第十三話
分解された氷は魔力の残滓となり、薄赤く煌きながら散り落ちる。キララの瞳には再びあの赤く禍々しい輝きが戻っている。今のところ上半身までが自由になっているが、さらに氷の分解は続いている。いずれ下半身も解放されるだろうと思われた。
「やっぱり……生きてたんだな」
「うん。わたしはこれくらいじゃ、死なないよ」
まるで吸い寄せられるようにキララに近付くアカリを、ユラノは制した。
キララはその様子を、無表情に眺めている。
「あたしは、キララに言わなきゃならないことがある」
「何を……?」
「お前はキララじゃない、……って、言ったことだ」
アカリはユラノの制止をほどいて一歩前に出る。キララはあくまで無表情だ。
「お前は、やっぱりキララだ。ただ、吸血鬼のせいで、ちょっとおかしくなっちまっただけなんだよな。だから、ごめん。キララじゃないなんて言って、ごめん……」
「いいよ」
アカリの表情が安堵に晴れる。しかし。
「別に、いいよ。だってお姉ちゃん」キララの顔に、表情は無い。
「……ユラノくんと血約して、血約者に、なるんでしょう?」
暗闇と冷気が突然噴出したかのようだった。ひたすらに平板で無感情なキララの声は、怒りと恨みを圧縮したもの。底無し沼のように淀んだ視線がアカリの安堵を消し飛ばす。
「騎士は敵……ブリーデも、敵……」
喋るうちに、少しずつキララの様子が変わってゆく。
「でも、お姉ちゃんは……わたしの……うぅ」
苦しそうに呻く。手で顔を覆い、激しく掻き毟った。皮膚が破れて血が滲み出す。頬が見る見る内に赤く濡れ、一粒、顎から血が滴り落ちた。
唐突に動きを止める。血塗れになった自分の両手を見つめ、夢うつつに呟く。
「……お姉ちゃんは。わたしを……裏切っ、た」
「違う!」
「うぅ、う、うるさい!」
悲鳴のようなアカリの声はキララの絶叫に掻き消される。
そしてユラノを睨み付けた。
「お前が……全部悪い! お前がわたしから、お姉ちゃんを奪ったんだ!」
「違う、あたしはキララから離れてなんてない!」
「うそだ……! だったらなんで、血約なんてするの!?」
キララは身を乗り出し叫び続ける。下半身を覆う氷にも分解が及び始めた。危険を感じ、ユラノは半ば無意識にアカリの手を取る。キララがそれを捉える。
異常に静かに、言った。
「……逃げるの?」
「何言ってんだ……、あたしは、逃げたりしない!」
「だったらその手はなに……? 逃げないでよ。お姉ちゃん……逃げないでよ……! 置いていかないでよ!」
キララは激しく暴れ、そのたびに氷から赤い煌きが散ってゆく。だが、まだキララはその場から動くことができない。
「そいつとなんて、行かないで――」瞳が、急激に、輝いた。「ここに、いてよぉっ!」
ユラノたちの周りの床が剥がれて浮き上がり、集まって一本の杭になった。鋭い切っ先がユラノに向かって放たれる。アカリの身体がぶつかって来て一緒になって転がった。杭は二人のすぐそばに突き刺さり、飛び散った破片が頬を打つ。
「うっ……」
アカリの呻き声。ユラノは慌てて身を起こす。
赤い――、血。
夥しい血がアカリの腕を濡らしている。床に突き刺さった杭が、アカリの腕を抉っていた。
「アカリ!」
「だい……じょうぶだ。心配、すんな」
腕を押えながら身を起す。その様子には苦痛が隠しようもなく、滲んでいた。
「……なんてことを」
見上げる。キララは静かにそこにいた。
激情はどこかに消えてしまっていた。それだけではない。悲痛な表情も、他の何も、もはやその顔には浮かんでいなかった。
無表情。
ただひたすらに静かでうつろだった。まるで何か突き抜けたような――
「……お姉ちゃん……」呟く。「……痛い?」
「当たり、前だろ」
「そうだよね。うん。わたしわかった。わかっちゃった」
そう言って、キララは笑った。
「痛い思いさせればいいんだ」
「何……?」
「どうせ治せるんだもの。お姉ちゃんのこと、たくさん傷つけても大丈夫。わたしのところにずっといるって約束するまで、何度でも、痛い思いさせればいいんだ……」
無邪気な笑顔だった。ただ目だけはどこまでもうつろだった。それは絶対の真理に気付いた子どものような、とても純真で残酷な笑顔。
「ねえ、お姉ちゃん」
そっと手を差し伸べ、キララは願いをかける。
「わたしのところに、ずっと、居てくれるよね?」
ぞっとする。「――逃げようアカリ!」
ユラノはアカリの手を掴むと出口めざして全力で駆け出した。折れた腕が激痛を訴え背後からはアカリの苦しげな声まで聞こえてくるが、それでも走る。例えようもない恐怖がユラノの背中を押した。
「逃がさない」
再び床が剥がれて杭となり、ユラノに向かって撃ち出される。何本も杭が放たれ体を傷つけられながらも、ぎりぎりのところでユラノはアカリと逃げ続けた。
何度目か、避けた後。
「あは……。もう逃げ場がないね」
いつのまにか、二人は崖を背にしていた。絶望的に黒い淵がまるで二人を待ち受けるかのように口を開けている。
「まずはきみから、串刺しにしてあげる……」
ユラノは崖を覗き込んだ。そして素早く、アカリにだけ聞こえるように言う。
「――飛び降りよう」
「何だって?」
「下の階に降りるんだ。僕は一度落ちてるし、たぶん、死にはしない」
アカリも崖を覗き込み、息を呑んだ。
決意は一瞬。
「……わかった。お前を信じる」
アカリの手を強く握った。それ以上の力が繋いだ手を通して返ってくる。
頷き合う。
そして二人は跳んだ。
リンヤは廃教会に入った途端、杭の一撃がユラノとアカリを突き落とす場面を目にした。
「……うそ?」
力が抜けて弓矢を取り落としそうになる。それを危ういところで止めたのは、キララの姿。罅割れた氷から上半身を出して真っ赤な髪を振り乱し、今ユラノたちが落ちて言った崖の縁を血塗れの形相で睨みつけている――それは……
――敵、だ。
そう認識した瞬間自動的に体が動いた。弓持つ左腕を跳ね上げると同時に矢筒から一本の矢を引き抜き、つがえて弦を引き絞る。何千と繰り返した必殺の動作、その両腕に込めるのは全力と、敵への殺意。だが――
(これじゃ、当たらない……)
このまま撃っても、絶対に、当たらない。
リンヤの天性が、そのことを理解させた。このまま撃っても無駄だ。いまの自分では絶対に当たらない。なぜなら。
首筋――どうしようもない虚無感が意識を侵す。ずっとあったもの、そこにあるのが当然だったものが、今はない。その小さな、しかし重大な差異が、リンヤの射撃感覚を完全に狂わせた。天性だからこそ、それは微細なずれで崩れ去る。
(ユラノのマフラーがないと……わたし、弓が撃てないんだ……!)
キララはゆっくりと氷を分解し、戒めから抜け出そうとしている。赤い光の粒子が散る。少しずつ、それは勢いを増しているように見える。きっとあれが消えたとき、キララは完全に解放されるのだ。
リンヤには一瞥もくれず、ただじっと二人が落ちた崖を睨んでいる。
――追うつもりなんだ。
絶望。体が感覚を失くした気がした。崖から突き落としただけでは飽き足りないのだ、殺して死体を確認するのか、あるいは吸血鬼ゆえに血を吸うのか、そうするまで満足しないのだ。なのに今の自分では何もできない。ただ敵がゆっくりと戒めを解いていくのを指をくわえて見ていることしかできない。
このまま何もしなかったら、ユラノはきっと死んでしまう!
何か。何か今できることはないか。弓以外に自分にできること。敵を止めることができるだけの、力。
ざり――、と、背後から瓦礫を踏む音が聞こえた。振り返る。
あ……。
あった。私に今、できること。
リンヤは弓を放り捨てた。もう、これは要らない。
彼に近付く。ずっと彼女の後をついてきていた、カイに。
落下、不快な浮遊感、衝撃。激痛。
「だい、じょうぶ? アカリ」
半ば無意識に繋いだ手に力を込めると、ぐっと力が返ってきた。次に声が聞こえ、安堵する。
「あたしは大丈夫……お前のほうこそ、どうなんだ?」
言われて初めて自分の体に意識を向ける。折れた左腕が酷く痛んだが、我慢できないほどではない。他の箇所も特に大きな傷を負ったりはしていないようだった。自ら覚悟を決めて跳んだのが良かったのかもしれない。
「僕は大丈夫だけど……アカリの腕が」
アカリの腕は真っ赤に染まっていた。キララに抉られた傷から、血が止まらず流れている。
「ああ……」
アカリは曖昧に返事をすると、懐から布を取り出して傷口に当てる。キララの薬だ。
そして天井を見上げ、じっと動かなくなる。遠く、向こう側を見通すような視線。
ユラノもつられてそちらを見る。
天井は崩れかけ、一部からは木の根や蔓のようなものがぶらさがっている。今その向こうにいるのは――。
「……キララは、元に戻ると思うか?」
ユラノは、すぐに答えられなかった。
「この薬を作ってくれたのは、キララだった。今思うと、吸血鬼の力を使って作ってたんだよな……。あたしのことを、守ってくれてた。なのに、今は」
ぐっと、苦しそうに目を細める。
「あたしを……痛めつけて、言うこと聞かせようとするなんて……」
傷口を押える手に力が込められる。痛みをこらえるようにじっと上を見る。
「何とかして、元に戻してやりたい。どうしていいかは分からない……けれど、少なくとも今のままじゃ駄目だってことだけは、分かる」
そして、ユラノを見た。
「血約ってやつをすれば――お前は、魔法を使えるようになるんだよな?」
ユラノは目を瞠った。アカリは、魔法を使えと言う。それはつまり――
「だめだよ。魔法を使うには、血を流さないといけないんだ。血が止まらないきみじゃ……」
「分かってる。覚悟は、できてる」
アカリは真っ赤に染まった腕を上げ、握った拳を、真っ直ぐユラノに向けて突きつけた。
「キララが力でこっちを捻じ伏せようっていうなら、こっちにもそれ以上の、力が要る。でないとまともに話すことだってできない。……違うか?」
「それは、そうかもしれない、けれど……」
「お前になら、切られたっていい」
「え……?」
アカリは目を逸らさずに、はっきりと言う。その頬が、少しだけ、染まっていた。
「……正直言うと、お前が血約しようって言ったとき、嬉しかったんだ。お前が本気だってことがよく分かったから。だから、お前にだったら、切られてもいい。それに、あたしはキララを救いたい。この体が役に立つって言うなら喜んで捧げてやる」
アカリの瞳がはっきり見える。いつも曖昧に揺らいでいた彼女の目は、今は全く揺らいでいなかった。
「勘違いするな。もう死にたいなんて言わねえよ。どうせあたしが死ぬほど切ったりはしないんだろ?」
「う、うん。もちろんだよ」
「だったら、あたしを切ってくれ。血約ってのをして、魔法で――キララを何とかしてくれよ……。それとも、お前には、あたしを切る覚悟は無いって言うのか?」
揺ぎ無い意志を視線に込めて、アカリは問う。いや、これはきっと、問いではない。
確認だ。
覚悟はあるか? ――答えは当然、是だ。血約を申し込んだ時点でもう覚悟は決まっている。アカリを傷つけ、彼女と痛みを分かち合う。それが血約するということだ。
アカリはキララのことで痛みを負ってしまった。今それを贖えるのはユラノだけだ。ユラノがつける身体への傷だけが、アカリの心を癒し得る。
……本当にできるかどうかは、でも、分からない。ただの可能性でしかないかもしれない。アカリの体も保たないかもしれない。寝台に横たわるミオのように……けれど――
それが、アカリのためなら。
魔法を使うことによってしか、アカリの力にはなれないなら……。
「分かった」
アカリに負けない強い意志を持って、彼女の視線を受け止める。
「僕はきみを守るために、きみの身体を傷つける」
ユラノは手を伸ばし、突き出されたアカリの拳をそっと包み込んだ。
「血約しよう」
「お願い――血約して、カイ」
言われたカイは目を丸くして驚いている。それはそうだろう、こんな状況で突然血約を申し込まれるなんて、予想もしていなかったに違いない。けれどこんな状況だからこそ、血約しなければいけないのだ。吸血鬼がユラノを殺そうとしている今、それに対抗するだけの力が必要なのだ。そんな力があるとすれば、魔法以外にありえない。
魔法を使うには騎士及び血約者になる人間と、一組の血約具――儀式短剣と血約指輪が要る。
全部ここにある。
あとは儀式を行うだけなのだ。
「で……でも」
「いいから。早く血約しようよ」
カイは後ずさる。リンヤの様子に気圧されているようだった。だがリンヤには分かっている。カイは、拒否しない。
知っているのだ。カイの自分に対する気持ちも、騎士への憧れも、何もかも。分かっていて言っている。わたし、嫌な子だな……と思う気持ちが一瞬だけ頭の片隅に浮かんで、ユラノを想う気持ちに押し流されて消えた。
「これ、儀式短剣。持って」
押し付けるように渡す。
「血約誓詞、覚えてるよね?」
強引に進めてしまえばいいのだ。
「うん……。でも、本当に、いいの……?」
カイの心配そうな表情が目に入る。自分のことよりも、リンヤのことを想っている顔だった。
胸が痛んだ。カイも全部、分かっているのだ。
でも――今更、止められない。
「いい。早く、しよう。間に合わない」
「……うん」
敵は氷を分解するのと崖を凝視することに集中していて、こちらには全く注意を向けていない。今ならこの場で儀式をしても気付かれることはなさそうだった。――いや、気付かれたって構わない。敵がユラノのところへ行くまでの時間さえ稼げれば、それでいい。
リンヤは指輪を、カイは短剣を持った。
そして彼らは儀式を始める。