「へ、へっ……やっぱり最後は、そうなるよね」
……昂ぶりは、無くて。
また一本、キララを赤黒い矢が貫き、身体を地面に縫い止める。
ユラノの短剣を囲むように、炎が――赤から紫へと至る七色の虹焔が生まれる。
アカリがユラノの腕を掴んで、やめろと叫ぶ。
それでもユラノは呪文を止めない。虹焔が猛々しく揺らめいた。
……魔法が完成する。
ごめん、キララ。
――さようなら。